闇の女王の城
アリスが足を踏み入れた揺り籠の園は、けれどどこか様子がおかしかった。
お菓子の家は飴細工みたいにぐにゃりとねじれ、チョコレートの橋は行き先を失って宙へと突き出している。色とりどりのキャンディの森は複雑に入り組んだ迷路になっていた。
それでも、アリスの胸に不思議と恐怖はなかった。あの積み木の迷路で出会った少年——リオンから託された温かなシャボン玉の魔法が、心の中にある。それだけで、一歩を踏み出すには十分だった。
「急いでください、急いでください! 時間がないのです!」
大きな懐中時計を抱えた一羽の時計ウサギが、ドタバタと目の前を駆け抜けていく。
「ねえ、どこへ行くの?」
追いかけながら尋ねると、ウサギは振り返りもせずに叫んだ。
「女王の城です!」
「いきなり?」
「いきなりです!」
アリスは思わずくすっと笑った。どうせここは夢の世界だ。理不尽で唐突なくらいが、ちょうどいい。
行く手には、いくつもの迷路が立ちはだかった。
トランプの兵隊が不気味に道を阻み、ねじ巻き仕掛けのおもちゃの兵隊が槍を振り回して襲いかかってくる。空からは、羽の生えた凶暴なキャンディが容赦なく飛び込んできた。
けれど、アリスは恐れずに息を吹き込んだ。
小さな泡、大きな泡。リオンから受け取った、あの月色のシャボン玉を。
放たれた泡は、敵を傷つけることはなかった。ただ、フワリと優しく包み込み、くるくると楽しげに回しながら、そっと迷路の外へと押し出していく。
押し出された者たちは、崖の下へ落ちていきながら、みんな、まるで長すぎる眠りから覚めたような清々しい顔になった。
——眠り。
ふと、アリスは気づいた。
トランプの兵隊も。おもちゃの兵隊も。穏やかな姿に戻っていく彼らの目は、どれも最初、どこか虚ろだった。覚めぎわの、ぼんやりとした目。よく見れば、その身には、ここには似合わない柔らかな布の切れ端がまとわりついている。まるで、現実の——寝間着の切れ端のような。
ずっと眠っていた子供たちが、ようやく目を覚ましたかのように。
胸の奥がざわりとした。けれど、その違和感の正体を確かめる間もなく、迷路は次の角へと続いていく。
夢中で進むうちに、気がつけばもう、目の前に大きな城がそびえ立っていた。
案内していたはずの時計ウサギも、不思議そうに首をかしげる。
「おや……城は、こんなに近かったでしょうか?」
「夢だからじゃない?」
アリスが笑って言うと、ウサギは「なるほど」と深く納得した。
重々しい扉を開けた先、玉座には、闇の女王が佇んでいた。
引きずるような黒いドレスに、禍々しい黒い冠。けれど、その表情はどこか酷く寂しそうに見えた。
女王は、冷ややかな声でアリスを見下ろした。
「私を、倒しに来たの?」
「うん」
「なぜ?」
「みんなが困っているから。元の綺麗な世界に、戻したいの」
女王は、しばらくの間、じっと黙り込んでいた。それから、玉座の周りで眠る子供たちの影へそっと視線を落とす。
「……あの子たちはね」
低い声が、静かに響いた。
「みんな、外の世界で傷ついた子たちなの。誰かに泣かされて、誰かに忘れられて。心がすり減って、この園へ逃げてきた」
女王の指が愛おしそうに宙をなぞる。
「だから私は、扉を閉じた。ここなら、誰も傷つかない。何も失わない。永遠に、お菓子を食べて、遊んでいられる。——それの、何がいけないの?」
その瞳がまっすぐにアリスを射た。
「あなたも。何かを失くしてきたのでしょう」
どきり、とアリスの心臓が跳ねた。
「ここにいれば、もう二度と失わずに済むのよ。忘れることも、ない。……おいで。あなたも、ここで眠ればいい」
その言葉は、甘く、温かく、アリスの胸の傷へとするりと染み込んできた。
何も失わずに済む場所。忘れずに済む場所。
——シロ。
もし、ここにいれば。あの温かい重みも、嬉しそうな尻尾の音も、二度と薄れていかないのだろうか。もう一度、あの晴れた野原を一緒に駆けられるのだろうか。
ほんの一瞬、アリスの足が、玉座のほうへとふらりと動きかけた。
けれど。
アリスはぎゅっと両手を握りしめた。
ここで眠ってしまったら、シロと過ごした日々は、止まったまま。アリスはもう、どこにも進めない。新しい朝も、来ない。
忘れたくない。忘れるのは、今でも怖い。
でも——止まったまま、夢の中でシロを抱きしめ続けることは、きっとそれとは違う。
「……ごめんなさい」
アリスは静かに首を横に振った。
「私、目を覚まさなきゃいけないの。あの子たちも——私も」
そして、そっと息を吹き込んだ。
これまでで、いちばん大きなシャボン玉を。
月色の泡がふわりと女王の身体を包み込む。
彼女を縛りつけていた激しい怒りも、深い悲しみも、世界を蝕んでいた黒い魔法も。すべてが、暖かな泡のなかへサラサラと溶け出していった。
女王は、抗わなかった。
泡の中で、彼女はただ、泣き出しそうな、それでいて、どこか救われたような顔をしていた。
「……ありがとう」
その唇が、小さくそう動いたように見えた。
やがて女王の身体は、月明かりの中で、ぱちん、と淡い音を立てて弾けた。
あとに残されたのは、手のひらサイズの小さな妖精だった。妖精はアリスへ深くお辞儀をすると、まばゆい光の粒となって、空へと消えていく。
次の瞬間、地響きとともに、世界中の迷路が崩れはじめた。
ねじれていたお菓子の家はきれいに元通りになり、険しかった森は瑞々しい緑へ、濁った川は澄んだ小川へと戻っていく。
そして、眠っていた子供たちが、一人、また一人と瞼を開けていく。きょとんとあたりを見回し、それから、安心したように笑う。その目には、もうあの虚ろさはなかった。
時計ウサギが、嬉しそうに飛び跳ねた。
「平和です! 平和が戻ってきましたよ!」
その光景を見届けながら、アリスは満足そうに微笑んだ。
そのとき——。
どこか遠く、空の彼方から、聞き覚えのある優しくて素朴な笛の音が聞こえた気がした。
ハッと気がつくと、アリスは自分の部屋のベッドの中にいた。
すっかり朝になっている。カーテンの隙間から差し込む朝陽が、少し眩しい。
「夢……だったのかな」
起き上がり、ぽつりと呟く。
夢にしては、胸の奥に残るものが、あまりに温かかった。あの女王の寂しそうな顔も、目を覚ました子供たちの笑顔も、まだはっきりと覚えている。
けれど、枕元に目を落としたアリスは、息を呑んだ。
そこには、あの優しく輝く小さなシャボン玉が、ひとつだけ。
朝陽を浴びて虹色にきらめきながら、消えないまま、静かにフワフワと揺れていた。
夢ではなかった、という、たった一つの証のように。




