鏡の中のアリス
その夜も、アリスは眠れなかった。
布団に差し込む月明かりを、ただぼんやりと眺めている。部屋はしんと静まり返り、柱時計の針の音だけが、やけに大きく響いていた。
とん、とん。
布団の中で、アリスは無意識のうちに、指先で軽くシーツを叩いていた。
とん、とん。
昔は、この音を聞きながら眠ったのだ。隣にシロがいたころ。アリスが赤ん坊のときから、ずっと一緒にいてくれた犬。夜になると、布団の脇にぴったりと身を寄せて、機嫌のいいときには嬉しそうに尻尾で床を叩いた。とん、とん、と。その音と、脇に伝わる温かい重みを感じながら眠るのが、アリスにとっての当たり前だった。
でも、シロはもういない。
春のはじめ、すっかり年老いたシロは、静かに息を引き取った。よりにもよって、アリスが学校に行っているあいだに。最期のとき、そばにいてあげられなかった。それだけが、今もずっと胸の奥に、小さな棘のように刺さっている。
悲しいのは、もちろんだった。けれど、最近のアリスをほんとうに苦しめているのは、別のことだった。
——思い出せないのだ。
シロの顔。鳴き声。脇にくっついていた、あの重み。ぜんぶが、少しずつ薄れていく。必死に思い浮かべようとしても、輪郭がぼやけて、するりと逃げてしまう。
忘れたくないのに。
忘れていくことが、まるでシロをもう一度失っていくみたいで、怖くてたまらない。だから夜になると、目が冴えてしまうのだ。消えかけた記憶を、両手でそっと囲い込むみたいにして、アリスは何度も、何度も思い出そうとするのだった。
とん、とん。
指先が、もう誰もいない隣を静かに叩く。
——そのときだった。
ふと、窓辺に置かれた小さなお化粧鏡が、かすかに揺れていることに気づいた。
風なんて、吹いていないのに。
まるで水面のように、鏡の表面がゆらゆらと不自然な波紋を広げている。月の光をたっぷりと含んで、銀色に、とろりと。
アリスは布団から起き上がった。
不思議と、怖いとは思わなかった。むしろ、その揺れる銀色は、どこか懐かしくて、優しくて——まるで、遠くから誰かにそっと名前を呼ばれたような気がした。
吸い寄せられるように、鏡の前へと歩み寄る。
そっと中を覗き込む。
すると、鏡の奥で月明かりがほどけ、眩い銀色の道が、どこまでも伸びていくのが見えた。
次の瞬間だった。
世界がぐにゃりと裏返る。
抗う間もなかった。あっと思ったときには、アリスは鏡の奥へとまっすぐに吸い込まれていた。
——気がつくと、そこは積み木でできた巨大な迷路の中だった。
色とりどりの木片をきれいに積み上げてできた壁と床。どこかおもちゃ箱のような温かみがありながら、見上げるほどの高い壁が、不思議な圧迫感で迫ってくる。
アリスは、ぽつんとその真ん中に立っていた。
たった一人で。
見知らぬ、夜の底のような場所に。
どれくらい、そうしていただろう。
アリスはあてもなく歩き始めた。けれど、迷路は果てしなく続いた。右へ曲がっても行き止まり。左へ曲がっても、同じ景色。空を見上げても、出口の気配すら見えない。
そのとき——。
遠くから、空間を揺らすような鈍い音が響いてきた。
どん。
どん。
どん。
石畳のような床が、足の裏からわずかに震える。迷路の向こう側で、何かが激しく争っているらしかった。
アリスは思わず足を止めた。近づくべきではないと本能が告げている。けれど、引き返す道も、もうわからない。
戸惑っているうちに、ひときわ大きな音が響いた。
どんっ!
激しい衝撃とともに、積み木の壁が崩れ落ち、白い煙がもうもうと立ちのぼる。
その煙の向こう。
崩れ残った高い壁の上に、一人の少年がちょこんと腰掛けていた。
小人のように尖った帽子。古い童話から抜け出してきたような、クラシカルな服装。少年は頬杖をついて、不思議そうにアリスを見下ろしている。
「迷ったの?」
穏やかで、鈴を転がしたような声だった。
知らない場所で、たった一人だった。だから、その声を聞いただけで、アリスの胸の張り詰めていた糸が、ほんの少しだけゆるんだ。
「……出口が、見つからないの」
こわごわ答えると、少年は少し考えるように、気まぐれな仕草で空を仰いだ。
「それなら、歩いて探すより、空へ行ったほうが早いかもしれないね」
そう言って、彼は壁の上から軽やかに飛び降りた。あれほどの高さから降りたのに、着地の音はほとんどしなかった。
「僕はリオン」
「アリスよ」
二人は短く名乗り合った。それだけだった。長い自己紹介はいらない。この奇妙な世界では、それだけで十分に通じ合えた。
リオンは、服のポケットから小さな銀色の笛を取り出した。唇に当てて、そっと息を吹き込む。
すると、彼の口元から、一粒のシャボン玉が生まれた。月光をそのまま閉じ込めたような、虹色にきらめく美しい泡だった。それは弾けることもなく、リオンの掌の上で静かに揺れている。
「これはね」
リオンが誇らしげに微笑んだ。
「風よりも軽くて、夢よりも丈夫なんだ」
アリスは目を丸くした。
「それで、飛べるの?」
「飛べるよ。——でも」
リオンはふっと言葉を切った。その一瞬だけ、いつも何かを見透かしているような彼の瞳に、わずかな迷いがよぎった気がした。けれどそれは、まばたきのあいだに消えてしまう。
「これを大きく膨らませるのは、君だ」
そう言って、彼はそっと掌を差し出した。
不思議なシャボン玉が、ふわりとアリスの前へ流れてくる。
「目を閉じて」
アリスは言われるがまま、そっと瞼を閉じた。
「空を思い浮かべるんだ。高いところじゃなくていい。自分が自由に行ける場所を、強く思い浮かべて」
耳元で、リオンの静かな声だけが響く。
自由に、行ける場所。
ふと、よく晴れた野原を、誰かと一緒にどこまでも駆けている自分の姿が浮かんだ。隣を弾むように走る、軽やかな足音。とん、とん、と嬉しそうに。
胸の奥がつきりと痛んだ。けれどアリスは、その温かなまぼろしを抱いたまま、胸いっぱいに息を吸い込み、目の前のシャボン玉へと、優しく吹き込んだ。
すると、泡がみるみるうちに大きくなっていく。さらに大きく、もっと大きく。やがて、小さなアリスの身体を、すっぽりと包み込めるほどに膨らんだ。
「そう、それでいい」
リオンの声がだんだんと遠ざかっていく。
アリスが驚いて目を開けると、彼女はすでに、巨大なシャボン玉の中にいた。足がゆっくりと床から離れ、身体が宙に浮き上がる。
静かに、なめらかに、カラフルな積み木の迷路が足下へと遠ざかっていった。
「リオン!」
アリスはシャボン玉の中から見下ろした。
少年は迷路の壁の上に立ち、風に飛ばされそうな帽子を片手で押さえながら、小さく手を振っていた。
「ありがとう——!」
精一杯の声を張り上げる。
リオンは、言葉では答えなかった。ただ、悪戯っぽく少しだけ笑っただけだった。
次の瞬間、視界が白い光に包まれる。積み木の迷路も、風変わりな少年の姿も、月明かりの中へ溶けるように消え去っていった。
シャボン玉は、夜空を高く、高く昇っていく。幾重もの雲を越え、きらめく星々の間をすり抜け、夢と現実の境界を漂うように。
やがて、泡はゆっくりと下降をはじめた。
割れることのない窓の向こうに、新たな景色が広がっていくのが見える。
淡いピンク色の空。まるでお菓子で作られたかのような、パステルカラーの色彩豊かな丘。おもちゃの兵隊が守っていそうな不思議な塔に、ぐにゃぐにゃと曲がりくねった、おかしな道。そして、どこまでも続く——お伽話のような迷宮。
フワリ、とアリスは緑の芝生の上に静かに着地した。
役目を終えたシャボン玉は、柔らかな光の粒となって、パチンと弾けて消えていく。甘いお菓子のような風が、そっと彼女の頬を撫でた。
見上げれば、パステルカラーの空に大きな虹が架かっている。
ここはもう、あの仄暗い積み木の迷路ではない。
アリスがこれから挑むべき、新しい世界。
シロの温もりを胸の奥にそっとしまったまま、アリスは両手をきゅっと握りしめ、覚悟を決めて、一歩を踏み出した。
夢の迷宮——揺り籠の園の、奥深くへと。




