名を呼ぶ夜
「みんなで、って」
バウルが、広間を見回した。
「おいらたち、この人たちのこと、なんも知らねえぞ」
「知らなくていい」
アリスは言った。
「知ってるのは、あの人だけだもん。でも、思い出すのって、一人だと重すぎるでしょ。だから、隣にいるの」
「隣に、いるだけか」
「うん」
アリスは、うなずいた。
「私たち、前にそれ、やったでしょ」
リオンが、はっと顔を上げた。
骨の野の夜。焚き火を囲んで、誰も眠らなかった夜。うまく慰めることはできなかったけれど、ひとりにはしなかった、あの夜。
「……そうだね」
リオンは、腰のラッパを外した。
「僕、やっと使い方がわかった気がする」
*
ガルヴァンは、床に膝をついたまま、五人を見上げていた。
「無駄だ」
彼は言った。
「私は、何百年も一人で耐えてきた。それを、たかが一晩で——」
「一晩でやれなんて、言ってないよ」
アリスは、彼の前に、太鼓を置いた。
「今日は、一人ぶんでいいの」
「……一人」
「うん。明日も、一人。あさっても、一人」
アリスは、彼の隣に座り込んだ。
「私、学校あるから、毎日は来られないけど。来られるときに来るよ」
ガルヴァンが、目を見開いた。
「……来るのか」
「うん」
「なぜだ」
「なんで、って」
アリスは、少し考えて、言った。
「一人だと、つらいでしょ」
たん。
太鼓が鳴った。
「……ふん」
アムルが、鼻を鳴らした。
そして、どっかりと床に胡座をかいた。ガルヴァンの反対側に。
「アムル」
「言っとくが、おれはお前を許しに来たんじゃない」
アムルは、腕を組んだ。
「おれも、街をひとつ焼いた。名も知らん連中をな。お前と同じだ。同じ穴の狢が、隣に座っとるだけだ」
ガルヴァンが、こちらを見た。
「……知っていたのか」
「言わなんだだけだ」
アムルは、天井を見上げた。
「おれは、思い出せんぞ。焼いた連中の名など、はじめから知らん。だから、お前が思い出すのを、隣で聞いとる。それしかできん」
「兄貴」
バウルが、その隣に座った。
「おいらも」
「お前は関係なかろう」
「関係あるよ」
バウルは、口をとがらせた。
「おいら、呪われて竜にされてさ。ずっと、なんでおいらばっかりって思ってた。でも、戻れた。誰かが名前呼んでくれたから戻れた。……だったら、今度はおいらが呼ぶ側だろ」
だいすけが、ぱたぱたと駆けてきて、アリスの隣に座った。ランドセルを背負ったままだった。
「オラも!」
「坊主」
「オラ、川んとこから戻ってきたんだ。ねえちゃんが太鼓叩いてくれたから」
だいすけは、ガルヴァンを見上げた。
「おっちゃんも、戻ってこいよ」
ガルヴァンは、その子供の顔を、じっと見ていた。
そして、リオンが、最後に前へ出た。
「僕は」
彼は、ラッパを両手で持っていた。
「僕は、あなたに何もしてあげられない。ここの人たちのことも知らない。あなたが斬った人のことも知らない」
「……」
「でも、音は出せる」
リオンは、ラッパを唇に当てた。
「名前を呼ぶのって、たぶん、すごく孤独な作業だと思うんです。だから、音を鳴らしてます。ひとりじゃないよっていう、それだけの意味の音を」
*
そうして、その夜が始まった。
*
ガルヴァンは、一つ目の箱の前に膝をついた。
「……ハルド」
すでに思い出した名だった。
こつ、と返事がある。
彼は、次の箱へ移った。
蓋に手を置いて、目を閉じる。長い、長い沈黙。
「……老婆だった」
彼は、話しはじめた。
「息子に捨てられたと言った。冬だった。裸足で歩いてきて、足の指が二本、凍って落ちていた」
「……」
「私は、湯を沸かした。あの者は、湯を飲んで、はじめて笑った」
沈黙。
「歌を、歌った」
彼は、そう言った。
「子守唄だった。息子に歌ったものだと言った。……名は」
もっと長い沈黙。
リオンのラッパが、静かに鳴っていた。旋律のない、ただ細く続く音だった。
「……ネイ」
こつ。
「ネイだ。ネイ」
こつ、こつ。
「ネイ。すまなかった」
*
三つ目。
「男だった。片腕がなかった。戦で失ったと言った」
四つ目。
「まだ、若い娘だ。人に騙されて、何もかも失って……名は」
五つ目。
「双子だった。二つの箱に、別々に入れた。……間違えた。この者たちは、一緒に入れてくれと言ったのだ」
その箱の前で、ガルヴァンは、しばらく動けなかった。
アリスは、その隣で、太鼓を叩いていた。
たん。
たん。
思い出せなくて彼が黙り込むたび、その音だけが、広間に響いた。
急かす音ではなかった。
ここにいる、という音だった。
*
夜が、更けていった。
といっても、この城には、時間の目印がない。琥珀色の光は、いつまでも夕暮れのままだった。
だいすけが、途中で寝てしまった。
バウルが、その隣で、こくりこくりと船を漕いでいる。
それでも、名前は、続いていた。
*
十七人目のところで、ガルヴァンの声が、途切れた。
「……もう、無理だ」
彼は、両手で顔を覆った。
「一人ずつ、思い出すたびに、その者が一人になる。一人になるたびに、私が何をしたかが、はっきりしてくる」
「うん」
アリスは、隣に座っていた。
「重いよね」
「重い」
彼は、言った。
「耐えられん」
「うん」
アリスは、ゆっくりと言った。
「でも、それ、大事なものが重いってことだよ」
ガルヴァンの手が、止まった。
「大事なものは、重いの」
アリスは、太鼓を撫でた。
「重いから、大事なの」
*
そして、明け方に近づいたころ。
ガルヴァンの手が、ある箱の前で、止まった。
亜麻色の髪の、女の子の箱だった。
彼は、その前に膝をついたまま、動かなかった。
ずいぶん長いあいだ、そうしていた。
「……この者は」
やがて、彼は言った。
「この者だけは、忘れていない」
アリスは、そっと近づいた。
「いちばん、最後に入れた」
ガルヴァンは、透明な石の向こうの、眠る顔を見おろしていた。
「三十年前だ。この者は、病ではなかった。飢えでもなかった。ただ、家族が、みんな死んだ」
「……」
「村がひとつ、なくなった。私が、間に合わなかったからだ」
彼の指が、蓋の上で、震えていた。
「私が斬るべきものを、斬り損ねた。その夜のうちに、村がなくなった。生き残ったのは、この者一人だ」
アリスの胸が、締めつけられた。
「この者は、私を責めなかった。一度も」
ガルヴァンは、言った。
「私の手を握って、夢の話をした。花の話だ。空から石が降ってくるから、覆いかぶさって守るのだと。そうすると、その花が、死んだ犬になるのだと」
彼は、目を閉じた。
「私は、耐えられなかった」
「……」
「だから、うそをついた。いつか、空も大地も花で埋め尽くすと。石など降らせないと。……この者は、笑った。うそつき、と」
彼の声が、崩れた。
「そして、待つと言った」
こつ。
蓋の内側から、音がした。
小さな音だった。
けれど、はっきりと。
ガルヴァンの肩が、震えた。
「……三十年、待たせた」
こつ。
「まだ、何もできていない」
こつ、こつ。
「花畑など、ひとつも作れていない」
こつ、こつ、こつ。
「なぜ、責めん」
彼は、蓋に額を押しつけた。
「なぜ、責めんのだ」
*
アリスは、その隣にしゃがみ込んだ。
そして、太鼓を、蓋のすぐ上に持っていった。
「ガルヴァンさん」
「……」
「名前」
アリスは、言った。
「この子の名前、呼んであげて」
ガルヴァンの喉が、ひくりと動いた。
「呼べば」
彼は、言った。
「呼べば、私は、この者に、うそをついたことを認めることになる」
「うん」
「償えん」
「うん」
「それでも、呼べと言うのか」
アリスは、うなずいた。
「だって、この子、それを待ってるんだと思う」
彼女は、透明な石の向こうの顔を見た。
穏やかな寝顔だった。
「花畑じゃないと思うよ。この子が待ってたの」
「……」
「名前、呼ばれるの、待ってたんだと思う」
ガルヴァンの目から、涙がこぼれた。
血の通わない白い頬を、まっすぐに伝って、黒い石の蓋に落ちた。
ぽたり、と音がした。
彼は、口を開いた。
そして。
「……セラ」
その名を、呼んだ。
「セラ」
こつ。
「セラ。すまなかった」
こつ、こつ。
「セラ」
こつ、こつ、こつ、こつ、こつ——
蓋の内側から、雨のような音が返ってきた。
それは、責める音ではなかった。
嬉しがっている音だった。
*
その瞬間だった。
ガルヴァンの身体から、ぽう、と光がこぼれた。
「……え?」
アリスが、顔を上げる。
白い光だった。あたたかい、金色に近い光。それは、彼の胸のあたりから滲み出して、ゆっくりと広がっていく。
「ガルヴァンさん?」
「……ああ」
彼は、自分の手のひらを見ていた。
指先が、透けはじめていた。
「そうか」
彼は、静かに言った。
「そういうことか」
「な、なに。なんで透けてるの」
「子供」
ガルヴァンは、アリスを見た。
その目から、赤い濁りが、少しずつ消えていた。
「私は、この者たちを閉じ込めていたのではない」
「え」
「この者たちが、私を閉じ込めていたのでもない」
彼は、広間を見渡した。
無数の黒い箱を。
「私が、この者たちの名を抱えたまま、忘れたふりをしていた。それが、この城だ。この城は、私の頭のなかだ」
光が、強くなっていく。
「名を呼べば、この者たちは出ていく。……そして、抱えるものがなくなれば、私も、ここにいる理由がなくなる」
「そんな」
アリスは、立ち上がった。
「待って。だって、まだ、呼んでない人が——」
「間に合わせる」
ガルヴァンは、言った。
そして、立ち上がった。
透けはじめた大きな身体で、広間の中央へ歩いていく。
「今なら、思い出せる」
彼は、そう言った。
「一人思い出せば、次が思い出せる。名は、名を呼ぶ。……子供。お前が、教えてくれた」
彼は、両腕を広げた。
そして。
呼びはじめた。
「ハルド。ネイ。セラ。トウマ。リサ。イオン。……」
名前が、次から次へと、彼の口から溢れ出した。
「マルタ。ケイン。フィリア。老いたヨナ。鍛冶のバルド。歌うたいのミナ。双子のイルとエル。……」
一つ呼ぶたびに、その箱の蓋が、光になってほどけた。
「魚売りのハンナ。足の悪いソルグ。字を書けなかったペイ。……」
蓋が消え、中から、白い光がふわりと立ちのぼる。
「産まれたばかりで名がなかった子。私が『みどりご』と呼んだ子。……すまなかった。名を、つけてやればよかった」
光が、次々と広間を満たしていく。
*
そして。
ガルヴァンの声が、変わった。
「……そして」
彼は、天井を見上げた。
「そして、私が、斬った者たち」
アリスは、息を呑んだ。
「名を、知らん者が、ほとんどだ」
ガルヴァンは、言った。
「だが、覚えている。顔は、覚えている」
彼は、呼びはじめた。
「洞窟にいた、目のたくさんある女。子を抱えていた。私は、それを見なかったことにして、斬った」
「橋の下にいた、影だけの男。名を聞いたが、答えなかった。答えられなかったのだ。もう、名を失っていたから」
「森の、角のある兄弟。逃げようとした。私は、追った」
一人。
また一人。
「……港の、鱗のある娘。人を襲っていた。理由を聞かなかった。聞くべきだった」
「山の、翼のある老人。すでに死にかけていた。とどめを刺してくれと言った。それだけは、望まれたことをした」
ガルヴァンの身体から、光が、いっそう強く溢れた。
「覚えている」
彼は、言った。
「一人残らず、覚えている。忘れたふりをしていた。……だが、私しか、覚えていない」
アリスは、灯籠を、両手で高く掲げた。
「だったら、呼んで!」
彼女は、叫んだ。
「あなたが呼べば、消えてないってことになるから!」
灯籠の火が、いっせいに燃え上がった。
生き残った者たちの声が、いま、斬られた者たちの声と、同じ場所に灯った。
「——ああ」
ガルヴァンが、笑った。
初めて、笑った。
「そうか。そういうことか」
彼は、名を呼び続けた。名のない者は、その姿を。姿も朧なものは、その最期を。
一人ずつ。
一人ずつ。
夕暮れ色の広間が、白い光で満たされていった。




