最初の一人
広間は、昨日と同じ夕暮れ色をしていた。
何ひとつ変わっていない。塵ひとつない床。整然と並んだ黒い箱。琥珀色の、どこから差しているのかわからない光。
ガルヴァンは、広間の奥にいた。
壁ぎわの箱の前に立って、その表面を、布で拭いていた。
丁寧だった。角のところを、指を添えて、何度も。
アリスは、その背中を、しばらく黙って見ていた。
やがて、ガルヴァンが言った。
「帰らなかったのか」
「うん」
「そうか」
彼は、拭く手を止めなかった。
「勝手にしろ。だが、蓋には触れるな」
アリスは、広間の中央まで歩いていった。
太鼓を胸に抱え、灯籠を床に置く。ずっと立っているのは疲れるから、その場に、ぺたりと座り込んだ。
そして、太鼓を叩いた。
たん。
こつ、と返事が来た。
たん。
こつ。こつ。
ガルヴァンの手が、止まった。
「やめろ」
「やだ」
「やめろと言っている」
「なんで」
アリスは、叩き続けた。
たん。たん。
こつ、こつ、こつ。
広間じゅうから、返事が集まってくる。壁ぎわから、床の積み重ねから、光の霞んだ奥のほうから。雨みたいに。心臓みたいに。
「その者たちは、休んでいる」
ガルヴァンが、こちらを向いた。
「起こすな」
「起きてるよ」
「休んでいる」
「起きてるってば」
アリスは、彼を見上げた。
「聞こえてるでしょ。ずっと聞こえてたんでしょ。何百年も」
ガルヴァンは、答えなかった。
「ねえ」
アリスは、太鼓を膝に置いた。
「一個だけ、聞いていい?」
「……」
「なんで、一回も叩き返してあげなかったの」
広間の空気が、止まった。
ガルヴァンの手から、布が落ちた。
床に、ぱさりと音を立てて。
「……なに」
「叩き返す、だけだよ」
アリスは言った。
「開けなくていいの。起こさなくていいの。ただ、こつって返ってきたら、こつって返してあげるだけ。それだけなら、できたでしょ」
「そんなことをして、何になる」
「何にもならないよ」
アリスは、あっさり言った。
「なんにもならない。でも、あの子たち、ずっと待ってたんだよ。何百年も、暗いとこで、叩いて。誰も返してくれなかったんだよ」
ガルヴァンの喉が、動いた。
「……返せば」
彼は、言った。
かすれていた。
「返せば、あの者たちは、私がここにいると知る」
「うん」
「知れば、待つ。私が開けるのを、待つ」
「もう待ってるよ」
「もっと、待つ」
ガルヴァンの声が、震えた。
「私が返事をすれば、あの者たちは、もっと強く待つ。今日か、明日かと。……そして、私は、開けられん。だから、返事をしてはならんのだ」
アリスは、その顔を見た。
赤い目のなかに、何かが、ぐらぐらと揺れていた。
「それって」
アリスは、静かに言った。
「あなたが、つらいからでしょ」
ガルヴァンが、息を呑んだ。
「あの子たちのためじゃないよ。あなたが、期待されるのがつらいから、返事しないんでしょ」
「……子供が」
「子供だよ」
アリスは、言った。
「五年生だよ。でも、知ってるもん。返事してもらえないのが、どんなに寂しいか」
彼女は、太鼓を、そっと撫でた。
「私、犬を飼ってたの。シロっていうの。夜になると、隣で寝てくれてた。嬉しいと、尻尾で床を叩くの。とん、とん、って」
ガルヴァンは、動かなかった。
「死んじゃった。私が学校に行ってるあいだに。最期、そばにいてあげられなかったの」
たん、と一度、太鼓が鳴った。
「そのあと、私、忘れそうになった。顔も、鳴き声も、脇にくっついてた重さも。忘れるのが怖くて、眠れなくなった。……そのとき、いちばんつらかったの、なんだと思う?」
ガルヴァンは、答えなかった。
「返事がないことだった」
アリスは言った。
「とん、って叩いても、隣が空っぽなの。もう、なんにも返ってこないの。それが、いちばんつらかった」
彼女は、顔を上げた。
「あなたは、返せるじゃない」
*
長い、長い沈黙があった。
琥珀色の光が、無数の黒い箱の上に、ただ静かに降っていた。
やがて。
ガルヴァンが、動いた。
一歩、壁ぎわの箱へ近づく。
さっきまで拭いていた、その箱の前に立って。
そして、彼は、ゆっくりと、手を上げた。
大きな手だった。白く、血の通わない、たくさんのものを斬ってきた手だった。
その指が、黒い石の蓋に触れた。
止まった。
しばらく、そのまま動かなかった。
指先が、震えていた。
「……できん」
彼は、言った。
「できん。触れられん」
「なんで」
「私は、この者を——」
言葉が、途切れた。
アリスは、待った。
「私は、この者を、覚えていない」
ガルヴァンは、そう言った。
「名を、覚えていない」
彼は、蓋に手を触れたまま、そこに額を寄せた。
「二百年前だ。この者は、二百年前にここへ来た。病だった。もう長くないと言われて、それでも死ぬのが恐ろしいと言って、震えていた。私は、眠るかと問うた。この者は、うなずいた」
「……」
「私は、その顔を覚えている。手の冷たさも覚えている。……名を、聞いた。たしかに聞いた。だが、思い出せん」
ガルヴァンの肩が、震えた。
「それが、私だ」
彼は、蓋から手を離した。
「私は、この者たちを救うと言いながら、名すら覚えておらん。二百年、毎日この蓋を拭きながら、一度も、思い出そうとしなかった。……思い出したくなかったのだ」
「なんで」
「思い出せば」
彼は、言った。
「思い出せば、この者は、一人になる」
アリスは、その言葉を、胸のなかで受け止めた。
一人になる。
「そうすると、私は、この者一人に対して、二百年を奪ったことになる。二人思い出せば、二人ぶんになる。……この広間には、何百とある」
ガルヴァンは、赤い目で、広間を見渡した。
「数えれば、耐えられん。だから、数えていない。『あの者たち』と呼べば、耐えられる。ひとかたまりならば、耐えられるのだ」
彼は、自嘲するように、口の端を歪めた。
「私は、そういう男だ。慰めなど、いらん」
アリスは、立ち上がった。
太鼓を、胸に抱えて。
そして、彼のところまで歩いていった。
見上げると、ずいぶん大きかった。首を痛くしないと、顔が見えないくらい。
「ガルヴァンさん」
初めて、名前を呼んだ。
ガルヴァンの肩が、びくりと動いた。
「……なんだ」
「一人ずつでいいよ」
アリスは、言った。
「え」
「花で埋め尽くさなくていいんだよ。一本ずつでいいの」
ガルヴァンが、こちらを見た。
「あなた、ぜんぶ一緒に救おうとしてるから、できないんだよ。何百人ぜんぶを、完璧に幸せにしようとしてるから、何百年たっても始まらないんだよ」
「……子供」
「一人ずつなら、今日、できるでしょ」
アリスは、その箱を指さした。
「この人の名前、思い出して」
「思い出せんと言った」
「思い出すまで、待つ」
「何年かかるかわからん」
「待つよ」
アリスは、言った。
「私、それが得意なの」
*
ガルヴァンは、動かなかった。
長いあいだ、その箱を見おろしていた。
やがて、彼は、床に膝をついた。
大きな身体が、黒い石の箱の高さまで下りた。剣が、背中でかちりと鳴った。
そして、蓋に、額を寄せた。
「……病だった」
彼は、話しはじめた。
誰に、というわけでもなく。
「痩せて、髪が抜けていた。頭に、青い布を巻いていた。日に焼けた手をしていた。畑をやっていると言った。作物の名を、いくつも教えてくれた。私は、ひとつも知らなかった」
アリスは、黙って聞いていた。
「南の訛りがあった。語尾が上がる話し方だ。冗談を言った。死にかけの人間が言う冗談ではなかった。私が笑わなかったので、つまらない男だと言われた」
彼の声が、少しずつ、変わっていった。
事実を数え上げる声から、思い出す声へ。
「……娘がいると言った」
ガルヴァンが、目を閉じた。
「二人。上の娘が、そろそろ嫁にいくと。だから、自分がいなくても大丈夫だと。そう言って、笑った」
「……」
「そして」
彼の声が、止まった。
「そして、こう言った。『眠っているあいだ、娘たちの名を呼んでいてくれ』と」
ガルヴァンの手が、蓋の上で、握りしめられた。
「呼ばなかった」
彼は、言った。
「一度も、呼ばなかった。忘れていた。……今、思い出した」
「名前」
アリスが、そっと言った。
「娘さんの名前、覚えてる?」
長い沈黙。
そして。
「……ミレア」
かすれた声だった。
「ミレアと、ソワ」
その瞬間。
こつ。
蓋の内側から、音がした。
ガルヴァンの身体が、はっきりと震えた。
こつ。こつ。こつ。
さっきまでとは、違う叩き方だった。速くて、強くて、必死だった。
「……聞こえるか」
ガルヴァンが、蓋に手を置いた。
「聞こえるか。ミレアと、ソワだ。合っているか」
こつ、こつ、こつ、こつ。
激しい返事だった。
ガルヴァンの喉から、押し殺したような音が漏れた。
「……名は」
彼は、言った。
「お前の、名は」
こつ。
こつ、こつ。
意味は、わからなかった。それでも、彼は聞いていた。石に耳を押しつけて、じっと。
そして。
「……ハルド」
ガルヴァンが、言った。
「ハルドだ。そうだ。ハルドと言った」
こつ。
たった一度。
肯定するように。
ガルヴァンの背中が、大きく波打った。
「ハルド」
彼は、名を呼んだ。
「すまなかった」
こつ。
「すまなかった。二百年、呼ばずにいた」
こつ、こつ。
「ハルド。ハルド」
何度も、何度も。
その名を。
アリスは、少し離れたところに立って、それを見ていた。
大きな男が、黒い石の箱に額をつけて、たった一人の名を呼び続けている。
その背中が、震えていた。
灯籠のなかで、火が、ゆらりと大きくなった。
そして。
アリスは、気づいた。
こつ。
こつ。
隣の箱が、鳴っている。
その隣も。
その隣も。
こつ、こつ、こつ、こつ、こつ——
広間じゅうの箱が、いっせいに鳴りはじめた。
呼んでくれ、と。
私の名も、呼んでくれ、と。
「……ああ」
ガルヴァンが、顔を上げた。
そして、その顔を見て、アリスは息を呑んだ。
泣いていた。
血の通わない白い頬を、涙が伝っていた。
「間に合わん」
彼は、言った。
「何百とある。私は、思い出すのに、一人で二百年かかった」
アリスは、太鼓を握りしめた。
そして、言った。
「一人じゃないよ」
たん。
太鼓が、鳴った。
「一人ずつなら、みんなで、できるでしょ」




