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目覚め

光が、広間を満たしていた。

黒い箱は、もう一つも残っていなかった。蓋も、箱そのものも、名を呼ばれるたびに光になってほどけ、あとにはただ、眠っている人たちの姿だけが残った。

床の上に、直接。

老人が。子供が。若い娘が。職人が。赤ん坊を抱いたままの母親が。

何百という人が、広い床に、ゆるやかに横たわっている。もう箱に納められてはいない。ただ、眠っているだけだった。

そして、その一人が、身じろぎをした。

「……ん」

老人だった。片腕のない男だった。

彼は、寝返りを打つように身を起こして、ぼんやりとあたりを見回した。それから、自分の手を見て、床を見て、天井を見た。

「……朝か」

かすれた声だった。

「朝、なのか」

隣で、若い娘が目を開けた。その隣で、少年が咳き込んだ。その向こうで、赤ん坊が泣き出した。

さざなみのように、それは広がっていった。

一人、また一人。

「……ここ、どこ」

「わたし、寝てた……?」

「腹が、減った」

「ばあちゃん! ばあちゃん、いる!?」

声が、増えていく。

戸惑い。混乱。誰かが泣き出す。誰かが誰かの名を呼ぶ。誰かが立ち上がろうとしてよろけ、隣の誰かが支える。

きれいな目覚めではなかった。

みんな、ぼさぼさの髪で、しわくちゃの服で、寝起きの顔をしていた。何百年ぶんの寝ぐせをつけて、腹を減らして、家族を探して、うろたえていた。

完璧な幸福では、まったくなかった。

ただの、朝だった。

アリスは、その真ん中に立って、それを見ていた。

胸のなかに、こみ上げてくるものがあった。

——これでいい。

そう思った。

石は、たぶん、これからも降る。この人たちは、また傷ついたり、病気になったり、誰かを失ったりするだろう。花畑は、どこにもない。

でも、みんな、目を覚ました。

「ねえちゃん」

だいすけが、袖を引っ張った。いつのまにか起きていた。

「なあ、これ、すげえな」

「うん」

「みんな、生きてる」

「うん」

アリスは、だいすけの頭を撫でた。

*

ガルヴァンは、広間の中央に立っていた。

もう、半分以上が透けていた。

輪郭の内側から、白い光が絶え間なく漏れている。数珠が、床に落ちた。彼の指をすり抜けて。

背中の大剣も、ずるりと落ちた。誰にも拾われないまま、床に転がった。

「……ガルヴァンさん」

アリスが、駆け寄った。

「消えちゃうの」

「そうらしい」

彼は、静かに言った。

「怖いんじゃないの」

「怖い」

彼は、あっさり認めた。

「だが、長いあいだ、こうなりたかった気もする」

アムルが、近づいてきた。

「……ガルヴァン」

「アムル」

「お前」

アムルは、何か言いかけて、言葉に詰まった。

竜だったころ、この男に斬られかけた。斬られなかった。その一事だけで、彼はここまで来た。

「……礼を、言っておらんかった」

アムルは、そう言った。

「あのとき、斬らんでくれて、助かった」

ガルヴァンは、少し目を細めた。

「言ったはずだ。お前からは、人の匂いがした」

「ああ」

「私は、その匂いを、自分では嗅げなかった」

アムルの喉が、動いた。

「……今は、どうだ」

ガルヴァンは、自分の透けた手を見た。

「今は」

少し、考えるように。

「今は、するな」

彼は、そう言った。

アムルが、ぐしゃりと顔をゆがめた。竜だったころの、照れたときの癖のまま。ただ、今度は隠しきれていなかった。

*

そのとき。

人々のあいだから、小さな影が立ち上がった。

亜麻色の髪の女の子だった。

彼女は、寝ぼけまなこで、ふらふらと歩いてきた。裸足のまま、光の粒が舞う床を踏んで。

そして、ガルヴァンの前で、立ち止まった。

見上げる。

ガルヴァンは、動けなくなった。

「……セラ」

女の子は、しばらく、彼を見ていた。

それから、言った。

「うそつき」

ガルヴァンの身体が、大きく震えた。

「……ああ」

彼は、膝をついた。

透けかけた大きな身体を折って、女の子と目線を合わせて。

「うそをついた」

「うん」

「花畑は、ない」

「うん」

「石も、降る。これからも、降る」

「知ってる」

女の子は、そう言った。

「そんなの、知ってるよ」

ガルヴァンの顔が、くしゃりと崩れた。

「すまなかった」

彼は、言った。

「三十年、待たせた」

「うん」

「私は、お前を救えなかった」

「……ねえ」

女の子が、首をかしげた。

「おじちゃん、寝てるとき、いなかったでしょ」

ガルヴァンが、目を見開いた。

「暗いとこでね、ずっと待ってたの。おじちゃん、来るかなって。こつこつって叩いたら、来てくれるかなって」

「……」

「来なかった」

女の子は、言った。

「ずっと、来なかった」

ガルヴァンの喉から、声にならない音が漏れた。

「でもね」

女の子は、ふいに笑った。

寝起きの、くしゃくしゃの顔で。

「今日、名前、呼んでくれた」

彼女は、両手を伸ばした。

透けかけたガルヴァンの、首のあたりに。腕は、すり抜けてしまった。それでも、彼女は抱きつく格好のまま、そこにいた。

「だから、もう大丈夫だよ」

ガルヴァンの目から、涙が溢れた。

「大丈夫だよ、おじちゃん」

女の子は、繰り返した。

「もう、大丈夫」

*

彼の身体から、光が、いっそう強く溢れた。

「……ああ」

ガルヴァンは、目を閉じた。

「そうか」

もう、輪郭はほとんど残っていなかった。

「私が、待たせていたのではないのだな」

彼は、言った。

「私が、待っていたのだ。誰かが、私の名を呼んでくれるのを」

そのときだった。

「ガルヴァン」

声が、した。

片腕のない男だった。

「ガルヴァン」

老婆が言った。

「ガルヴァン」

若い娘が。職人が。少年が。赤ん坊を抱いた母親が。

何百という人が、いっせいに、その名を呼んだ。

「ガルヴァン」

「ガルヴァン」

「ガルヴァン——」

広間が、声で満たされた。

彼を憎む声はなかった。感謝する声も、たぶん、そんなに多くはなかった。ただ、名前だった。ただ、そこにいると知らせるための、名前だった。

ガルヴァンは、その真ん中で、立ち尽くしていた。

そして。

「……ありがとう」

彼が、そう言った。

たん。

アリスが、太鼓を叩いた。

そのとき。

太鼓の内側で、ずっと前から灯っていた小さな光が、ぽう、と強くなった。

金色の、寡黙な光だった。

三年前、雲の庭で呼んだとき、ほかのどれよりもかすかだった、あの光。

アリスの喉から、考えるより先に、その名前が出た。

「……ガルド?」

広間が、しん、となった。

ガルヴァンが、ゆっくりと、こちらを向いた。

透けかけた大きな身体が、まっすぐにアリスと向き合う。

「……そう呼ばれたのは」

彼は、言った。

「ずいぶん、久しぶりだ」

アリスの目が、いっぱいに見開かれた。

「……塔の。あの、大きな扉の前にいた」

「あの階の掟は、お前たちが解いた」

彼は、言った。

「私は、あのあとも登った。何年も登った。てっぺんまで行けば、この者たちを二度と傷つかぬ形で目覚めさせる術があると思っていたのでな」

「……あったの」

「なかった」

彼は、少しだけ、困ったように首を振った。

「だから、降りてきた。そして、また、蓋を閉じた」

*

「ガルド、というのは」

彼は、言った。

「自分の名を、削ったものだ。本当の名で呼ばれるのが、恐ろしかった。呼ばれれば、思い出さねばならんからな。……だが、まるきり別の名を名乗る気にも、どうしてもなれなかった。それで、頭のふたつだけを残した」

「……半分こ」

「そうだな」

彼は、少し笑ったようだった。

「捨てそこねた、半分だ」

「……なんで」

アリスの声が、震えた。

「なんで、あのとき、言ってくれなかったの」

「言えば」

彼は、言った。

「お前は、私を助けようとしただろう」

「したよ!」

「……ああ」

ガルヴァンは、笑った。

穏やかで、少しだけ困ったような、不器用な笑い方だった。何百年も、笑い方を忘れていた男の笑い方だった。

「したな」

彼は、透けかけた手を、アリスの頭の上に置こうとした。手は、髪をすり抜けた。

それでも、その形のまま、しばらくそこにあった。

「削った名でもな」

彼は、言った。

「お前が呼んだ、あの一度きりの声だけは、いちばん暗いところで、ずっと灯っていた」

そして、彼は、初めて、その名を呼んだ。

「アリス」

「……うん」

「覚えておく」

そして。

ガルヴァンの身体は、無数の温かい光の粒になって、ほどけた。

光は、広間の高い天井へと昇っていき、そこで、ゆっくりと散った。

まるで、長いあいだ握りしめていた手を、ようやく開いたように。

*

しばらくして、天井が、崩れた。

崩れた、というより、消えたというほうが近かった。灰色の石が光になってほどけ、その向こうから、空が現れた。

夕闇では、なかった。

朝だった。

低いところから差してくる、まっすぐな朝日が、広間だった場所を、隅々まで照らした。

壁が消え、床が消え、城が消えた。

あとに残ったのは、荒野と、そこに立ち尽くす何百人かの人々と、五人の子供と大人だった。

「……うわ」

だいすけが、目を細めた。

「まぶし」

「うん」

アリスも、目を細めた。

朝日を浴びながら、人々が、少しずつ動きはじめていた。誰かが誰かを見つけて、抱き合っていた。誰かが泣いていた。誰かが、腹が減ったともう一度言った。

そのなかを、亜麻色の髪の女の子が、こちらへ歩いてきた。

「ねえ」

「なあに」

「あなた、だれ」

「アリス」

「アリス」

女の子は、その名を口のなかで転がして、それから、にっと笑った。

「わたし、セラ」

「知ってる」

「なんで知ってるの」

「うーん」

アリスは、少し考えて、言った。

「夢で見たから」

「へんなの」

セラは、笑った。

それから、荒野の向こうを見た。

「……ねえ、ここ、どこ」

「わかんない」

「わたし、帰るとこ、ないんだけど」

アリスは、その言葉に、胸を突かれた。

村は、なくなっている。三十年前に。

なんと言えばいいのか、わからなかった。

そのとき。

「うちに来い」

アムルが、後ろから言った。

セラが、見上げた。

「うち?」

「おれと、そこの馬鹿のうちだ」

「馬鹿って言うな!」

バウルが、抗議した。

「兄貴、うちって、どこだよ。おいらたち、うちなんかねえだろ」

「これから、作る」

アムルは、そう言った。

そして、ばつが悪そうに、鼻を鳴らした。

「……こいつらを、放っておくわけにもいくまい」

荒野に立つ、何百人かの人々。

行き場のない者も、多いだろう。三十年、二百年、それ以上を眠っていた人たちだ。帰る家が残っているほうが、珍しい。

「兄貴」

バウルが、まじまじと兄を見た。

それから、へへっと笑った。

「……いいじゃん、それ」

*

朝日が、高くなっていった。

灯籠を、アリスは、そっと荒野に置いた。

なかの火は、まだ灯っていた。ひとつも、消えていなかった。

「……持って帰らねえの?」

だいすけが聞いた。

「うん」

アリスは、しゃがんで、灯籠を見た。

「これ、みんなの声だから」

彼女は、そっと紙の面を撫でた。

「ちゃんと、届いたから」

風が吹いた。

灯籠の火が、ふわりと揺れて——それから、いっせいに、外へ出た。

小さな光が、いくつも、朝の風に乗って昇っていく。

生き残った者たちの声が、ようやく、行くべきところへ行った。

アリスは、それを見上げていた。

「……ねえ、リオン」

「うん」

「一曲、吹いてよ」

リオンは、少し驚いた顔をした。

それから、ラッパを構えた。

「なにを吹けばいい?」

「なんでもいい」

アリスは、言った。

「あの人に、聞こえるやつ」

リオンは、うなずいた。

そして、朝の荒野に、まっすぐな一筋の音を放った。

澄んでいて、明るくて、少しだけ寂しい音だった。

はじめて言葉を覚えた子供が、せいいっぱい「ありがとう」と言うときみたいな音だった。

三年前、鏡の向こうで聞いたのと、同じ音だった。

ただ、ほんの少しだけ、うまくなっていた。

その音を聞いて、何百人かの人々が、いっせいに空を見上げた。

エピローグ 石の降る空の下で

帰り道は、あっけなかった。

荒野のまんなかに、いつのまにか、一枚の鏡が立っていた。誰が置いたのでもない。ただ、朝日を浴びて、やわらかな銀色をとろりとたたえている。

「……もう、帰るのか」

だいすけが、鏡を見上げて言った。

「うん」

アリスは、太鼓を抱え直した。

「学校あるし」

「そっか」

「だいすけも、あるでしょ」

「あー」

だいすけは、ランドセルを背負い直して、思い切り顔をしかめた。

「宿題、やってねえ」

*

別れは、短かった。

バウルが、ぷうっと赤い泡をひとつ作って、アリスの鼻先で弾けさせた。

「またな」

「うん」

「今度は、もっと楽しいやつで呼ぶからよ。こんな辛気くさいのじゃなくてさ」

「約束だよ」

「おう」

彼は、鼻の下をごしごしとこすった。前と、まったく同じ癖だった。

アムルは、腕を組んで、少し離れたところに立っていた。

「嬢ちゃん」

「アムルさん」

「……礼を言う」

彼は、それだけ言った。

言ってから、言い足りないと思ったらしく、こう続けた。

「おれは、あいつを助けたくて、あんたを巻き込んだ。ずるいやり方だと、わかっとった」

「うん」

「怒っていいぞ」

アリスは、少し考えて、首を振った。

「怒らない」

「なぜだ」

「だって、行ってよかったもん」

アムルは、その答えに、しばらく言葉を失っていた。

それから、ぐしゃりと顔をゆがめた。

「……ふん」

「あ、また泣いてる」

「泣いとらんわ、たわけ」

*

リオンは、最後だった。

彼は、金色のラッパを腰に提げたまま、少し困ったような顔をしていた。三年前と同じだった。この子は、別れの言葉を探すのが、いつも下手だ。

「またね、リオン」

「うん」

「今度は、私が呼ぶよ」

「え?」

「太鼓で。ハルモニアに聞こえるでしょ」

リオンは、ぱっと顔を上げた。

そして、笑った。

「聞こえる」

彼は、はっきりと言った。

「ちゃんと、聞こえるよ」

*

そして、セラが、ちょこちょこと走ってきた。

「アリス」

「なあに」

「わたし、聞きたいことある」

彼女は、真面目な顔をしていた。

「なに」

「ペロ君って、犬なの。わたしのうちの犬」

アリスは、うなずいた。

「知ってる」

「なんで知ってるの」

「夢で聞いたから」

「またそれ」

セラは、頬を膨らませた。それから、ふっと真面目な顔に戻った。

「ペロ君ね、もういないの」

「うん」

「わたしね、ずっと、ペロ君の顔、思い出そうとしてたの。暗いとこで。でも、だんだん、思い出せなくなってきて」

アリスの胸が、きゅっとなった。

その気持ちを、知っている。

「怖かった」

セラは、言った。

「忘れちゃうのが」

アリスは、しゃがんだ。

セラと、目の高さを合わせて。

そして、胸の太鼓を、そっと差し出すように叩いた。

たん。

「これね」

「なあに、それ」

「私の友だちが、くれたの」

アリスは言った。

「忘れそうになったら、叩くの。そしたら、思い出すの」

「……ほんとに?」

「ほんと」

セラは、じっと太鼓を見ていた。

それから、おそるおそる、指を伸ばした。

とん。

小さな音がした。

「……あ」

セラの目が、大きく見開かれた。

「思い出した」

「なにを」

「ペロ君、しっぽ、ちぎれそうなくらい振るの」

彼女は、笑った。

くしゃくしゃの、寝ぐせだらけの顔で。

「思い出した。思い出した!」

アリスも、笑った。

そして、思った。

この子は、これから、たくさん泣くだろう。村がないことも、家族がいないことも、たぶんまだ、ちゃんとわかっていない。石は、これからも降る。

でも。

とん、と鳴らせるなら、大丈夫だ。

*

鏡をくぐると、そこは、自分の部屋だった。

窓から、朝の光が差し込んでいる。柱時計が、とん、とん、と鳴っている。

「……ただいま」

アリスは、太鼓を、いつもの鏡台の上に置いた。

窓辺のお化粧鏡は、もう波打っていなかった。ただ、朝の光を映して、静かに澄んでいる。

「アリスー、朝ごはん、できてるわよー」

台所から、お母さんの声がした。

「はあい」

*

食卓で、お母さんが、不思議そうにアリスを見た。

「あんた、ちょっと日に焼けた?」

「え、そう?」

「そうよ。ゆうべ、ちゃんと寝たの?」

「寝たよ」

寝ていない。まったく寝ていない。

でも、不思議と、眠くはなかった。

「ごちそうさま」

*

通学路は、いつもと同じ道だった。

ブロック塀の上に、茶色いぶちの猫がいる。しゃがんで手を出すと、猫はもったいぶって近づいてきて、指先に鼻をつけた。

「おはよ」

のどを撫でると、ごろごろと鳴った。

「……ねえ」

アリスは、猫にだけ聞こえる声で言った。

「セラって子に、会ったの」

猫は、返事のかわりに、ぐっと首を伸ばした。もっと撫でろ、ということらしい。

今日は、ちゃんと、いつもの猫だった。

「あとね、うそつきのおじさんにも」

のどを撫でると、ごろごろと鳴った。

「その人、行っちゃった。もう、どこにもいないの。……でも私、ちゃんと名前、覚えてる」

アリスは、猫の額を、そっと撫でた。

「だから、消えてないんだよ」

猫は、興味がなさそうに、あくびをした。

「……そうだよね。あんたには、関係ないよね」

アリスは、笑った。

*

校門の前で、クラスの子が手を振っていた。

「おはよう!」

「おはよう」

アリスも、大きく手を振り返した。

その、ときだった。

風が、ふいに、強く吹いた。

街路樹の並木が、いっせいにざわめく。

その葉ずれの奥から。

ほんのかすかに、音が聞こえた気がした。

澄みきった、まっすぐな、一筋の音色。

三年前、同じ道の、同じ風のなかで聞いたのと、同じ音だった。

——けれど、今日は、そのあとに、もうひとつ。

とても低い、ごく短い、鐘のような音が、重なって聞こえた気がした。

アリスは、足を止めて、空を見上げた。

朝の空は、どこまでも青くて、雲がひとつ、ゆっくりと流れていくだけだった。

「……聞こえたよ」

アリスは、小さく言った。

「ふたりとも、ちゃんと」

*

——それから、ずっとあとの話。

*

北の港町に、ひとりの魚売りの女がいた。

三十年ぶりに目を覚まして、それから、また魚を売りはじめた女だった。名前を、ハンナといった。

ある冬の朝。

海に落ちた子供がいた。誰も気づかなかった。氷のように冷たい水のなかで、その子は沈んでいった。

ハンナは、桟橋から飛び込んだ。

理由は、自分でもわからなかった。年寄りの身体で、そんなことができるはずがなかった。

けれど、そのとき。

彼女の手のひらに、ぽう、と小さな光が灯った。

温かい、金色に近い光だった。

その光に照らされて、暗い海のなかで、子供の白い顔が見えた。

*

南の谷に、ひとりの鍛冶屋がいた。

二百年ぶりに目を覚まして、それから、また鎚を握った男だった。名前を、バルドといった。

彼が打つ刃は、よく切れた。

けれど、彼は、人を斬るための刃を、一度も打たなかった。

理由を聞かれると、彼はこう答えた。

「昔、俺を眠らせた男がいてな」

*

そして、ずっと西の、乾いた土地に。

ひとつの村ができた。

行き場のなかった何百人かが、寄り集まって作った村だった。まとめ役は、青い髪の兄弟だった。兄は無愛想で、弟はうるさかった。

村のはずれに、小さな畑があった。

そこを世話しているのは、亜麻色の髪の娘だった。

彼女が育てているのは、花だった。

一本ずつ。

きちんと、間隔をあけて。

村の子供が、あるとき聞いた。

「なんで、いっぱい植えないの」

娘は、笑って答えた。

「一本ずつでいいんだって」

「だれが言ってたの」

娘は、少し考えてから、言った。

「うそつきのおじちゃん」

*

石は、降る。

これからも、たぶん、ずっと。

けれど、その下で。

覚えている者がいるかぎり、消えたものは、ひとつもない。


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