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夕暮れの広間

門は、開いていた。

鍵もかかっていない。押すと、思いのほか軽く、内側へ開いた。誰かが訪ねてくるとは思っていない者の、無防備な開き方だった。

「……不用心すぎねえか」バウルが呟いた。

「不用心じゃない」アムルが言った。「誰も来ないだけだ」

内側は、暗かった。

長い廊下が、まっすぐ奥へ伸びている。窓はない。それなのに、どこからか、うすい橙の光が滲んでいた。石の床に、自分たちの影が、細く長く落ちている。

音が、しなかった。

外の風の音も、街のざわめきも、ここには届かない。聞こえるのは、五人ぶんの足音だけだった。それすら、石に吸い込まれて、すぐに消えた。

だいすけが、アリスの手をぎゅっと握った。

「……ねえちゃん」

「うん」

「オラ、ここ、知ってる気がする」

アリスは、だいすけを見た。

「知ってる?」

「うまく言えねえけど」

だいすけは、天井のほうを見上げた。

「あの、川のとこに似てる。冷たくて、静かでさ。歩いてても、ぜんぜん疲れねえの。そういう感じ」

アリスの背中が、ひやりとした。

「行こう」

リオンが、静かに言った。彼は、ラッパを腰から外して、手に持っていた。

*

廊下の突き当たりに、大きな扉があった。

アムルが、両手で押した。

蝶番が、ぎい、と長く鳴った。

そして、光が溢れ出した。

*

夕暮れの色だった。

高い天井の、広い広間。窓は一つもない。それなのに、琥珀色の光が空間を満たしている。どこから差しているのか、いくらたどっても光源が見つからない。

石の床は、磨き上げられていた。塵ひとつ落ちていない。

そして、壁ぎわに。

黒い石の箱が、並んでいた。

ずらりと。

壁に沿って、びっしりと。ひとつの壁を埋め尽くし、次の壁を埋め尽くし、さらにその奥の壁も。広間の奥は光に霞んで見えないけれど、そこにも並んでいるのがわかった。

そして、床にも。

置ききれなくなったのだろう。広間の中央に近いところには、床に直接、二段、三段と積み上げられた箱があった。丁寧に、崩れないように、まっすぐに。

アリスは、動けなかった。

夢で見た。

けれど、夢で見たのは、この広間の、ほんの片隅だったのだ。

「……何、これ」

だいすけの声が、震えていた。

「ねえちゃん、これ、なに。箱?」

アリスは、答えられなかった。

バウルが、いちばん近い箱に近寄って、覗き込んだ。そして、ひゅっと息を吸った。

「……人が、入ってる」

蓋の一部が、透き通った石になっていた。

その下に、顔があった。

若い女の人だった。目を閉じて、穏やかに眠っている。頬に血の気はないけれど、死人の顔ではなかった。今にも寝返りを打ちそうな、そんな顔だった。

隣の箱には、老人がいた。

その隣には、少年。

その隣には、髭を蓄えた大男。

その隣には、赤ん坊を抱いたままの、若い母親。

「……うそだろ」

バウルが、後ずさった。

「うそだろ。ここ、ぜんぶ。ぜんぶ、こうなのか」

アリスは、歩き出した。

自分でも、なぜそうしたのかわからなかった。ただ、足が勝手に動いた。箱の列に沿って、ゆっくりと。ひとつ、ひとつ、覗き込みながら。

老人。子供。女。男。

若い娘。市場の女らしき、たくましい腕をした人。手に鑿だこのある職人。まだ乳歯の抜けきっていない男の子。

みんな、目を閉じていた。

みんな、綺麗に整えられていた。髪は撫でつけられ、服の乱れは直され、両手は胸の上で組まれている。

丁寧だった。

そのことが、いちばん怖かった。

そして。

アリスの足が、止まった。

その箱の前で。

亜麻色の髪だった。枕の上に、ふわりと広げられている。頬は白く、けれど苦しそうではない。長い遠足のあとで、ようやく横になれた子のような顔で。

「……あ」

声が、漏れた。

膝が、がくりと折れた。

灯籠が、石の床に、ことりと転がった。中の火は、消えなかった。

「ねえちゃん!?」

だいすけが駆け寄る。

アリスは、その箱に、両手をついた。

冷たかった。

「……あなただ」

かすれた声で、アリスは言った。

「あなた、だよね。お花畑の。石が降ってくる。ペロ君の」

透明な石の向こうで、女の子は眠っていた。

まぶたが、ほんの少しだけ動いた気がした。気のせいかもしれなかった。

アリスは、胸の太鼓を、震える手で持ち上げた。

そして、叩いた。

たん。

しん、とした。

もう一度。

たん。

その音が、広間の高い天井へ昇っていって——

こつ。

返ってきた。

「——っ!」

アリスは、はっと箱を見た。

こつ。

こつ、こつ。

内側から。たしかに、内側から。

「聞こえてる」

アリスは、叫んだ。

「聞こえてる! この子、聞こえてる! 起きてる! 眠ってなんかない——!」

こつ、こつ、こつ。

一つ、また一つ。返事が増えていく。隣の箱から。その隣から。奥の壁のほうから。床に積まれた箱の中から。

こつ。こつ。こつ。こつ。

夕暮れ色の広間じゅうに、内側から叩く音が、雨のように広がっていった。

だいすけが、両手で口を押さえた。

リオンが、青ざめた顔で、周囲を見回している。バウルは、その場に膝をついていた。

アムルだけが、目を閉じていた。

「……知っとった」

低い声だった。

「聞こえとるのは、知っとった。あいつも、知っとる」

「じゃあ、なんで——」

「あいつは、それを、耐えてると言った」

アムルは、目を開けた。

「まだ足りないから、耐えてもらっている、とな」

そのときだった。

「そこまでだ」

声が、した。

低く、静かで、よく響く声だった。怒鳴ってはいない。それなのに、こつこつという無数の音が、いっせいに止んだ。

広間の奥。光の霞んだいちばん深いところから、影が歩いてくる。

大きな男だった。

剃り上げた頭。首から幾重にも下げた数珠。僧衣とも旅装ともつかない黒い衣。背には、人の背丈ほどもある鉄の塊のような剣。

歩くたびに、その数珠が、じゃら、と乾いた音を立てた。

その音を、アリスは、どこかで聞いたことがある気がした。

けれど、思い出せなかった。

夢で見た通りだった。

けれど、夢で見たときと、ひとつだけ違った。

肌が、白すぎた。血が通っていない白さだった。そして、目の色。あの女の子の手を握っていたときの、あの穏やかな目ではない。

赤かった。

濁った、燃え残りのような赤だった。

「……ガルヴァン」

アムルが、静かに名を呼んだ。

男は、アムルを見た。

「アムルか」

「久しいな」

「戻れたのか」

「ああ」

「そうか」

ガルヴァンは、それだけ言った。おめでとうも、よかったなもなかった。ただ、事実を確認しただけの声だった。

その赤い目が、ゆっくりと移動して、アリスの上で止まった。

そして、止まったまま、動かなくなった。

思っていたより、ずっと長いあいだ。

アリスは、箱に手をついたまま、見上げた。

怖かった。

足が震えた。心臓が、耳のなかで鳴っていた。

それでも、目を逸らさなかった。

「……子供か」

ガルヴァンが言った。

「アムル。何のつもりだ」

「そいつは、名を呼ぶ」

「なに」

「忘れられたものを、呼び戻す。おれもそれで戻された」

ガルヴァンの眉が、わずかに動いた。

それから、彼は、アリスの手の下にある箱に目をやった。

亜麻色の髪の、女の子の箱に。

「……そこから、離れろ」

アリスの喉が、ひくりと鳴った。

「なんで」

「離れろと言っている」

「なんで、この子を、こんなところに入れてるの」

「子供」

「この子、聞こえてるよ」

アリスは、立ち上がった。膝が笑っていたけれど、立った。

「叩いたら、返事したもん。ずっと聞こえてるんだよ。ずっと、暗いところで、聞いてるんだよ」

ガルヴァンは、答えなかった。

「起こしてあげてよ」

アリスは、言った。

「今すぐ、起こしてあげてよ」

広間が、しんとした。

琥珀色の光が、無数の黒い箱の上に、静かに降り積もっている。

ガルヴァンは、しばらく、アリスを見おろしていた。

そして、言った。

「起こして、どうする」

「え」

「起こして、この者たちに、何をしてやれる」

その声には、怒りがなかった。

それが、いちばん、恐ろしかった。

「この者たちは、外で傷つき、擦り切れ、行き場を失ってここへ来た。ある者は病で、ある者は飢えで、ある者は人に裏切られてだ。私はその全員に問うた。眠るか、と。全員が、眠ると答えた」

ガルヴァンは、一歩、近づいた。

「今、起こせば、この者たちは、また同じ場所へ戻る。同じ病に、同じ飢えに、同じ裏切りに。それを、お前は救いと呼ぶのか」

「……でも」

「私は、待っている」

彼は言った。

「この者たちを、二度と傷つかぬ形で目覚めさせる術を、探している。まだ足りぬ。だが、いつか届く。そのときは、空も大地も、花で埋め尽くす。萎れる花など、一輪もない」

アリスの、息が止まった。

その言葉を、知っている。

夢のなかで、この人が、あの子に言った言葉だ。

「……いつ」

アリスは、聞いた。

「なに」

「いつなの。それ」

ガルヴァンの目が、揺れた。

ほんの、わずかに。

「もうすぐだ」

アリスは、その顔を見上げた。

そして、言った。

「うそつき」

広間の空気が、ぴしりと張り詰めた。

ガルヴァンの手が、背中の剣の柄にかかった。

「アリス!」リオンが叫んだ。

けれど、ガルヴァンは、剣を抜かなかった。

柄を握ったまま、彼は、じっとアリスを見ていた。その赤い目のなかで、何かが激しく揺れていた。怒りとも、痛みともつかない何かが。

「……誰から聞いた」

かすれた声だった。

「その言葉を、誰から聞いた」

アリスは、答えた。

「この子から」

亜麻色の髪の女の子の箱を、手のひらで、そっと撫でた。

「夢で見たの。あなたが、この子に、そう言うところ。この子は、うそつきって言った。でも、いいよって。待ってるって」

ガルヴァンの手から、力が抜けた。

柄から、指が、ゆっくりと離れていく。

「……そうか」

彼は、目を閉じた。

「見たのか」

「見たよ」

「では、知っているな」

ガルヴァンは、目を開けた。

赤い目に、光はなかった。

「私が、あの子に、うそをついたことを」

そして、彼は背を向けた。

「帰れ」

「待って——」

「帰れと言っている」

その背中に、アリスは叫んだ。

「街の人たちが、伝えてって言ってた!」

ガルヴァンの足が、止まった。

アリスは、床に転がっていた灯籠を、拾い上げた。

いくつもの火が、紙の内側で、ゆらゆらと揺れている。

「音を弾いてた人が、言ってた。自分のイカれた音を最後まで聴いてくれたのは、あんただけだったって。猫の人が言ってた。迷子だった自分に、生きる場所を教えてくれたって。お侍さんも、夜会服の人も、みんな——」

アリスは、灯籠を、両手で高く掲げた。

「みんな、あなたに助けられたって、言ってた!」

火が、いっせいに明るくなった。

夕暮れ色の広間が、その光でほんのりと染まった。無数の黒い箱の表面に、いくつもの小さな火が映り込む。

ガルヴァンは、振り返らなかった。

長い、長い沈黙があった。

やがて、彼は言った。

「……慰めだ」

「え」

「そんなものは、慰めだ」

彼は、ゆっくりと振り返った。

その顔には、何の表情もなかった。

「あの者たちを斬らなかったのは、斬る必要がなかったからだ。それだけだ。私は、斬る必要のあるものを、すべて斬った。ためらわなかった。数えてもいない」

「でも、その人たちは——」

「では聞くが」

ガルヴァンは、アリスの手のなかの灯籠を、見た。

「そこに、私が斬った者の声は、いくつある」

アリスは、答えられなかった。

「ないだろう」

「……」

「斬られた者は、何も言わん。言えん。だから、生き残った者の声だけが集まる。それを並べて、私は善い者だったと言うのか」

灯籠の火が、ゆらりと弱くなった。

「子供」

ガルヴァンは、静かに言った。

「お前が持っているのは、私が殺さなかった者の声だ。私が殺した者の声は、この世界のどこにもない。ひとつも、残っていない」

彼は、自分の手のひらを見た。

白い、血の通わない手を。

「その手で、私は、この者たちを眠らせている。私は、償っているのではない。逃げているのだ。それくらい、自分でわかっている」

「じゃあ、なんで——」

「他に、やり方を知らんからだ」

その一言に、アリスは、言葉を失った。

ガルヴァンは、もう一度、背を向けた。

「帰れ。ここは、子供の来る場所ではない」

「帰らない」

「帰れ」

「帰らないってば!」

アリスは、叫んだ。

「だって、この子が待ってるんだよ! あなたのこと、待ってるんだよ! うそつきって笑って、でも待ってるって言ったんだよ! ずっと、ずっと、暗いとこで——」

「知っている」

ガルヴァンの声が、初めて、大きくなった。

広間が、びりりと震えた。

「知っている。私が、いちばん、知っている」

彼は、こちらを向かなかった。

「知っていて、まだ開けられん。それが、私だ」

そして、彼は歩き去った。

広間の奥の、光の霞んだいちばん深いところへ。

その姿が消えたあと。

アリスは、灯籠を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。

火は、まだ灯っていた。

けれど、さっきより、ずっと小さくなっていた。

「……届かなかった」

そう呟いた自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

こつ。

足元の箱から、小さな音がした。

こつ、こつ。

アリスは、崩れるようにしゃがみ込んで、その黒い石に、額を押しつけた。

「ごめん」

涙が、こぼれた。

「ごめんね。まだ、開けてあげられない」

こつ。

返事は、責めていなかった。

それが、いっそう、つらかった。


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