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境界の街

階を降りる、というのは、階段を降りることではなかった。

リオンが選んだのは、城の外壁の、いちばん低いところにある古い井戸だった。覗き込むと、底に月が映っている。この夜の月とは違う、もっと痩せた月だった。

「ここ、落ちるの?」

だいすけが、恐る恐る縁に手をかけた。

「落ちるっていうか、沈むんだ」リオンが言った。「水じゃないから、息は止めなくていいよ」

「うそだろ」

「ためしに止めてみたら」

「絶対いやだ」

結局、いちばん先に飛び込んだのはバウルだった。

*

底には、街があった。

夕闇の街だった。

日が沈みかけているのに、いつまでも沈みきらない。空は西の端だけが赤く、その他は全部、青とも紫ともつかない色に浸かっている。街灯には、ぼんやりとした橙の火が灯っていた。

石畳の道が、細く、複雑に折れながら続いている。両側には、背の高い建物がぎっしりと肩を寄せ合っていた。窓は、ほとんどが暗い。ときどき、ひとつだけ明かりのついた窓がある。

人は、いた。

けれど、どの人影も、少しずつ、人ではなかった。

角のあるもの。羽のあるもの。影が二つあるもの。歩いているのに足音がしないもの。彼らは道の端を静かに歩き、静かにすれ違い、誰も、こちらを見なかった。

「……なんだ、ここ」

だいすけが、アリスの服の裾を握った。

「境界の街だ」

アムルが言った。

「上でもなく、下でもない。行き場のない連中が集まって、いつのまにか街になった。ここを抜けた先に、あいつの城がある」

「ここの人たち、こわい?」

「こわくはない」

アムルは、少し考えてから、付け足した。

「……こわくはないが、みんな、なんかしら、こわいものを抱えとる」

道の角に、小さな露店が出ていた。

布を敷いただけの店で、老婆が一人、座っている。顔は頭巾の影に隠れて見えない。並んでいるのは、蝋燭と、古い鍵と、なぜか片方だけの靴と、それから。

灯籠が、ひとつ。

紙の張られた、古びた小さな灯籠だった。持ち手がついていて、中は空っぽ。火は入っていない。

アリスは、なぜか、そこから目を離せなかった。

「……これ」

しゃがみ込んで、手を伸ばしかけて、止めた。お金なんて持っていない。

すると、老婆が言った。

「持っていきな」

しわがれた声だった。

「え、でも」

「そいつはね、ずっと売れ残ってんのさ。火の入れかたを、誰も知らないもんだから」

老婆は、頭巾の下で、少しだけ笑ったようだった。

「あんた、太鼓を持ってるね」

アリスは、はっとして胸を見た。

「叩いてごらん」

言われるまま、アリスは太鼓の縁を、そっと叩いた。

たん。

灯籠の中で、ぽう、と小さな火が灯った。

「……あっ」

「ほらね」

老婆は、灯籠をアリスのほうへ押しやった。

「それは、声を入れる灯籠だよ。誰かがまだ言えずにいる言葉を、預かって運ぶための。持っていきな。あんたが持つのが、いちばん役に立つ」

アリスは、両手で灯籠を受け取った。軽かった。紙越しに、ほんのりと温かかった。

「……あの」

アリスは、ふと思いついて、聞いてみた。

「前に、こっちの世界で会った子がいて。ぼろぼろの着物を着て、下駄をはいて、げんすけって名乗ってて。……でも、ほんとうは、ぜんぜん違う名前の子だったんです」

老婆は、頭巾の下で、ふん、と笑ったようだった。

「そりゃ、そうだろうよ」

「え」

「こっちへ深く入りこんだ子にはね、名前がつくのさ。おのずと」

「……つく?」

「向こうの名前は、向こうの人が呼ぶためのもんだ。呼ぶ者がいなくなれば、いらなくなる。だから、そうなる前に、こっちがひとつ、こしらえて着せてやる。……そういう名だよ」

アリスの背中が、すう、と冷えた。

「それって」

「まだ死んじゃいない。けど、もう半分こっちのもんだ、っていう印さ」

老婆は、顎をしゃくった。

「その子は、帰ったのかい」

「……帰りました」

「なら、名は落ちたろう。着せられる前に、向こうから本当の名で呼ばれりゃ、こっちの名は用なしになる」

アリスは、あの日、精一杯の声で呼んだ名前を思い出した。

本当の名前じゃ、なかった。

「……あたし、まちがった名前で呼んだ」

「呼んだのが誰か、あの子にはわかったろう」

老婆は言った。

「呼ぶってのはね、名前を当てることじゃないよ。ここにいてくれ、って言うことさ」

顔を上げると、老婆はもういなかった。布も、蝋燭も、片方だけの靴も、何もかも消えていた。ただ、石畳が濡れたように光っているだけだった。

*

最初の声は、路地の奥から聞こえた。

音だった。

弦を、指ではなく爪で、めちゃくちゃに掻きむしるような音。旋律らしきものはあるのに、そのすべてが軋んで、割れて、悲鳴に近い。聞いているだけで、こめかみが痛くなる。

だいすけが、耳を塞いだ。

「うわ、なんだこれ、きったねえ音!」

「だいすけ」

「だってよ!」

アリスは、路地を覗き込んだ。

奥に、男が立っていた。

痩せた男だった。長い髪を振り乱し、抱えた楽器を、まるで敵ででもあるかのようにかき鳴らしている。指先から、時折、ばちりと青い火花が散った。

その周りには、誰もいなかった。

道行く人影は、みんな、その路地を大きく避けて通っていく。

アリスは、少し迷った。

それから、路地へ一歩、踏み込んだ。

「ねえちゃん!」

「ちょっとだけ」

男は、こちらに気づかなかった。あるいは、気づいて無視した。目を閉じたまま、狂ったように弾き続けている。

近くで聞くと、その音は、もっとひどかった。

でも。

アリスは、じっと聞いていた。

ひどいのに、なぜだろう。途中で、耳を塞ぎたくなくなった。

この音は、乱暴で、汚くて、めちゃくちゃで——そのくせ、必死だった。何かを言おうとして、うまく言えなくて、それでも言うのをやめない音だった。

胸の奥が、ざわりとした。

知っている。この感じを、知っている。

「……リオン」

アリスは、後ろを振り返った。

リオンは、路地の入口に立ったまま、じっとその音を聞いていた。帽子のつばの下で、目が動いていない。

「リオン」

「……うん」

彼は、腰のラッパに手をかけた。

「ちょっと、やってみる」

そして、唇に当てた。

すう、と息を吸って。

音を、置いた。

まっすぐで、澄んだ、たった一筋の音。それは、狂ったギターの音の真ん中に、ぽつんと落ちた。

弦の音が、ぴたりと止まった。

男が、目を開けた。

充血した目だった。落ちくぼんで、隈の濃い、けれど、恐ろしく澄んだ目だった。

「……今の」

かすれた声で、男は言った。

「今の、なんだ」

「返事です」

リオンが言った。

「あなたの音に」

男は、しばらく、リオンを見つめていた。

それから、笑った。

げらげらと、腹を抱えて、路地に響き渡るような声で笑った。それは、この街に来てから聞いた、最初の大きな音だった。

「返事だと」

男は、笑いながら、目尻を拭った。

「返事、ときたか。俺の音に。ははっ」

「変ですか」

「変だとも。この街で、俺の音に返事をした奴は、二人だけだ」

男は、楽器を抱え直した。

「一人は、あんただ、坊主」

「もう一人は」

男の顔から、笑いが引いた。

そして、静かに言った。

「ハンターだよ」

アリスの心臓が、跳ねた。

「でかい剣を背負った、頭のつるつるの、辛気くさい野郎さ。あいつはな、俺を斬りに来たんだ。当然だな。あのころの俺は、この音で人を狂わせてた。聞いた奴が、次々おかしくなった。俺自身、止められなかった」

男は、指先で弦を一度だけ、ぽろん、と鳴らした。

さっきまでの狂騒とは別人のような、きれいな音だった。

「あいつは、剣を抜いて、路地の入口に立った。俺は、弾き続けた。どうせ死ぬなら、最後まで弾いてやろうと思った」

「……」

「あいつ、斬らなかったんだ」

男は、遠くを見た。

「最後まで、そこに立って、聞いてやがった。一曲、まるごと。俺のイカれた音を、最後まで。……終わったとき、あいつはこう言った。『まだ、音楽だ』ってな」

路地の奥で、街灯の火が、ちりちりと揺れた。

「それから、俺の音は、人を狂わせなくなった。理由は知らん。ただ、誰かが最後まで聞いてくれた、ってのが、でかかったんじゃねえかと思ってる」

男は、アリスを見た。

初めて、まともに、目を合わせた。

「嬢ちゃん。あいつのとこへ行くんだろう」

「……どうして、わかるんですか」

「そういう匂いがする」

男は、肩をすくめた。

「伝えといてくれ」

そして、こう言った。

「俺のイカれた音を最後まで聴いてくれたのは、あの偏屈なハンターだけだった、とな」

その瞬間。

アリスの手のなかで、灯籠が、ぽう、と明るくなった。

紙の内側に、火が、もうひとつ増えていた。

*

それから、街を歩くたびに、声は増えていった。

*

屋根の上に、猫がいた。

月夜の色をした、しなやかな猫だった。ただ、大きすぎた。アリスの背丈ほどもある。目が、宝石みたいに光っていた。

見上げると、猫は、こちらを見おろした。

そして、声を出さずに、まっすぐ胸の奥へ話しかけてきた。

『あら。太鼓の子』

「……わかるんですか」

『音がするもの。とても、いい音』

猫は、しなやかに身を起こした。

『あなた、あの人のところへ行くのね』

「はい」

『じゃあ、伝えてちょうだい』

猫の尻尾が、ゆらりと揺れた。

『わたしはね、迷子だったの。長いこと。どこにも属せなくて、屋根から屋根を渡って歩くばかりで。人間の街にいれば化け物と呼ばれて、化け物のところへ行けば、半端者と呼ばれた』

「……」

『あの人は、わたしを斬りに来て、途中でやめたわ。理由を聞いたら、こう言ったの。「お前は、帰る場所を探しているだけだろう」って』

猫は、目を細めた。

『それだけよ。それだけなのに、わたし、その日から、ここに住めるようになったの。ここが、わたしの街になったの』

『伝えて。迷子だった私に、生きる場所の温もりを教えてくれたのは、あなただった、と』

たん、と。

アリスは、太鼓を叩いた。

灯籠の火が、また、ひとつ増えた。

*

橋のたもとに、白く透けた侍がいた。

刀の柄に手をかけたまま、川面を見おろして、微動だにしない。近づいても、こちらを見なかった。

「あの」

『……近寄るな』

低い声だった。

『拙者に近づくと、斬りたくなる。もう長いこと、そうなのだ』

「でも、斬ってません」

侍が、ゆっくりと、こちらを向いた。

『……童か』

「はい」

『そうか』

侍は、柄から手を離した。

そして、刀を、静かに鞘へ収めた。かちり、と乾いた音がした。

『あの男に会わば、語れ』

「ガルヴァンさん?」

『名は知らぬ。だが、あの男だ』

侍は、川面へ視線を戻した。

『拙者は、狂うておった。斬りたくて、斬りたくて、たまらなんだ。斬った相手の数など、とうに忘れた。ある夜、ついに、あの男と斬り合うた』

「……」

『三日、斬り合うた。あの男は、拙者を殺さなんだ。ただ、受け続けた。拙者が疲れ果てて、刀を落とすまで』

白い姿が、少しだけ揺れた。

『刀を落としたとき、拙者は、生まれて初めて、斬りたいと思わなんだ。あの男は、それを見届けて、去った。何も言わずにな』

『己が闇に呑まれながらも、拙者の刃の狂気を止めてくれたことに、感謝している、と。そう、伝えよ』

たん。

火が、増えた。

*

そして、街のはずれで。

夜会服の女が、街灯にもたれて煙草を吸っていた。彼女は、蝙蝠のような翼を、面倒くさそうに背中に畳んでいた。

「あら、かわいい子」

女は、アリスを見て笑った。ぞくりとするような、綺麗な笑い方だった。

「食べちゃおうかしら」

「食べません」

だいすけが、前に出た。

「オラが守るから!」

「ふふ。いい子じゃない」

女は、煙をふうっと吐いた。

「安心なさい。もう、食べないの。食べられなくなったんじゃなくて、食べなくてよくなったの」

「……なんでですか」

アリスが聞くと、女は、灯籠に目をやった。

「その火、ハンターのでしょう」

「わかるんですか」

「わかるわよ。全部、あの人の匂いがするもの」

女は、街灯にもたれたまま、少しだけ遠い目をした。

「わたしね、若い男の生気を吸って生きてたの。そうしないと死ぬと思ってた。何十年も、そう思ってた」

「……」

「あの人が来て、剣を突きつけて、こう言ったの。『試したことがあるのか』って」

女は、笑った。今度は、少し寂しそうに。

「試したこと、なかったのよ。吸わないでいたら死ぬって、誰かに言われて、それを信じてただけ。試してみたら、死ななかった。それだけの話」

彼女は、煙草を石畳に落として、踵で消した。

「馬鹿みたいでしょう。何十年もよ」

そして、アリスを見た。

「伝えて。わたしは、あなたに助けられた、って」

たん。

*

灯籠は、もう、ずいぶん明るくなっていた。

紙の内側で、いくつもの小さな火が、ゆらゆらと寄り集まっている。ひとつひとつ、色が微妙に違った。青みがかった火。赤い火。透き通った白い火。

アリスは、それを掲げて、街の終わりの坂道を登った。

「……いっぱいだね」

隣を歩くリオンが、そう言った。

「うん」

「みんな、伝えてくれって言うんだね。自分で言いに行けばいいのに」

「言えないんだよ、きっと」

アリスは、灯籠を見つめた。

「だって、みんな、あの人に一回、斬られかけてるんだもん」

リオンが、少し黙った。

「……そうか」

「怖いんだと思う。感謝してるけど、怖いんだと思う。だから、行けないんだ」

坂を登りきったところで、街が途切れた。

その先は、荒野だった。

草も木もない。ただ、風に削られた岩と、乾いた土が、どこまでも続いている。空は、相変わらず沈みきらない夕闇のままだった。

そして、その荒野の果てに。

城が、あった。

大きくはなかった。むしろ、地味だった。装飾らしい装飾もなく、灰色の石を無骨に積み上げただけの、四角い建物。窓は、ほとんどない。

そこだけ、時間が止まっているように見えた。

「……あの城」

リオンが、目を細めた。

「あそこ、たぶん、破片が落ちたところだ」

「破片?」

「ずっと昔、空に銀色の四角が現れて、割れたんだ。かけらが、いろんな世界に降った。ぼくらの塔にも落ちたし——たぶん、ここにも」

彼は、灰色の城を見つめたまま言った。

「かけらが落ちたところには、歪みができる。その歪みのまわりには、どうしても、行き場のないものが集まってくるんだよ」

空から、何かが降ってきて、その下にいたものを閉じ込めた。

アリスは、まだ見ぬ夕暮れ色の広間と、その真ん中で花に覆いかぶさっている小さな背中を、同時に思い浮かべた。

アリスの胸の太鼓が、こつ、と鳴った。

叩いていないのに。

内側から。

「……着いた」

アムルが、静かに言った。

「あそこが、あいつの城だ」

アリスは、灯籠を握る手に、力を込めた。

いくつもの火が、風にゆらゆらと揺れていた。


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