鳴らせる少年
歪んだ空気の向こうから、最初に届いたのは、匂いだった。
夜露と、石畳と、遠くの誰かの家の煮炊きの匂い。町の匂いではなかった。もっと古くて、もっと乾いていて、それなのに、どこか懐かしい。
「うわ、っと——」
足が地面をとらえた。石だった。冷たくて、ごつごつしている。
アリスは、顔を上げた。
夜だった。
見上げた空に、見たこともない星が瞬いている。遠くに白い塔がそびえ、目の前には、無数の扉を貼りつけた巨大な城が、月明かりのなかに黒々と佇んでいた。
胸が、詰まった。
「……ここ」
知っている。
丸い扉。細長い扉。きらびやかな金の扉。古びた木の扉。誰かが思いつく限りの入口を、世界中から集めて敷き詰めたような、あの城。
「ハルモニア」
「知っとるのか」
アムルが、隣で軽く肩を回していた。人間の身体で世界を渡るのは、それなりに堪えるらしい。
「来たことある。前に」
「ここは通り道だ。あいつの世界へ行くには、いくつか階を降りにゃならん。ここはそのいちばん上でな」
「うええ、寒っ」
だいすけが、ぶるりと震えた。ランドセルを背負ったままだった。
「おまえ、それ持ってきちまったのか」
「だってしょうがねえだろ!」
「宿題入ってるぜ、それ」バウルがげらげら笑う。
「うるせえ!」
騒いでいる二人の後ろで、アリスは、じっと城を見上げていた。
音が、聞こえる。
ピアノ。笛。優美な弦楽器。遠くから響く、清らかな歌声。いくつもの旋律が、リボンのように絡み合いながら、夜の街を流れていく。
前に来たときと、同じだった。
いや、違う。
前より、ずっと豊かだった。あのとき城の地下から這い上がってきた闇は、この国の音を根こそぎ食おうとしていた。それを止めたあと、崩れた城のあちこちから、人々が一音ずつ、おそるおそる鳴らしはじめた。あの細い音が、今は、こんなに厚くなっている。
アリスの目の奥が、じんと熱くなった。
「……ちゃんと、続いてたんだ」
*
城下の広場に、人が集まっていた。
篝火が焚かれ、その周りに、老人も、子供も、店を閉めたばかりの職人らしき男たちも、ぐるりと輪になっている。誰も喋っていない。喋る必要がないのだ。
輪の中央で、音が鳴っていた。
リュートが低く土台を作り、ハープがその上を撫でていく。鈴が跳ね、笛が返す。挨拶なのか、雑談なのか、それとも今日あったことの報告なのか。アリスにはわからなかったけれど、みんなが楽しそうなのだけは、はっきりわかった。
そして、その輪のいちばん外側に。
一人の少年が、腰かけていた。
小人のように尖った帽子。古い童話から抜け出してきたような、クラシカルな服。膝の上に、古びた、けれど磨き抜かれた、金色のラッパを載せている。
アリスは、動けなかった。
輪のなかで、リュートが低く一節を投げた。まるで、誰かを呼ぶような節だった。
少年が、顔を上げた。
ラッパを、唇に当てる。
すう、と息を吸って——
音が、鳴った。
まっすぐで、澄んだ、たった一筋の音色だった。それは輪のなかへするりと入っていって、リュートの節にぴたりと重なり、ハープに受け渡され、鈴に跳ね返されて、また戻ってきた。
会話だった。
彼は、今、話していた。
輪の人たちが、いっせいに笑った。声を出さずに、楽器で。何かおかしなことを言ったらしい。少年は、ちょっと得意そうに肩をすくめて、それから、また一節を吹いた。
アリスの頬を、涙が伝っていた。
自分でも、いつ流れたのかわからなかった。
——僕だけ、誰とも話せないんだ。
あの夜、窓の外の冷たい星空を見上げながら、そう言った少年がいた。慰める言葉が見つからなくて、ただ隣に立つことしかできなかった。
その子が、今、みんなと話している。
「……ねえちゃん、あれ」
だいすけが、袖を引っ張った。
「あれ、リオンじゃねえ?」
アリスは、うなずこうとして、うまくできなかった。
そのとき。
ラッパの音が、途中で、ぴたりと止まった。
少年が、こちらを向いた。
篝火の光と、月明かりのちょうど境目のあたりで、彼の目が、まっすぐにアリスを捉えていた。
輪の音楽が、ざわりと乱れた。何事かと、みんなが振り返る。
少年は、膝からラッパを取り落としそうになって、慌てて掴み直した。それから、立ち上がった。帽子が、ずり落ちかけた。
「……アリス」
小さな声だった。けれど、この夜の広場のどんな音より、はっきりと届いた。
「リオン」
アリスは、走った。
太鼓を胸に抱えたまま、石畳を蹴って、篝火の輪を回り込んで、まっすぐに。
リオンは、その場から動かなかった。動けなかったのかもしれない。
目の前まで来て、アリスは、急に足を止めた。
止めてから、何を言えばいいのか、わからなくなった。
「……あの」
「うん」
「聞こえた。今の」
「うん」
「すごく、きれいだった」
リオンは、口を開けて、閉じた。それから、帽子のつばをぐっと下げて、顔を隠した。
つばの下から、声だけが漏れてきた。
「……三年、かかった」
「三年?」
「うん。ここは、君のとこと時間の流れが違うから」
彼は、帽子を下げたまま続けた。
「毎日、練習した。ほんとに、毎日。最初のころは、また鳴らなくなっちゃって。あの雲の上で鳴ったのは、まぐれだったんだって、思って」
「……」
「でも、やめなかった」
帽子が、ゆっくりと上がった。
三年ぶんの顔が、そこにあった。少しだけ背が伸びていた。少しだけ、大人になっていた。それでも、笑い方だけは、まったく変わっていなかった。
「君が、嫌いじゃないって言ったから」
アリスは、太鼓を抱えたまま、その場にしゃがみ込んでしまった。
「……あーあ」
背後から、バウルの声がした。
「アリス、泣いてやんの」
「泣いてない」
「泣いてんじゃん」
「泣いてないってば!」
「ねえちゃん、鼻水」
「だいすけ!」
*
篝火のそばに、四人と、ひとりが座った。
ハルモニアの人たちが、気を利かせて、輪を少し広げてくれた。誰かが温かい飲み物を運んできて、誰かが毛布を持ってきた。言葉はひとつもなかったけれど、全部伝わった。
「へえ。それが、その太鼓の音の正体か」
リオンは、だいすけの顔をしげしげと眺めた。
「君、生きてたんだね」
「あったりめえだ!」
「げんすけ」
「だいすけ!」
「ごめんごめん」
リオンは笑って、それから、アムルとバウルのほうを見た。
「……そっちの二人は、わかるようで、わからないな」
「わかるだろ」バウルが、ぷうっと頬を膨らませた。「ほら」
赤い泡が、ひとつ、ぷかりと浮かんだ。
リオンの目が、丸くなった。
「……プク?」
「バウルだっつーの!」
「じゃあ、そっちの人は……いや、まさか」
アムルが、ぎょろりとした目を向けて、にっと笑った。
「首は減ったがな」
「竜さん!?」
「アムルだ」
篝火が、ぱちんと爆ぜた。
しばらく、めちゃくちゃに騒いだ。バウルが泡を飛ばし、だいすけが手のひらから小さな光を出して自慢し、リオンがそれに合わせてラッパを吹いて、ハルモニアの人たちが面白がって伴奏をつけた。夜の広場が、久しぶりに賑やかになった。
アリスは、その真ん中で、笑っていた。
笑いながら、心のどこかで、思っていた。
——この時間は、たぶん、そんなに長くない。
*
案の定、アムルが、火に薪をくべながら口を開いた。
「さて。楽しいところを悪いがな」
騒ぎが、すっと収まった。
「本題だ」
リオンが、ラッパを膝に戻した。表情が、静かになる。この子は昔から、こういう切り替えが早い。
「聞かせて」
アムルは、火を見たまま、話した。
竜だったころのこと。斬られかけて、斬られなかったこと。「お前からは、人の匂いがする」と言われたこと。そしてその男が、今どうなっているか。
リオンは、黙って聞いていた。
「……そのガルヴァンって人は」
聞き終えて、リオンは言った。
「今も、狩ってるの?」
「いや」
アムルが首を振った。
「もう、狩る相手がおらん。あいつが片づけちまったからな」
「じゃあ、何を」
「待っとる」
アムルは、そう言った。
「城で、棺を並べて、待っとる。いつか、あの連中を完全に幸福な形で目覚めさせられる日が来る、と信じてな」
篝火が、静かに燃えていた。
「……何人」
リオンが、聞いた。
「数えた者はおらん」
アムルは、短く答えた。
アリスは、胸の太鼓を抱く腕に、力を込めた。
夕暮れ色の広間。ずらりと並んだ、黒い石の箱。あのなかの一つに、あの女の子がいる。空から石が降ってくる夢を、まだ見続けている。
「……ねえ、アムルさん」
アリスは、聞いた。
「その人、その棺の人たちのこと、なんて呼んでるの」
アムルが、こちらを向いた。
「なんて、とは」
「名前で呼んでる?」
一瞬の間があった。
「……いや」
アムルは、思い出すように眉を寄せた。
「そういえば、聞いたことがないな。あいつは、いつも『あの者たち』と言う」
アリスの背筋を、ぞわりと何かが這った。
それは、恐怖に似ていた。けれど、恐怖ではなかった。
もっと悲しい何かだった。
「リオン」
アリスは、顔を上げた。
「一緒に来てくれる?」
リオンは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、金色のラッパを、ぎゅっと握った。
「……前は、僕が君を連れていったんだけどな」
「今度は、私が誘ってる」
「うん」
リオンは、笑った。三年ぶんの、いい笑い方だった。
「行くよ。もちろん」
彼は立ち上がり、篝火の輪のほうを振り返った。
そして、ラッパを唇に当てた。
一節、吹く。
短くて、明るくて、少しだけ寂しい音だった。
輪のなかから、いっせいに音が返ってきた。リュートが、ハープが、鈴が、笛が。老人が、こつん、と小さなベルを鳴らした。
行ってらっしゃい、と言っているのだと、アリスにはわかった。
「……行ってきます」
リオンが、そう言った。
生まれてはじめて、この国に、そう言えたのかもしれなかった。




