ねえちゃん
「どこで見た」
アムルは、もう一度そう言った。
さっきまでの豪快さが、きれいに抜け落ちている。低くて、硬い声だった。
「……夢で」
アリスは、太鼓を胸に抱えたまま答えた。
「今朝、夢で見たの。知らない女の子と、大きな男の人が話してた。おじちゃん、って呼ばれてた。頭がつるつるで、首にじゃらじゃらしたのをたくさん下げてて」
「……」
「女の子がね、夢の話をするの。お花畑にいて、空から石が降ってくるから、お花に覆いかぶさって守ってあげるって。そうすると、そのお花が、死んじゃった犬になるんだって」
アムルの喉が、ごくりと動いた。
「その人、優しかったよ。ちゃんと聞いてた。手も、ずっと握ってた。それで、いつかその夢はもっと幸せなものになって帰ってくるって、言ってた。空も大地も、花で埋め尽くそうって」
「嬢ちゃん、もういい」
「でも」
アリスは、顔を上げた。
「そのあと、音がしたの」
「音」
「重たいものが、ぴったり閉まる音。ごとり、って」
空き地に、風が渡った。枯れ草がざわりと鳴って、それきり、しんとした。
バウルが、兄の顔を見上げていた。その顔から、いつものへらへらした感じが消えている。
「……兄貴」
「わかっとる」
アムルは、片手で顔を覆った。それから、その手をゆっくり下ろした。
「嬢ちゃん。それは、夢じゃない」
「え?」
「あんたが見たのは、あいつの記憶だ」
アリスの背中が、ぞわりとした。
「……なんで。なんで私が、そんなの見るの」
「知らん」
アムルは、正直に言った。
「だが、心当たりはある。前に一度、聞いたことがあるんだ。あの城のなかで眠っとる連中は、みんな、あいつの記憶と繋がっとる。同じ夢を見とる、と」
「……眠ってる連中?」
アムルは答えなかった。代わりに、こう言った。
「あんたの太鼓が、さっき、返事をしただろう」
たん、と叩いた音に、こつ、と返ってきた、あの音。
アリスは、腕のなかの太鼓を見おろした。
「あれは、あいつの城の音だ。ここから、どれだけ遠いかもわからん場所にある城の音が、あんたの太鼓に返ってきた」
「そんなこと——」
「もう起きとる」
アムルは、静かに言った。
「あんたは、もう、あの城と繋がっちまってる。おれたちが会いに来る前から」
アリスは、何も言えなかった。
夕日は、ほとんど沈みかけていた。空き地のコンクリートが、赤から紫に変わっていく。遠くで、下校のチャイムが鳴っている。いつもの町の、いつもの夕方の音だった。
その、いつもの夕方のなかで、自分だけが、どこか別の場所にはみ出している気がした。
「……ねえ」
アリスは、聞いた。
「あなたたち、ほんとは、なんなの」
アムルが、片眉を上げた。
「どういう意味だ」
「だって、変だもん」
言葉が、勝手に出てきた。
「アムルさんもバウルも、自分の世界で人間に戻ったんでしょ。だったら、そこで暮らせばいいじゃない。なんで、こんなとこにいるの。なんで、こんな普通の町の、こんな空き地に、私が来るのを待ってたの」
バウルが、ぱっと兄を見た。
アムルは、しばらく黙っていた。
それから、観念したように息を吐いた。
「……鋭いな、嬢ちゃん」
「答えて」
「迎えに来た」
あっさりと、彼は言った。
「あんたを」
「……迎え」
「おれたちは、上から見てた。あんたが忘却の筆を落とすところをな。ああいうことができる人間は、そう多くない。いや、他に知らん」
アムルは、片膝をついたままのアリスと、目線を合わせた。
「だから、頼みに来た。世界を渡って、この町で待って、あんたが一人になる時間を選んで、声をかけた。……ずるいやり方だとは、思っとる」
「兄貴」
バウルが、遮った。
「それはずるいぜ。アリスはまだ——」
「まだ子供だ、と言いたいのか」
アムルが、弟を見た。
「おれもそう思う。思うが、他に手がない」
「けどよ」
「バウル」
アムルは、ゆっくりと立ち上がった。
「あいつを止められるのは、斬れる奴じゃない。呼べる奴だ」
その言葉に、バウルは口をつぐんだ。
アリスは、二人を交互に見た。大人と子供。竜だった兄弟。自分の物語を終わらせて、それでもまだ旅を続けている二人。
胸のなかは、ぐちゃぐちゃだった。
怖い。行きたくない。学校がある。明日の当番だってある。今朝の夢の、あの重たい音を、もう一度聞くのだと思うと、足の裏が冷たくなる。
でも。
——待ってる。
夢のなかの女の子が、そう言っていた。
うそつき、と笑って、それでも、待ってると言った。
「……その子」
アリスは、口を開いた。
「夢に出てきた、あの女の子。今、どこにいるの」
アムルは、答えなかった。答えないことが、答えだった。
アリスは、太鼓を抱く腕に、ぎゅっと力を込めた。
「わかった。行——」
「ねえちゃん!」
声が、空き地に飛び込んできた。
三人が、いっせいに振り返る。
塀の切れ目のところに、男の子が立っていた。
ランドセルを背負っている。半分ほどけた靴ひもを引きずっている。息を切らして、目を真ん丸にして、こちらを指さしている。
「ああ! ねえちゃんだ! ほんとにねえちゃんだ!」
アリスの視界が、ぐらりと揺れた。
知っている。
あの、跳ねた黒い髪。ぶっきらぼうな声。何より、その丸い目。
けれど、下駄は履いていない。ぼろぼろの着物も着ていない。泥だらけでもない。どこにでもいる、小学校三年生くらいの男の子だった。
「げん、すけ……?」
男の子が、ぶんぶんと首を振った。
「ちがう! だいすけ!」
「だいすけ?」
「オラ、だいすけ! げんすけじゃねえ! あれ、なんでオラ、げんすけって言ったんだろ、あんとき!」
彼は、走ってきた。まっすぐに、まっしぐらに。
そして、アリスにぶつかるように抱きついた。
「うわっ——」
「ずっと探してた!」
だいすけの声は、半分泣いていた。
「病院で目ぇ覚ましてからさ、ずっと! 夢だって、みんな言うんだ。かあちゃんも、先生も、ぜんぶ夢だって。でもオラ、覚えてんだもん。焚き火も、骨も、リオンの下手っぴなラッパも、ぜんぶ覚えてんだもん!」
「……だいすけ」
「太鼓の音、聞こえたんだ」
彼は、顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「たまに、遠くで、たん、って。それ聞くたんびに、ああ、ねえちゃん生きてるって思って。そんで、今日、すげえ近くで鳴ったんだ。走ってきたんだ、こっちのほうに」
アリスは、抱きしめ返した。
温かかった。
前は、光になって透けていった手だった。握っても握っても、こぼれていきそうだった手だった。
それが今、しっかりと重い。生きている子供の重さで、そこにいる。
「……大きくなった」
「そりゃなるだろ! 三年生だぞ!」
「三年生」
「ねえちゃん、何年生」
「五年」
「うわ、やっぱねえちゃんだ」
わけのわからないことを言って、だいすけは、へへっと笑った。あのときと、まったく同じ笑い方だった。
アムルが、後ろで低く言った。
「……この坊主も呼ばれとるのか」
「兄貴、これ、どうすんの」
「どうもこうもあるか」
アムルは、頭をがしがしとかいた。
「一人増えた」
「オラも行く!」
だいすけが、ぱっと振り返った。
「どこ行くのか知らねえけど、行く! ねえちゃんが行くとこ、オラも行く!」
「坊主。危ないぞ」
「知ってらあ」
だいすけは、胸を張った。
「オラ、一回死にかけてんだ」
空き地が、しんとした。
アムルは、しばらくその子を見おろしていた。それから、ふっと笑った。竜だったころの、あの豪快な笑い方だった。
「……いい面構えだ」
「そんじゃ、決まりだな!」バウルが、ぱんと手を叩いた。「四人だ!」
「三人と、坊主だ」
「四人だってば!」
夕日が、完全に沈んだ。
空き地に、青い夜の色が満ちてくる。町の家々に、ぽつり、ぽつりと明かりが灯りはじめた。
アリスは、太鼓を胸に抱えて、その明かりを見た。
自分の家の、台所の窓。あそこには、今、味噌汁の匂いがしているはずだった。
「……行ってきます」
小さく言って、アリスは、太鼓をひとつ叩いた。
たん。
その音を合図に、空き地の真ん中の空気が、ぐにゃりと歪みはじめた。




