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兄と、その知人

「学校、行かなくていいのか」

「行くよ!」

アリスは、慌ててかばんを拾い上げた。

「行くけど……その、行かなきゃいけないんだけど……」

「けど?」

「……気になるじゃない」

バウルは、ぷっと吹き出した。

「じゃ、放課後だな。ここで待ってる」

「ここで? 一日中?」

「昼寝でもしてるさ」

そう言って、彼はひょいと塀の上に戻った。座り心地を確かめるように尻をもぞもぞさせて、それから、ふと真顔になった。

「アリス」

「なに」

「……こっちの世界、あったけえな」

朝の光が、彼の跳ねた髪を透かしている。

「ずっと、こういうとこにいたかったんだ。竜だったころ。泡吐いて、飛んで跳ねて、そういうのも悪かねえけどよ。ほんとは、ただ、こういう朝に、こうやって座ってたかった」

アリスは、何も言えなかった。

「……ま、いいや。行けよ、遅刻すんぞ」

*

その日の授業を、アリスはほとんど覚えていない。

黒板の字を写しながら、頭のなかには、ずっと二つのものが並んでいた。塀の上のバウル。そして、夢のなかの、あの女の子。

——石なんて、降らない。

——そのときは、空も、大地も、花で埋め尽くそう。

きれいな言葉だと思った。思ったのに、思い出すたびに、背中のあたりがすうっと冷たくなる。

なぜだろう。

チャイムが鳴った。

*

放課後、ブロック塀のところに戻ると、バウルは本当にそこで寝ていた。塀の上で、両手を頭の後ろで組んで、大の字に近い格好で。よく落ちないものだと思った。

「バウル」

「んあ」

「起きて」

「おう」

彼は、むくりと起き上がって、大あくびをした。それから、塀の向こうへ顎をしゃくった。

「こっち」

塀の向こうは、小さな空き地だった。使われなくなった資材置き場で、夕方になると、いつも誰もいない。枯れた草のあいだに、コンクリートの塊がいくつか転がっている。

その、いちばん大きな塊に、男が腰かけていた。

アリスは、足を止めた。

大人だった。二十代の半ばくらいだろうか。背が高く、肩幅が広い。青みがかった長い髪を、首の後ろで無造作に束ねている。着ているものは、この町のどんな服とも違った。旅の途中でずっと着古してきたような、革と布の重ね着。

そして、その顔を見た瞬間、アリスは息を呑んだ。

目だ。

ぎょろりとした、大きな目。三本の首が、そろって笑ったときの、あの目。

「……竜さん?」

男は、ゆっくりとこちらを向いた。

そして、口の端を、にっと吊り上げた。

「よう、嬢ちゃん」

声まで同じだった。腹の底に響く、あの豪快な声。ただ、三重に重なってはいなかった。ひとつぶんの、人間の声だった。

「うそ……」

「うそじゃねえ。この通りだ」

男は両手を広げてみせた。

「首は一本きりだがな。生えてこねえから、大事に使わにゃならん」

「……ほんとに、竜さん?」

「アムルだ」

男は言った。

「そう呼ばれてた。ずいぶん昔にな。……名乗るのは、何百年ぶりだかわからん」

アリスは、そろそろと近づいた。近くで見上げると、やっぱり大きかった。竜だったころの、あの広い背中を思い出した。

「……あったかかった」

「あ?」

「竜さんの背中。あったかかったよ」

アムルが、一瞬、目を見開いた。

それから、ぐしゃりと顔をゆがめて、ふん、と鼻から息を吐いた。照れたときの癖だ。人間になっても変わっていない。

「兄貴、泣いてんの」

「泣いとらんわ、たわけ」

「兄貴?」

アリスが聞き返すと、バウルがへへっと笑った。

「言ってなかったっけ。こいつ、おいらの兄貴なんだ」

「え——ええっ?」

「なんだよ、その顔」

「だ、だって、全然似てない!」

「顔は似とらん」アムルが肩をすくめた。「呪われた日が、同じでな」

その一言で、空気が少し変わった。

アムルは、コンクリートの塊から降りて、アリスの前に立った。そして、意外なほど自然に、片膝をついた。目線が、アリスと同じ高さになる。

「嬢ちゃん。頼みがある」

「バウルからも、そう言われた」

「そうか」

アムルは、少し言葉を探すように、宙を見た。

「……昔の話をしていいか」

アリスは、うなずいた。

「おれは、人間だった。騎士だった。国が滅びかけて、竜になるしか守る手がなくて、なった。呪いだと言う奴もいたし、加護だと言う奴もいた。どっちでもよかった。おれは飛べたし、燃やせたし、それで守れるものがあった」

夕方の風が、枯れ草を鳴らした。

「だが、しばらくして気づいた。守った国の連中が、おれを見て逃げるんだ。当たり前だな。おれは竜だ。礼を言われたことも、あるにはあった。だが、そいつらは、二度とおれに近づかなかった」

アリスは、じっと聞いていた。

「それから、長かった。何百年か、忘れた。おれは、あちこちの世界を飛んだ。名前も、なんのために飛んでるかも、そのうちわからなくなった。忘れられて、忘れて、それで終わるはずだった」

アムルは、アリスをまっすぐに見た。

「あの雲の上で、嬢ちゃんが、おれの名を呼んだろう」

「……うん」

「厳密には、呼んでない。『竜さん』だ。名前じゃねえ」

「あ」

「それでも、思い出した」

アムルの声が、少し低くなった。

「背中があったかいと言われたことも。誰よりも速く飛んだと言われたことも。ああ、おれはそういうものだった、と思い出した。だから、戻れた」

彼は、自分の手のひらを見おろした。竜の爪ではない、人間の手を。

「戻れちまったんだ、おれは」

その言い方に、アリスは引っかかった。

嬉しそうではなかった。

「……戻れて、よかったんじゃないの?」

「よかったさ」

アムルは、あっさりと言った。

「よかった。だからこそ、寝覚めが悪い」

「え?」

「おれと同じところに立って、まだ、戻れてない奴がいる」

アリスの背中を、すうっと冷たいものが撫でた。

「そいつはな」

アムルは、遠くを見た。

「人を守るために、化け物を狩り続けた男だ。強かった。おれよりずっと強かった。ずっと、正しかった。……そして、狩りすぎた」

「狩りすぎた?」

「化け物を斬るには、化け物に近づかにゃならん。近づきすぎると、うつるんだよ」

アムルの声は、静かだった。

「今じゃ、あいつ自身が、あいつが狩ってた側のものになっちまってる」

夕日が、空き地の枯れ草を赤く染めていた。

「昔、まだおれが竜だったころだ。あいつは、おれを斬るために来た。剣を抜いて、目の前まで来た。おれは、抵抗しなかった。もう、どうでもよかったからな」

「……どうなったの」

「斬らなかった」

アムルは、口の端をゆがめた。

「刃を下ろして、こう言いやがった。『お前からは、人の匂いがする』とな。それだけ言って、行っちまった」

彼は、立ち上がった。アリスは、ぐっと見上げる形になった。

「あのとき、あいつが斬ってりゃ、おれは今ここにいない。人間にも戻れてない。嬢ちゃんに会うこともなかった」

「……」

「あいつは、おれの中に人が残ってるのを、見つけてくれた。だが、自分の中のそれには、気づいてねえ」

風が止んだ。

「気づかせてやりたいんだ」

アムルは、そう言った。

「おれ一人じゃ無理だ。バウルと二人でも無理だった。もう、試した。あいつは、おれの言うことなんざ聞きゃしねえ。……だが、嬢ちゃんならと思った」

「私が?」

「あんたは、名前を呼ぶだろう」

アリスの胸が、どくん、と鳴った。

「おれを呼び戻したときみたいに。忘れられたもんを、片っ端から呼び戻したときみたいに。あいつには、それが要る」

「……その人、なんて名前なの」

アムルは、少しのあいだ、黙った。

それから、言った。

「ガルヴァン」

その名前を聞いた瞬間。

アリスの耳の奥で、ごとり、と、重たいものが閉じる音がした。

「……っ」

アリスは、思わず自分の耳を押さえた。

「どうした」

「え、あ……ううん。なんでも」

なんでもなくは、なかった。

今朝の夢が、いっぺんに戻ってきた。夕暮れ色の広間。並んだ黒い箱。女の子の手を握る、大きな男の手。数珠。剃り上げた頭。

——それが、俺の、いつも見る夢だ。

それから、もうひとつ。

その名前の、はじめの二音だけが、口の形として先に戻ってきた。ずっと前に、力いっぱい声にしたことのある形だった。

けれど、それが何だったのかは、思い出せなかった。

「アリス?」バウルが、心配そうに覗き込んだ。「顔、まっ白だぜ」

「……ねえ、アムルさん」

アリスは、かすれた声で聞いた。

「その人、頭、つるつる?」

アムルの動きが、止まった。

「……なんで、知ってる」

「首に、じゃらじゃら、いっぱい下げてる? 黒い服で、すごく大きな剣を、背中に」

「嬢ちゃん」

アムルの声が、鋭くなった。

「どこで見た」

アリスは、答えられなかった。

代わりに、かばんのなかへ手を突っ込んだ。今朝、なんとなく持ってきてしまったものが、そこに入っている。取り出すと、夕日を浴びて、その古い革が飴色に光った。

げんすけの、太鼓だった。

アリスは、それを胸に抱いて、ひとつだけ叩いた。

たん。

音は、いつも通りに、温かかった。

けれど今日は、そのあとに続いた。

空き地の枯れ草の向こう、誰もいないはずの資材置き場の奥から。

こつ、と。

固いものを、内側から叩くような音が、たしかに、返ってきた。


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