赤い泡
——ごとり。
その音で、アリスは目を覚ました。
心臓が、どくどくと鳴っている。布団をはねのけて起き上がると、窓から差し込む朝の光が、目に痛いほど白かった。
「……夢?」
呟いてから、アリスは自分の手のひらを見た。
指先に、まだ感触が残っている。誰かの、大きな手に握られていた感触。ごつごつして、少し冷たくて、それなのに、ひどく優しい手だった。
お花畑。降ってくる石。覆いかぶさる、小さな背中。
ペロ君。
「……ペロ?」
アリスは、眉をひそめた。
シロじゃない。ペロだ。
自分の夢のはずなのに、犬の名前が違っている。それに、あの女の子。声も、話し方も、自分によく似ていた。似すぎていた。でも、あれは自分ではなかった。夢の中のアリスは、あの子を、少し離れたところから見ていた気がする。
胸の奥が、ざわりとした。
窓辺の鏡台に目をやる。
お化粧鏡は、静かだった。朝の光をまっすぐに跳ね返して、波紋ひとつ立てていない。その手前に、げんすけの太鼓が、いつもの場所に置いてある。
アリスは、そっと手を伸ばした。
たん。
いつもと同じ、温かい音。
——返事は、なかった。
「……何よ、それ」
自分でもよくわからないまま、そう思った。返事なんて、あるはずがないのに。
「アリスー、朝ごはんー」
台所から声がした。
「はあい」
アリスは、頭をぶんぶんと振って、部屋を出た。
*
「あら。今日はちょっと、眠そうね」
味噌汁をよそいながら、お母さんが言った。
「変な夢見ちゃって」
「怖い夢?」
「ううん」
アリスは、卵焼きを箸でつつきながら、少し考えた。
「すごく、優しい夢だった。……たぶん」
「なあにそれ」
お母さんが笑う。アリスも笑った。でも、笑いながら、胸のどこかが落ち着かなかった。
優しかった。それはまちがいない。あの男の人は、女の子の話をちゃんと聞いていたし、握った手を離さなかったし、うそだと言われても怒らなかった。
なのに、目が覚める直前に聞こえた、あの音。
重たいものが、ぴったりと閉じる音。
「ごちそうさま」
*
通学路は、いつもの道だった。
ブロック塀の途中に、いつもの猫がいる。茶色いぶちの、やせた野良猫。
アリスがしゃがんで手を出すと——猫は、近づいてこなかった。
塀の上に座ったまま、じっとこちらを見ている。耳だけが、さっきから、小刻みに動いていた。
「……なに。どうしたの」
そっと指を伸ばす。
猫は、その手を、ひょいと避けた。逃げるのではなく、触られるのを断るような、はっきりとした避け方だった。
「あのね。今日、変な夢見たの。知らない子の夢」
猫は、答えなかった。もっと撫でろ、とも言わなかった。
アリスの指先が、行き場をなくして、朝の空気のなかに浮いたままになる。
いつもと同じ朝のはずだった。同じ道で、同じ塀で、同じ猫だった。
それなのに、どこか、紙一枚ぶんだけ、ずれている。
太鼓が返事をしなかったときと、同じ感じがした。
そのとき。
猫の背中の毛が、ぶわりと膨らんだ。
次の瞬間、猫は塀を蹴って向こう側へ飛び降りていった。
「え、ちょっと——」
アリスが顔を上げる。
塀の上に、誰かがいた。
男の子だった。
塀のへりに腰かけて、両足をぶらぶらさせている。アリスより、少し年下くらい。着ているのは、この町では絶対に見ないような、緑と青の妙にぱりっとした服。
そして、髪の毛が、炎みたいにツンツンと跳ねていた。青みがかった、その色。
アリスの手から、かばんが滑り落ちた。
「よう」
男の子は、にっと笑った。
「久しぶりだな、アリス」
言葉が出なかった。
胸のなかで、いろんなものが一度にぶつかった。雲の庭。虹の橋。赤い泡。ぷかりと浮かんだ火の玉。膝の上にぽすんと収まった、軽い重み。
そして、震えているのを見ないふりをした、小さな手。
「……プク?」
「おっ、当たり」
男の子は、得意げに胸を反らして——それから、急に、ばつが悪そうに鼻の頭をかいた。
「あー、いや。ちがう。ちがわねえけど、ちがう」
「え?」
「……もう、プクじゃねえんだ、おいら」
彼は、塀の上でもぞもぞと座り直した。
「呪いが解けたんだよ。あの筆がぶっ壊れたあとに、なんか、するっと。だから、これが、ほんとのおいら」
言われてみれば、そうだった。前は、もっとずんぐりしていた。膝に乗るくらい小さかった。今は、ちゃんと男の子の背丈がある。
「じゃあ……名前は?」
「バウル」
「バウル」
「うるせえな、笑うなよ」
「笑ってないよ!」
「笑ってんじゃねえか」
「だって」
アリスは、こみ上げてくるものを、うまく押し込められなかった。
「だって、生きてるんだもん。ちゃんと、そこにいるんだもん」
バウルが、きょとんとした。
それから、ふん、と鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
「……あったりまえだろ。忘れんなって言ったの、そっちだぜ」
「忘れてないよ」
「知ってる」
彼は、こちらを見ないまま言った。
「ずっと、聞こえてたからな。あんたの太鼓」
アリスは、息を呑んだ。
「毎朝、たん、って。一回だけ。……あれ、なんなんだよ。いってきますか?」
「……うん」
「そっか」
バウルは、ちょっとだけ笑った。
そして、塀の上からひらりと飛び降りた。着地の音は、ほとんどしなかった。前と同じだった。
「ねえ、バウル。どうやってこっちに——」
「アリス」
彼が、遮った。
さっきまでのふざけた調子が、すっと消えていた。
「あんたに、頼みがある」
朝の道は、いつもと同じだった。塀の向こうで鳥が鳴いて、遠くで自転車のベルが鳴って、校門のほうから誰かの笑い声がしている。
その真ん中で、バウルは、口をすぼめた。
ふう、と息を吐く。
赤い泡が、ひとつ、ぷかりと浮かんだ。
内側に小さな火種を宿した、あの懐かしい泡。それは朝の光のなかを、ゆっくりと昇っていって——
ぱちん。
小さな火花を散らして、消えた。
「助けてほしい奴がいるんだ」
バウルは、まっすぐにアリスを見た。
「……おいらの兄貴の、知り合いでさ」




