鏡の部屋
戦いの終わった雲の庭は、朝の光に静かに満たされていた。
下の世界の光は、もうひとつも欠けていない。無数の小さな灯りが、夜明けの空の底で、安らかにまたたいている。
雲の庭のいちばん奥で、一枚の鏡が、月明かりとも朝日ともつかない、やわらかな銀色をとろりとたたえていた。
アリスは、それが自分の帰り道だと、すぐにわかった。あの夜、吸い込まれた、窓辺のお化粧鏡。それと、そっくり同じ波紋が、表面をゆっくりと撫でている。
「……行っちゃうのか」
プクが、めずらしくしゅんとした顔で、足元の雲をつま先でつついていた。
「うん。私の世界に、帰らなくちゃ」
「ちぇっ。せっかく仲良くなったのによ」プクは、ごしごしと目をこすった。「……でも、達者でな。おいらのこと、忘れんなよ!」
「忘れないよ。ぜったいに」アリスは笑った。「プクのこと、ちゃんと覚えてる。火の泡も、おいらって言うところも、ぜんぶ」
青い竜が、三本の首をのっそりと近づけた。
「嬢ちゃん。よく走ったな」いちばん右の首が、ガハハと笑う。「おれの背に乗せた人間で、最後まで音を上げなかったのは、貴様が初めてだぞ」
「竜さんも……ありがとう。背中、あったかかった」
竜は、照れたように、ふん、と鼻から煙を吐いた。
「……嬢ちゃん」
いちばん左の首が、めずらしく、ぼそりと口をひらいた。
「もしまた、あの鏡がお前を呼ぶことがあったらな。そんときゃ、また乗せてやるわい。おれの背中は、いつでも空いておる」
「約束だよ」
「竜に、二言はないわい」
三本の首が、そろって、にっと笑った。
ヒルドが、槍を地につき、静かに頭を下げた。
「あなたの拍を、私は忘れません。——よき旅人でした」
それから、ヒルドは槍を持ちかえると、その柄を、こつん、と自分の胸当てに当てた。澄んだ金属の音が、朝の庭に響く。それが、天上の戦士のいちばん深い敬礼なのだと、言葉にされなくても、わかった。
「あなたの帰る世界に——よき拍の、あらんことを」
イナンナは、ただやさしく微笑んでいた。多くを言わず、けれど、その瞳がすべてを見送っていた。
いや——ひとつだけ、女神は言葉を贈った。
「アリス。覚えておきなさい。あなたが帰っていく世界も、この万華鏡の、大切なひとかけらです。あちらとこちらは、切り離されてなどいない。あなたがその太鼓を鳴らすとき、その音は、めぐりめぐって、きっと、この庭にも届くでしょう」
「……ほんとうに?」
「ええ。何千年も、ここからすべてを見てきた私が言うのです。まちがい、ありません」
そう言って、女神は、いたずらっぽく、ほんの少しだけ笑った。それは初めて見る、まるで少女のような笑顔だった。
最後に、リオンが前へ出た。
いつものひょうきんな笑顔は、どこにもなかった。何か言いかけては、口ごもる。案内人のふりをした強がりの彼が、別れの言葉を、うまく見つけられずにいた。
「リオン」アリスはそっと言った。「ありがとう。私を、ここまで連れてきてくれて」
「……僕のほうこそ、なんだ」
リオンは、ようやく口を開いた。
「君に会うまで、僕は、ずっとひとりだった。音楽の国に生まれたのに、誰とも音を交わせなくて。このラッパも、一度だって、まともに鳴らせなかった。……でも」
リオンは、腰の古いラッパを、そっと両手で握った。
「君が、僕を見つけてくれた。怖がりの、強がりの、ほんとの僕を。だから、今なら——鳴らせる気がするんだ」
リオンは、ラッパを口元へ運んだ。
すうっと、息を吸う。
そして。
——それは、これまでのようなかすれた音では、なかった。
澄みきった、まっすぐな一筋の音色が、雲の庭のすみずみまで響きわたった。
アリスは、息を呑んだ。
なんてきれいな音だろう。それは、はじめて言葉を覚えた子供が、せいいっぱいありがとうと言うような。あるいは、長いあいだ声を失っていた人が、ようやく歌いだすような。よろこびと、さびしさがひとつになった、美しい旋律だった。
下の世界の光が、その音に応えるように、いっせいにふるえた。
リオンは、ラッパから口を離すと、自分でも信じられない、というように、それを見つめた。それから、くしゃっと泣き笑いの顔になった。
「……鳴った」
「うん」アリスの頬にも、涙がつたっていた。「うん。すごく、きれいだったよ、リオン」
「これは、君へのお礼の音だ。世界が遺した、いちばん善い音で。……君のことは、ぜったいに忘れない」
アリスは、胸にげんすけの太鼓を抱えていた。
帰り道の鏡の前で、一度だけ迷った。これは、この世界のものだ。持って帰っても、いいのだろうか。
すると、イナンナの声が、やさしく背を押した。
「お持ちなさい。それは、あなたが繋いだ、たくさんの記憶のしるしです」
アリスは、こくりとうなずいた。太鼓を、しっかりと抱き直す。
鏡に向かって、一歩、踏み出す。
銀色の波紋が、アリスを、やわらかく迎え入れた。
最後に、振り返る。
みんなが、手を振っていた。プクも、竜も、ヒルドも、イナンナも。そして、リオンが、もう一度ラッパを高く掲げ、別れの音を、長く、長く鳴らしてくれた。
その音に包まれながら、アリスは、光のなかへ足を踏み入れた。
——とん、とん。
柱時計の針の音。
気がつくと、アリスは、自分の部屋の布団の上にいた。
窓からは、あの夜と同じ月明かりが、静かに差しこんでいる。あたりは、しんと静まり返っていた。まるで、ほんの少しも時間が経っていないみたいに。
夢だったのだろうか。
ぼんやりとそう思いかけて——アリスは、はっと胸を見た。
そこには、たしかに、抱えていた。げんすけの、あの太鼓を。
アリスは、布団からそっと起き上がった。
窓辺の鏡台へ、太鼓をそっと置く。お化粧鏡は、もう波打ってはいなかった。ただ、月明かりを映して、静かに澄んでいる。
アリスは、その太鼓の表面を、指先でそっと叩いた。
たん。
その音は、あの世界で聞いたのと、まったく同じ温かい音だった。
たん、たん。
——とん、とん。
いつのまにか、アリスの指は、もう片方の手で、シロが眠っていた隣のシーツを、そっと叩いていた。
たん、と太鼓が鳴る。
とん、とシーツが応える。
ふたつの音が、ひとつに重なって、しずかな夜に優しく響いた。
不思議だった。
シロの顔は、まだ少し、ぼやけている。鳴き声も、はっきりとは思い出せない。
でも、もう怖くなかった。
たん。とん。たん。とん。
ふたつの音が重なっているあいだ、シロは、たしかにそこにいた。胸の、いちばん奥のほうに。
アリスは、太鼓を、ぎゅっと抱きしめた。
「……ただいま、シロ」
声に出すと、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。それは、あの夜のつめたい涙とは、まるでちがう温かさだった。
窓の外で、夜が、少しずつ白みはじめていた。
長いあいだ眠れなかった夜が、ようやく明けようとしている。
アリスは、ふと思った。あのげんすけは、今ごろ、どうしているだろう。きっと、どこかの町で、母親のそばで、元気に走り回っているはずだ。同じ、この空の下のどこかで。
いつか、会えるかもしれない。
そう思うと、知らない明日が、ほんの少し楽しみに思えた。
アリスは、立ち上がり、窓を、いっぱいに開けた。
朝の、ひんやりとした空気が、髪を撫でていく。
遠くで、小鳥が鳴きはじめた。
アリスは、大きく息を吸いこんだ。胸の太鼓を抱えたまま。覚えているもの、ぜんぶを抱えたまま。
——もう一度、この現実を生きるために。
*
それから、いく日かが過ぎた。
「アリスー、朝ごはん、できてるわよー」
台所から、お母さんの声がする。おみそ汁の匂い。焼いた卵の匂い。
「はあい」
アリスは、机の上の太鼓を、指先でひとつ叩いてから、部屋を出た。
たん。
いってきます、のかわりの音だった。
食卓で、お母さんが、不思議そうにアリスを見た。
「あんた、最近、よく食べるようになったわねえ」
「そう?」
「そうよ。それに——」お母さんは、少しだけ言いよどんでから、笑った。「よく、笑うようになった」
アリスは、卵を口に運びながら、そうかなあ、と首をかしげた。シロがいなくなってから、この食卓で、自分がずっとうつむいていたことを、アリスは、ちゃんと覚えている。お母さんがその背中を、ずっと心配そうに見ていたことも。
「ごちそうさま!」
通学路は、いつもと同じ道だった。
でも、いつもと同じでは、なかった。
ブロック塀の上に——猫がいた。茶色いぶちの、やせた野良猫だった。シロとは、似ても似つかない。
アリスは、しゃがんで、そっと手をのばした。猫はしばらく警戒していたけれど、やがて、アリスの指先に、ちょん、と鼻をつけた。
「……おはよ」
のどを撫でると、ごろごろと音が鳴った。シロの音とは、ちがう音。でも、あったかいのは、同じだった。
胸の奥が、ちくりとした。まだ、痛い。きっとこれからも、ふとしたときに、痛むのだろう。
でも、それで、いいのだ。
痛いのは、覚えているから。覚えているってことは、ちゃんと、大事だったってことだから。
「またね」
猫に手を振って、アリスは歩きだした。
校門の前で、クラスの子が手を振っている。おはよう、と呼ぶ声に、アリスも大きく手を振り返した。
そのとき。
風が、ふいに、強く吹いた。
街路樹の並木がいっせいにざわめいて——その葉ずれの奥から、ほんのかすかに、音が聞こえた気がした。
澄みきった、まっすぐな、一筋の音色。
はじめて言葉を覚えた子供が、せいいっぱい「ありがとう」と言うときみたいな。
アリスは、足を止めて、空を見上げた。
朝の空は、どこまでも青くて、雲がひとつ、ゆっくりと流れていくだけだった。
「……聞こえたよ」
アリスは、空に向かって、小さく言った。
「私も、忘れてないよ。ぜんぶ、ちゃんと、覚えてるよ」
誰にも聞こえないくらいの、小さな声で。でも、きっと届くと知っている声で。
そして、アリスは走りだした。かばんの中で、教科書がかたかたと鳴る。それは、なんだか、小さな太鼓の音に似ていた。
たん、たん。とん、とん。
知らない明日へ、アリスは駆けていく。
覚えているもの、ぜんぶを、抱えたまま。




