奇跡の光
筆が、振り下ろされる。
赤黒い穂先が、まっすぐ、アリスたちの上に落ちてくる。
アリスは、太鼓を抱きしめたまま、ぎゅっと目を閉じた。——けれど、逃げなかった。
逃げたら、忘れることになる。シロのことも、げんすけのことも、ここまで一緒に来たみんなのことも。それだけは、いやだった。
だから、アリスは目を閉じたまま叩いた。
たん。
「……シロ」
声に出して、名前を呼んだ。
そのとたん。
アリスの胸の太鼓から、ぽう、と小さな光が灯った。あたたかい金色の光。それは、夜になると脇にくっついてきた、あの温もりとそっくり同じ色をしていた。
落ちてきた穂先が、その光に触れて——ぴたりと止まった。
『……っ』
優しい声が、初めてひるんだ。
アリスは、目を開けた。
「忘れてない。私、シロのこと、ぜんぶ覚えてる」
たん、たん。
「やわらかい毛も。とんとんって鳴る尻尾も。最期にそばにいられなかったことも。……ぜんぶ覚えてる。覚えてるから、シロは、まだ、私のなかにいる」
呼ぶたびに、光が強くなる。
「げんすけ!」
たん。また一つ、光が灯る。荒っぽくて温かい、げんすけの光だった。
「ガルド!」
たん。寡黙な、黄金の光が灯った。
——けれど、その光だけは、ほかのどれよりも、かすかだった。まるで、その名前が、ほんの少しだけ足りていないときのように。
アリスは、一瞬だけ、不思議に思った。けれど、そのときは、深く考えなかった。
そして、アリスは、いちばん遠くへ消えてしまった、あの光のことを思った。顔も名前も知らない。けれど。
「戦ってた、あなたのことも! 私、ちゃんと見てたよ! 忘れない!」
たん——。
消されたはずの場所に、ぽつりと小さな光が、もう一度、灯った。
アリスは、息を呑んだ。
——消えてなかった。
石像の並ぶ、あの塔の踊り場で、アリスは思ったのだ。忘れられたって、消えてなんかいない。誰かが、もう一度、思い出してあげさえすれば、と。
それは、ほんとうだったのだ。
「……僕にも、呼ばせて」
リオンが、帽子を握りしめて前へ出た。声が震えていた。
「ずっと怖くて、呼べなかった。僕の前に消えていった、案内人たちのこと。塔のなかで、物言わぬ石になってた、あの人たちのこと。でも——もう、逃げない」
リオンは、空に向かって叫んだ。一人ずつ、名前を。先に消えた仲間たちの、名前を。
呼ばれるたびに、雲の庭に、光がひとつ、またひとつと灯っていった。
「おいらも!」プクが胸を張った。「えーっと……みんな! おいらのこと助けてくれた、ぜんぶの、みんな!」
竜が、三本の首をそろえて低く吼えた。
「忘れられた獣どもよ。骨になって、なお眠れぬ者どもよ。——おれは、貴様らを覚えておるぞ」
砂漠の骨が、塔の底の翼の化石が、はるか下で青白く燐光を放ちはじめた。
そして。
遥か下の、消え残った光たちが、いっせいに強くまたたいた。
まるで、こちらの声が聞こえたみたいに。
——はるか下の、金色の砂の世界で。
砂丘のてっぺんに立った男の子が、握りしめた鏡の欠片を、夜空へ高くかかげていた。欠片は、砂まみれの小さな手の中で、それでも星のようにまたたいている。男の子は、風に負けない声で、消えた隣の世界へ呼びかけていた。名前を。何度も、何度も。
——雪にとざされた、白い世界で。
毛皮のフードをかぶった女の子が、こごえる指で欠片をにぎり、吹雪の空を見上げていた。まつげに氷の粒をつけたまま、女の子は歌っていた。忘れないための歌を。声が凍りつく前に、次の名前を。
——見わたすかぎりの、海の世界で。
小さな舟の上で、日に焼けた子が、欠片を胸に当てて叫んでいた。波がどんなに舟を揺らしても、その子は倒れなかった。覚えてるぞ、と。水平線の向こうまで届けとばかりに、何度でも。
——空へ届く塔のならぶ、眠らない光の街で。
いちばん高い屋根の上に、ひとりの少年が立っていた。かかげた欠片の光に応えるように、街じゅうの灯りが明滅をくり返す。まるで、街ぜんたいが、一緒に名前を呼んでいるみたいに。
——そして、いちばん遠い、緑の草原で。
風にゆれる草のまんなかに、小さな子がひとり、立っていた。顔は見えない。けれど、その手の欠片は、どの光よりも古く、どの光よりも静かに、まっすぐ天へ光の柱を立ちのぼらせていた。あの、すべてのはじまりの場所から。
みんな、知らない子だった。
顔も、名前も、話す言葉さえ、ちがうのかもしれない。
でも、みんな、同じものを握っていた。同じ夜を見上げていた。誰かを失くして、それでも忘れないと決めた——その目の光だけが、そっくり同じだった。
アリスの胸が、熱くふるえた。
ひとつの光が、隣の、消えた世界の名を呼ぶ。すると、消えたはずの世界に、また光が灯る。その光が、また次の名を呼ぶ。
ちかり。ちかり。ちかり。
下の世界じゅうで、消えた光がつぎつぎとよみがえっていく。覚えている者がいるかぎり、どの世界も、ほんとうは消えてなどいなかったのだ。
無数の光が、下から立ちのぼる。アリスたちの記憶の光が、上から降りそそぐ。
上と下の光が、夜空のまんなかで出会った。
それは、もう誰にも止められない、大きな大きな光の奔流になった。
「いきます——!」ヒルドが翼を広げ、その光のうねりの先頭に立った。
光の奔流が、まっすぐに忘却の筆へと駆けのぼっていく。
筆は、その光を、いつものように墨へ吸い込もうとした。
けれど——今度ばかりは、吸い込めなかった。
『……どう、して』
優しい声が、かすれた。
『どうして、忘れてくれないの。忘れれば、楽になるのに。痛みも、悲しみも、ぜんぶ……』
「痛くても、いいの」
アリスは、太鼓を、力いっぱい鳴らした。
たん——!
「痛いのは、覚えてるから。だから、消さない。痛いまま、連れていくの!」
光の奔流が、ふくれあがった。
筆が、墨を振りまいて抗った。ひと撫で、ふた撫で。けれど、撫でられたそばから、光は何度でも灯りなおす。消しても、消しても、追いつかない。
ぎち、と。
赤黒い柄に、はじめて、ひびが走った。
「いまっ……押し返せ——!」ヒルドが叫んだ。
たん、たん、たん! アリスが太鼓を打ち鳴らす。その拍に乗って、下からの光と上からの光が、どっとひとつにうねった。
奔流が、忘却の筆を、根元から呑みこむ。
赤黒い墨が、じゅうっと音を立てて蒸発していく。ひびの走った柄が、まんなかから二つに折れ——巨大な筆が、穂先からさらさらと光の粒になって、ほどけていった。
『……ああ』
最後に、優しい声がぽつりとこぼした。それは、悲しげで、けれどどこか、ほっとしたような声だった。
『……わたしも、いつか、誰かに、覚えていてもらえるのかしら』
その声が消える前に、アリスは、思わず呼びかけた。
「うん。私、覚えてる。あなたのことも」
ふっと、優しい声が笑った気がした。
そして、忘却の筆は、夜空に無数の星屑をまいて、消えていった。
空に、星が戻ってきた。
消されたはずの世界が、下のあちこちで、ひとつ残らず、また灯っている。雲の庭に、晴れやかな朝の光がゆっくりと差しこんできた。
アリスは、太鼓をぎゅっと抱いた。
胸のなかに、まだシロの光が、あたたかく灯っている。顔も鳴き声も、いつかはまた、薄れていくのかもしれない。
でも、もう、怖くなかった。
「……ありがとう、シロ」
ひとすじ、涙が頬を伝った。けれど、それは、もうあの眠れない夜の、つめたい涙ではなかった。
イナンナが、そっとアリスのそばに来た。
「あなたは、忘却に答えを出しました。覚えていながら、前を生きる。——それは、神にもできなかったことです」
女神の手が、アリスの頭にやさしく触れた。
「もう、帰る時間です。あなたの待つ、ほんとうの世界へ」
アリスが顔を上げると、雲の庭のいちばん奥に、いつのまにか、一枚の大きな鏡が、静かに光っていた。




