忘却の筆
天頂の赤黒い線が、ぞろり、ぞろりと夜を撫でつづけていた。
その一本の線が、しだいに太く、長くなっていく。やがて雲の海のはるか上、星も届かない高みから、それは姿を現した。
巨大な、一本の筆だった。
柄の端は暗がりに溶けて見えない。穂先には、赤黒い墨のような闇が、ぼたり、ぼたりと滴っている。穂が空をひと撫でするたびに、撫でられたところの星がすうっと消えていった。光が散るのではない。ただ——無くなる。あとには、黒くもない、青くもない、何も書かれていない、まっさらな空白だけが残った。
アリスは、その空白から、目をそらせなかった。
『……いいのですよ』
声が、した。
筆の穂先のあたりから、ひどくやわらかな声が、染み出すように響いてくる。怒鳴り声でも、唸り声でもない。眠る前の子守唄みたいな、優しい声だった。
『みんな、もう、疲れているでしょう。痛いことも、悲しいことも、ぜんぶ、わたしが消してあげます。忘れてしまえば、もう、なにも痛みません』
その声を聞いていると、不思議と、瞼が重くなってくる。アリスは、はっとして、ぶんぶんと頭を振った。
筆がゆっくりと下方へ向いた。
無数の世界が浮かぶ、あの暗がりへ。
「だめ……!」
アリスが叫ぶより早く、穂先が下の世界のひとつをすっと撫でた。
さっきまで、ちかちかと光っていた世界だった。誰かが、空の敵と必死に戦っていた世界。その光が、ふっと——消えた。
撃ち落とされたのではない。爆ぜたのでもない。ただ、そこには、もう何も無かった。世界があった場所に、まっさらな空白がぽっかりと空いている。
『ほら。これで、あの子は、もう苦しまない』
声は、どこまでも優しかった。
「させません!」
ヒルドが翼を広げ、天頂へ舞い上がった。槍を構え、渾身の雷を、筆の穂先めがけて叩きつける。
青白い稲妻がまっすぐに走った。
けれど。
穂先の闇に触れたとたん、その雷は——すうっと墨に吸い込まれて、消えた。音もなく。跡もなく。まるで、はじめから稲妻など無かったかのように。
ヒルドが息を呑んだ。
「効かない……。あれは、消すものだ。雷も、光も、ぶつけたそばから、無かったことにされる」
筆がふたたび、下方をゆっくりと撫でていく。
ひとつ。
下の世界の光が消えた。
ふたつ。
また、消えた。
アリスは、立ちすくんだまま、それを見ていることしかできなかった。さっきまで、あんなに心強かった、無数の光。自分と同じ子供たちの光が、筆の通ったあとから、ひとつ、またひとつと、夜から拭い取られていく。
そのなかに、ひときわ強くまたたく光があった。
戦いのさなか、アリスが思わず見つめてしまった光だった。顔も名前も知らない。けれど、たしかに応えるように強くまたたいてくれた、あの光。
筆の穂先が、その光にゆっくりと近づいていく。
「やめて……! その子は、戦ってるの! まだ、消えてない!」
声は、届かなかった。
穂がひと撫でした。
——光が、消えた。
アリスの目から、ぼろりと涙がこぼれた。
そのときだった。
ふいに、アリスの頭の中に、つめたい霧のようなものがすうっと忍び込んできた。
シロの顔を思い出そうとした。
……思い出せない。
毛の色も、鳴き声も、脇にくっついていたあの重みも、もう、思い出せない。握ろうとするほど、するすると指のあいだからこぼれていく。げんすけの声も、焚き火の夜のことも、みんな、白い霧の向こうに薄れていく。
『そう。それでいいのです』優しい声が、耳元で囁いた。『忘れてしまいなさい。そうすれば、もう、失っても平気になる』
アリスの膝が、がくりと折れそうになった。
そのとき、背の太鼓が、こつ、とアリスの背中を叩いた。
とん。
その音に、白い霧がほんの少しだけ晴れた。
アリスは、震える手で太鼓を前に回した。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、その表面を叩く。
たん。
たん、たん。
——とたんに、思い出した。
シロのやわらかな毛も、嬉しいときに床を打つ尻尾の音も、げんすけのにっと笑う顔も、リオンの下手なラッパも——ぜんぶ、ちゃんと、そこにあった。
忘れてなんか、いなかった。
すると。
たん、と太鼓が鳴るたびに、アリスを包んでいた白い霧が、いやがるようにちりちりと後ずさった。
『……やめなさい』
はじめて、優しい声に別の色が混じった。
『思い出すのは、やめなさい。痛いだけです。なにも、いいことなど、ないのですよ』
「……うそだ」
アリスは、涙をぬぐって顔を上げた。
「痛いのは、覚えてるからだ。覚えてるってことは、ちゃんと大事だったってことだ。それを消すなんて、絶対にさせない」
そのときだった。
「……ねえ」
隣で、リオンがぽつりと言った。妙にたよりない声だった。
「ねえ、ええと……き、君。君の、名前……」
アリスは、ぎょっとして振り返った。
リオンが、こちらを見ていた。見ているのに、その目の焦点が、うまくアリスの上で結ばれていない。まるで、はじめて会う誰かを見るような目だった。
「なんだっけ。ここまで、一緒に来たのに。たしかに知ってるはずなのに……あ、あれ? 出てこない。君の、名前が……」
帽子のつばを握る指が、白くなるほど震えていた。
白い霧だ。アリスには、すぐにわかった。さっき自分を呑みかけた、あのつめたい霧が、今度はリオンの中に忍びこんでいる。
「おいら……」
足元で、プクが、ぺたりと座りこんだ。青い顔が、ぼんやりと宙を見ている。
「おいら、なんで、こんな高いとこにいるんだっけ。なにしに、来たんだっけ……」
火の泡をつくるはずの両手が、力なくひらいたまま、雲の上に落ちていた。
「馬鹿な……」
竜の三本の首が、ぶるりと大きく震えた。
「おれの……おれの名は、なんだ。長く生きた。たしかに、長く。だが——何を見てきた? 誰を、乗せてきた……?」
そして、ヒルドまでもが。
天頂へ構えていた槍が、ゆらりと下がった。ヒルドは、自分の手の中のそれを、不思議そうに見つめていた。
「……軽い」
かすれた声だった。
「この槍が、急に、軽いのです。私は、これで、何を守っていたのでしたか……」
『そう。それで、いいのです』
優しい声が、雲の庭ぜんたいを、毛布のようにくるんでいく。
『名前なんて、忘れてしまいなさい。旅の理由も、守るものも。ぜんぶ手放せば——ほら、こんなに軽い』
「だめ——!」
アリスは、太鼓を打った。
たん!
ありったけの、力で。
「リオン、私だよ! アリスだよ! あんたのラッパがかすれる音も、焚き火の夜の強がりも、ぜんぶそばで聞いてきた、アリスだよ!」
たん、たん!
太鼓の音が、リオンを包む霧を、ちりっと焦がした。リオンの目が、ゆっくりと、まばたきをした。
「……アリス」
その名前が唇からこぼれ落ちた瞬間、リオンは、はっと自分の口を押さえた。
「アリスだ。そうだ、アリス。僕は——僕は、君の案内人だ!」
「プク! あんたはプク! 怖いくせに、一度も逃げなかった! 私のうしろに隠れながら、それでも拳をにぎってた、プクだよ!」
たん!
「……お、おいら?」プクの目に、じわりと色が戻った。「そうだ、おいらだ! おいらはプクだ! アリスの、なかまだ!」
「竜さん! あんたの背中は、あったかかった! 骨の砂漠を、いちばん速く飛んだのは、あんたでしょ!」
たん!
「——ぬ、う」三本の首が、同時に、かっと目を見ひらいた。「そうだ。おれは、飛んだ。この嬢ちゃんを乗せて、誰よりも高く……忘れるものか。忘れて、たまるかい!」
「ヒルドさん! 拍だよ! 見事な拍だって、言ってくれたでしょ! その槍は、下の世界の光を、ずっと守ってきた槍だよ!」
たん——!
ヒルドの手が、ぴくりと止まった。下がりかけていた穂先が、ゆっくりと、ゆっくりと持ち上がっていく。
「……ええ」
その声に、刃のような澄んだ光が戻った。
「ええ。思い出しました。この重さ。——守るものの、重さです」
純白の翼が、ばさりと広がった。
『……どうして』
優しい声が、はじめて、かすかに揺れた。
『どうして、思い出すのですか。忘れたほうが、楽なのに』
「楽じゃなくて、いいの」
アリスは、涙のにじむ目で、まっすぐに天頂を見上げた。
「大事なものは、重いの。重いから、大事なの」
けれど、太鼓の音はあまりに小さかった。
筆は、アリス一人の「とん、とん」など気にもとめないように、下の世界を、なおも撫でつづけた。ひとつ。またひとつ。光が、夜から拭われていく。残った光は、もう数えるほどしかなかった。
そして、ひと撫でを終えた筆が——ゆっくりと穂先を、こちらへ向けた。
雲の庭へ。アリスたちの、立つ場所へ。
「……一人の記憶では、足りません」
イナンナが、静かに、けれどはっきりと言った。その瞳は、もうおびえてはいなかった。
「あの筆を止められるものが、ひとつだけあります。それは——消されたものを覚えている者の、心の光。けれど、たった一人の光では、あまりに小さい。あれを撃つには、もっとたくさんの……」
言い終わらぬうちに、筆が、ぐっと振り上げられた。
赤黒い穂先から、墨がぼたり、ぼたりと雲の庭に滴り落ちる。墨の落ちたところが、じわりと空白に変わっていく。
アリスは太鼓を、胸に強く抱いた。
たん、と一つ鳴らす。
その小さな音に応えるように——遥か下、消え残ったいくつかの光が、かすかに、けれどたしかにまたたいた気がした。
筆が、振り下ろされる。




