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照準の珠

赤黒い礫の雨が、みるみる近づいてくる。

ヒルドが槍を一閃させると、アリスとリオンの足元に、淡く光る珠が一つずつふわりと浮かび上がった。シャボン玉をそのまま硬く凍らせたような珠だった。表面に、雲庭の金色がとろりと映りこんでいる。

「これは照準の珠」ヒルドが鋭く言った。「両手で転がしなさい。あなたがたが回した向きに、はるか上空の照準が動きます。礫の芯——いちばん光っているところに照準を重ねたら、あとは私が落とす」

「て、転がすだけ……?」アリスは戸惑った。

「迷っている暇はありません。来ます」

アリスは太鼓を背に回し、両手を空けた。天頂の染みから、最初の一群が尾を曳いて落ちてくる。

両手を珠に押し当てる。

転がす。強く、速く。

珠がベアリングのように滑らかに回って、それに連れて、はるか上空の照準が氷の上をすべるように走った。右へ、上へ。迫る礫の、その芯にある小さな光の的へ。

「重なった!」

「——落とします!」

ヒルドが槍を振り下ろした。天頂から、青白い雷がまっすぐに落ちる。礫が爆ぜ、無害な光の塵になって散った。

アリスは思わず目をみはった。できた。ほんとうに、落とせた。

「リオン、左! そっち行った!」

「まかせて!」

リオンも珠を回す。照準が走る。雷が落ちる。

一つ、また一つ。アリスとリオンの呼吸が、いつのまにか、ひとつの拍に乗りはじめていた。あの竜巻の海で骨の弾幕を抜けたときと同じだ。乗る。合わせる。その拍に礫を乗せて、撃ち落としていく。

けれど、雨はやまなかった。撃っても撃っても、礫はあとからあとから降ってくる。照準の網をするりと抜けるものもある。

「おいらたちの出番だな!」

竜の背に飛び乗ったプクが、両手いっぱいに赤い火の泡をこしらえた。竜が三本の首をうねらせて夜空へ躍り出る。網を抜けた礫めがけて、プクが火の泡を投げつけた。泡がはじけて礫を呑み、ぱっと光の塵に変える。

「へへっ、おいらだって、やるときゃやるんだ!」

「さっきまで嬢ちゃんの後ろに隠れておったのは、どこのどいつだ」竜が、いちばん右の首で呆れたように言った。

「うっ……き、聞こえてたのかよ!」

「三つも耳があるんでな」

それでも、数は増えていく。

アリスの腕がだんだん追いつかなくなってきた。焦るほど、珠の回りがぶれる。照準が的を外し、雷が空を切る。礫が一つ網をすり抜けて、下へ落ちていった。

「あっ……!」

拍が、崩れた。竜巻のときと同じだ。一度外れると、立て直すのが難しい。

そのとき、背に回した太鼓が、こつ、とアリスの腰に当たった。

とん。

その手応えに、アリスははっとした。

げんすけの指。膝を叩く、あの優しいリズム。とん、とん、とん。乾いた夜にただ一つ、温かく響いていた音。

アリスは目を閉じて、その拍を胸の奥で鳴らした。

とん、とん。

ぶれていた手が、すっと落ち着いていく。とん、で珠を押す。とん、で照準が重なる。崩れていた拍が、また、ひとつに揃った。

「……乗り直した!」

リオンが嬉しそうに叫んだ。二人の珠が、また同じリズムで回りはじめる。

——そのときだった。

爆ぜた礫の隙間。ちぎれた雲の切れ間から、アリスはふと下を見た。

遥か下方。これまで旅してきた無数の世界が、小さな玩具のように闇に浮かんでいる。揺り籠の園、骨の砂漠と黒い城、青い迷宮の塔——そのどれもが、手のひらに乗りそうなほど遠く、小さい。

その玩具の一つで——ちかり、と光がまたたいた。

「……え?」

気のせいかと思った。違った。

次の世界でも。その隣でも。

ちかり。ちかり。

小さな閃光が、下の世界のあちこちで、つぎつぎと灯っていく。それはまるで、こちらの空と同じように——下の世界でも、誰かが空の敵を撃ち落としているみたいだった。

「リオン、見て! 下……下でも、光ってる!」

リオンも目を見開いた。

「あれ……戦ってるんだ。下の世界でも、誰かが」

そのとき、背後で女神イナンナが静かに微笑んだ。

「ええ。あなたたちだけではないのです」

イナンナの瞳が、遥か下の——いちばん遠い、見覚えのない緑の草原を見つめた。あの、銀の鏡が割れて、欠片が世界じゅうへ飛び散っていった、はじまりの場所を。

「あの日、砕けた鏡の欠片は、いくつもの世界の子供たちのもとへ届きました。あなたのように呼ばれた子が、今、それぞれの空を、それぞれの場所で守っている」

アリスの胸の奥が、熱くなった。

ずっと、ひとりだと思っていた。選ばれて、たった一人でこの世界に落ちて、知らない場所を必死に走ってきた。

でも、違った。

下のどの光も、自分と同じ子だ。同じように怖くて、同じように何かを失くして、同じように、それでも前を向いた誰か。顔も名前も知らないのに、今、同じ夜空を、別々の場所で、一緒に守っている。

ひとつも、忘れられていない。

誰かが覚えているかぎり、誰かが戦っているかぎり、どの世界も、まだ消えてはいない。

雲庭の縁で見下ろしたときの、あの心もとなさは、もう、どこにもなかった。

「……負けない」

アリスは珠をぎゅっと握り直した。涙でにじんだ視界の向こうで、下の世界の光が、まるで応えるように、いっそう強くまたたいた。

「私たちも、ここを守る。絶対に」

アリスの手が、迷わなくなった。

とん、とん。胸の太鼓の拍に乗せて、珠を回す。照準が、すべるように的を捉える。リオンの珠も、プクの火の泡も、竜の牙も、すべてがひとつの大きな拍のなかで噛み合っていった。

ヒルドの雷が、つぎつぎと落ちる。礫が、つぎつぎと光に変わる。

やがて——天頂から降りそそいでいた礫の雨が、ふっと途切れた。

最後の一群が光の塵になって、雲の海へ、雪のように降りつもっていく。

アリスは肩で息をしながら、その光景を見つめた。背の太鼓が、まだ、とくとくと鳴っている気がした。

「……やった、の?」

「ええ。よく持ちこたえました」ヒルドが槍を下ろし、初めて、ほんの少しだけ口元をゆるめた。「見事な拍でした」

プクが竜の背の上で、両手を突き上げてわあっとはしゃいでいる。

アリスは、その場に、ぺたりと座りこんだ。

立っていられなかったのだ。気が抜けたとたん、膝ががくがくと笑いだして、珠を回しつづけた両腕が、鉛みたいに重かった。

「……手、まだ震えてる」

ひらいた自分の手のひらを見おろして、アリスは小さく笑った。怖くなかった、と言えば、嘘になる。ほんとうは、ずっと、怖かった。

「僕も」

隣に、リオンが、すとんと腰を下ろした。帽子を取って、額の汗をぬぐう。

「膝が、さっきからずっと笑ってる。……かっこ悪いなあ。案内人なのに」

「かっこ悪くないよ」アリスは言った。「怖いのに逃げなかったんだから、かっこいいんだよ」

「……君は、時々、げんすけみたいなことを言うね」

二人は顔を見合わせて、ちょっとだけ、笑った。

ヒルドが歩み寄ってきて、二人の前に、片膝をついた。

「よく戦いました。……震えるのは、恥ではありません。守るものがある者の手は、みな、震えるのです」

そう言う彼女の籠手の指先も、よく見れば、かすかに震えていた。アリスはなんだか、この銀の鎧の人が、急に近しく思えた。

プクが竜の首をするすると滑り下りてきて、アリスの膝の上に、ぽすんと収まった。

「……なあ、アリス。おいら、ちゃんと、やれてたか?」

「うん。いちばん、かっこよかった」

「へへっ」プクは、鼻の下をごしごしこすった。その手が、まだ少し震えているのを、アリスは、見ないふりをした。

雲の庭は、つかのま、静かだった。光の塵が、雪のように降りつもっていく。遠くで、あの水滴みたいな楽器の音が、ぽつん、と一つ鳴った。

このまま、朝が来ればいい。アリスは、ふと、そう思った。

けれど。

イナンナだけは、笑っていなかった。

その瞳は、雷の晴れた天頂をじっと見上げている。アリスもつられて、そちらを見た。

礫の雨は、たしかに止んだ。けれど、空は、まだもとの澄んだ青には戻っていなかった。天頂のあたりに残った赤黒い染みが、散るどころか——ゆっくりと一点に集まりはじめていた。

寄り集まった染みが、長く、細く伸びていく。

まるで、何かを書こうとするみたいに。

「……今のは、ほんの前触れです」イナンナが静かに言った。その声に、初めて、固いものが混じった。「忘却そのものが——いよいよ、この空に姿を現そうとしています」

アリスは太鼓を、ぎゅっと抱きしめた。

天頂で、赤黒い一本の線が、ぞろりと夜を撫でた。


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