雲の上の女神
竜の翼がゆっくりと畳まれ、四人は雲の庭に降り立った。
足が触れたのは、土ではなかった。霧を踏み固めたような、やわらかく仄白い大地だった。一歩ごとに足首のあたりで雲がほどけ、また静かに寄り集まる。
空気が違う、とアリスは思った。
ここまで登ってきたどの階層も、どこか冷たく湿っていた。忘れられたものの匂いがした。けれどこの庭の空気は洗いたての朝のようにすき通って、吸い込むだけで胸の奥がしんと澄んでいく。
見渡すかぎり、白い雲の海だった。その上に、淡い金色の光をたたえた庭が島のように浮かんでいる。背の高い柱がいくつも立ち、柱と柱のあいだを音もなく光の筋が渡っていく。どこか遠くで、聞いたことのない楽器が、ひとつぶの水滴みたいな音を、ぽつん、ぽつんと鳴らしていた。
「うわあ……」プクが、めずらしく声をひそめた。「なんだここ。おいら、こんなにきれいなとこ、見たことねえや」
青い竜も三本の首をそろえて、しばらく黙っていた。やがて、いちばん右の首がぼそりと言った。
「……長く生きたが。ここまでは、来たことがなかったわい」
そのときだった。
光の柱の影から、すらりとした人影が進み出た。
銀の鎧をまとった、若い女の人だった。背に純白の翼を負い、手に穂先の澄んだ長い槍を携えている。歩くたびに鎧が雲のひかりを弾いて、ちりちりと小さく鳴った。
「ようこそ、雲の庭へ」
その声は、よく研いだ刃のようにまっすぐで澄んでいた。けれど、冷たくはなかった。
「私はヒルド。この高みを守る者です」
ヒルドの目が四人を順に見ていって、最後に、リオンの手の光芒の杖でその視線を止めた。
「あの長い光の道を、生きて登りきった者は久しくいませんでした。……まして、子供の足で」
槍の石突きが、こつ、と雲の大地を突いた。
「あなたがたは選ばれてここへ来たのではありません。呼びかけに応えて、自分の足で登ってきた。それは、選ばれるよりもずっと難しいことです」
リオンが帽子のつばを少しだけ上げた。その横顔を、アリスはそっと見た。
ここは案内人たちが語り伝えるだけで、たどり着いた者はほとんどいない——いつか焚き火のそばで、リオンはそんなふうに言っていた気がする。先に消えていった案内人たち。誰も帰ってこなかった、いちばん高いところ。
そこに、リオンは今、立っている。
「……来られたんだ」リオンが小さく呟いた。誰にともなく。「ほんとに、来られたんだ」
その声がほんの少し震えていた。
「よく登ってきましたね」
庭の奥から、別の声がした。
光の柱の、いちばん深いところ。そこに、一人の女性が静かに佇んでいた。
長い衣は、夜明けの空をそのまま織ったような色をしている。輪郭がどこかおぼろで、見つめていると人なのか光そのものなのかわからなくなる。けれど、その瞳だけははっきりとアリスを見ていた。深い湖のような瞳だった。
「私はイナンナ。この世界の、いちばん上の階に住まう者です」
イナンナの視線が、アリスの胸に抱かれた太鼓へゆっくりと注がれた。
「……あなたは、誰かをここから送り出してきたのですね」
アリスは、はっとした。
「げんすけのこと……わかるんですか」
「ええ。その太鼓が、まだ温かい。送り出した者の手の温もりが残っています」イナンナは、ほんのわずかに微笑んだ。「忘れられて消えるのではなく、覚えられたまま、自分の足で還っていった子。その光は、この高みからも見えていました」
アリスは太鼓をそっと抱き直した。指の先で、表面を一度だけ叩く。
とん。
その音は、こんなに高いところでも、ちゃんと温かかった。
「こちらへ」
イナンナが衣の裾を引いて、庭の縁へと歩いていく。アリスたちはその後ろについていった。
雲の庭の、いちばん端。そこには柵もなにもなかった。ただ足元の雲が切れて、底の見えない深い空がぽっかりと口を開けている。
「下を、ご覧なさい」
おそるおそる、アリスはその縁から下をのぞきこんだ。
——息が止まった。
雲の切れ間の、はるか下。
そこに、世界があった。ひとつではない。いくつも。いくつも、いくつも。
小さな玩具のように、ぽつぽつと闇のなかに浮かんでいる。旅してきた揺り籠の園。骨の砂漠と、黒い城。青い迷宮の塔。けれど、それだけではなかった。見たこともない世界がその何倍も、何十倍も、暗がりの奥まで果てしなく散らばっている。
「こんなに……たくさん」
アリスの声がかすれた。
旅をしているあいだは、自分の足元の道のことしか見えていなかった。けれど、こうして高いところから見下ろすと、自分のいた世界は無数のうちのたった一粒だ。
その一粒のなかを、自分はたった一人で、必死に走ってきた。
急に足元がすうっと心もとなくなって、アリスは胸の太鼓をぎゅっと抱きしめた。
「これが、この世界のすべてです」イナンナが静かに言った。「数えきれないほどの階。数えきれないほどの世界。それらが万華鏡のように積み重なって、たった一つの世界をかたちづくっている。傷ついた魂も、行き場をなくした夢も、忘れられたものたちも——みんな、それぞれの階へ流れ着く。疲れた翼を、しばし休めるために」
アリスは、焚き火の夜のリオンの言葉を思い出していた。忘れられたものが流れ着く場所。あれは、こういうことだったのだ。
「けれど、ここには、ひとつ、おそろしい掟があります」
イナンナの声が、翳った。
「流れ着いたものは、やがて忘れられる。誰の記憶からも薄れ、最後には『はじめから無かったこと』にされて、消えてしまう。——しかも、その忘却は、とても優しい」
「優しい……?」
「ええ。何も思い出さなくていい。誰も失わなくていい。もう、苦しまなくていい。だから、誰も抗えないまま、安らかに消えていく」
アリスの胸が、ずきりとした。
それは、あの女王の城で聞いた誘いと、同じ声だった。何も失わずに済む、安全な揺り籠。シロを喪ったばかりのあの頃、その言葉は、たしかに甘く響いたのだ。
イナンナは、しばらく黙っていた。
その横顔を、アリスは見上げた。夜明け色の衣の女神は、遠い下の世界のあかりを、ひとつ、ひとつ、たしかめるように見つめている。
「……私は、この庭から、ずっと見ていました」
やがて、女神は、ぽつりと言った。それは、さっきまでの、世界のことわりを語る静かな声とは、少しだけちがっていた。
「何千年ものあいだ。世界が、ひとつ、またひとつと、忘れられて消えていくのを。子供たちが、揺り籠のなかで眠ったまま、薄れていくのを。……案内人たちが、この高みを目指して、そして、二度と帰ってこないのを」
アリスは、はっとしてリオンを見た。リオンは、帽子を目深にかぶり直して、じっと女神の言葉を聞いていた。
「手を、伸ばしたかった」
イナンナの声が、ほんのわずかに、震えた気がした。
「けれど、私は、この階に住まう者。下の世界の物語に、神が手を触れれば、その物語は、もう、その子のものではなくなってしまう。だから私にできるのは、見ていることだけ。覚えていることだけ。——消えていったすべての名を、この胸に刻みつづけることだけでした」
女神の瞳の奥に、数えきれない光が沈んでいるように見えた。それは星の光ではなくて、彼女がひとりで見送ってきた、無数の誰かの光なのかもしれなかった。
「……さびしく、なかったんですか」
思わず、アリスは尋ねていた。尋ねてから、失礼だったかもしれない、と首をすくめた。
けれど、イナンナは怒らなかった。不思議なものを見るように、ひとつ、まばたきをして——それから、ほんとうに小さく、笑った。
「ええ。とても」
たった、それだけの返事だった。でもアリスには、その短い言葉のなかに、何千年ぶんの夜が折りたたまれているのが、わかった。
「だから、あなたがたが登ってきたとき、私は、ほんとうに嬉しかったのです。まだ、忘れることを拒む者がいる。覚えたまま、前へ進もうとする者がいる。——それは、私が何千年も待ちつづけた、たったひとつの光でしたから」
イナンナは、ゆっくりと、いちばん遠い暗がりへ目をやった。
そこに、ひとつ、見覚えのない緑の草原がぽつんと浮かんでいた。
「ずっと昔、世界と世界をへだてる銀の鏡が砕けました。その欠片が、いくつもの階へ、いくつもの世界へ、星屑のように散ったのです。欠片の落ちたところには、小さな入口が生まれた。あなたが落ちてきたあの鏡も、その一つ」
アリスの脳裏に、月明かりの夜の、波打つ鏡が浮かんだ。
「忘れられそうなものたちが、助けを呼んだのかもしれない。——そう、案内人は言いませんでしたか」
「……言いました」アリスは小さくうなずいた。
「呼ばれたのは、あなただけではありません」
イナンナの瞳が、遠い草原をいとおしむように見つめた。けれど、その先を、彼女は語らなかった。
「それは、いずれ、あなた自身の目で見ることになるでしょう」
アリスはその言葉の意味をつかみきれなかった。けれど、訊き返すことはできなかった。
そのときだった。
澄みきっていた空の、はるか高みが、ふいに、ざわりと翳った。
見上げると、天頂のあたりに、赤黒い染みのようなものがにじみ出していた。それはみるみる広がって、いくつもの小さな点に分かれていく。点は尾を曳いて、こちらへ——いや、その下の無数の世界へ向かって、ゆっくりと落ちはじめた。
「……来ましたか」
ヒルドの声が、低く鋭くなった。槍を構え、純白の翼をばさりと広げる。
「忘却は、もう、この高みにまで手を伸ばしてきています。あの礫の雨は、下の世界をひとつ残らず塗りつぶすつもりです」
「ひ、ひええ……」プクが、アリスの肩のうしろにさっと隠れた。それでも逃げはせず、青い拳をぎゅっと握りしめている。
イナンナがアリスたちを振り返った。その瞳は、もう微笑んではいなかった。
「下の世界には、まだ消えていない魂がたくさんいます。覚えていてくれる誰かを待っている者たちが」
「あなたがたは、ここまで登ってきた。忘れることを拒んで、覚えたまま生きることを選んで、ここまで。——どうか、その力を貸してください」
アリスは、胸の太鼓を強く抱きしめた。
下の、無数の光。そのひとつひとつが、自分と同じように何かを失くして、それでも消えまいとしている誰かなのだとしたら。
忘れたくない、と願ったあの夜の自分が、今、はっきりと答えを出した。
「……守ります」
アリスは顔を上げた。涙のかわりに、まっすぐな光がその目に宿っていた。
「私たちが、ここを守ります」
ヒルドの槍が、きらりと雲のひかりを弾いた。




