げんすけの試練
「げんすけ……だめ。だめだよ、消えちゃ……!」
アリスは夢中で、透けていくげんすけの手を、両手でぎゅっと握りしめた。
けれど、その手は、もう、ほとんど光になりかけていた。握っても、握っても、するりとこぼれていきそうになる。
げんすけの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……こええよ、ねえちゃん」
初めて、彼は、強がるのをやめた。
「消えるの、こええ。どこに行くのか、わかんねえもん。……オラ、まだ、ここに、いたいよ」
アリスの胸が、引き裂かれそうだった。
このまま、握っていたい。離したくない。——シロのときみたいに、もう、誰も失いたくない。
でも。
アリスは、知っていた。あの焚き火の夜から、ずっと、心のどこかで知っていた。
握りしめて、止めてしまうことは、きっと優しさじゃない。
「……ううん。げんすけ」
アリスは、涙をこらえて、まっすぐにげんすけを見た。
「消えるんじゃないよ。あなたは、戻るの」
「……戻る?」
「うん。あなたのことを、待って、泣いてくれている。お母さんの、ところに」
げんすけの大きな目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「……かあちゃんの、とこ」
「そう。だから、怖くないよ。ちゃんと、帰り道は、あるから」
げんすけは、震える手で、抱えていた太鼓を、そっとアリスの胸に押しつけた。
「……これ、ねえちゃんが、持っててくれ」
「げんすけ……」
「オラの、代わりにさ。……とん、とんって、叩いてくれよ。そしたらオラ、どこにいたって、ねえちゃんたちのこと、思い出せる気が、するから」
その小さな身体は、もう、半分以上が光に溶けていた。
「……ありがとな、ねえちゃん。リオン。騎士のおっさん。……オラ、ひとりじゃ、なかった」
最後に、げんすけは、いつものやんちゃな顔で、にっと笑った。
そして——白い光のなかへ、ふわりと溶けて、消えた。
あとに残された静寂のなか。
アリスは、ぎゅっと太鼓を抱きしめた。
そして、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、その表面を、そっと叩いた。
たん。
げんすけが、迷わずに帰れるように。
たん、たん。
それは、まるで心臓の鼓動のような。あるいは、嬉しいときに尻尾が床を打つ、あの懐かしい音のような。生きている者の、温かなリズムだった。
——その音は、確かに届いていた。
冷たく、静かな、果てしない荒野を、げんすけは、ひとり歩いていた。
その先には、ゆったりと流れる大きな川があった。向こう岸は、霞んで見えない。一歩、踏み出せば、もう戻れない。そんな気が、した。
足が、川の縁にかかる。
そのとき。
たん、たん。
遠くから、聞こえてきた。
心臓の音みたいな、温かい音。それを聞いたとたん、げんすけの胸に、どっと思い出があふれた。焚き火の夜。アリスの泡。リオンの下手なラッパ。騎士の、ぶっきらぼうな優しさ。そして——自分を呼んで、泣いている、母の声。
「……まだ、だ」
げんすけは、川に背を向けた。
「オラ、まだ、こんなとこで、終われねえ」
その頭上に、ふわりと、一羽の白い大きな鷲が舞い降りた。鷲は、げんすけの襟をそっと咥えると、あの温かいリズムが響くほうへ向かって、まっすぐに飛び立った。
——ピッ。ピッ。ピッ。
規則正しい、機械の音。
消毒液の匂い。
げんすけの瞼が、ゆっくりと開いた。
白い天井。白いベッド。見慣れない、けれど、確かに生きている世界の光景。
そのベッドの脇で、突っ伏して眠っていた女の人が、はっと顔を上げた。涙で目を真っ赤にした、母だった。
「……げん、すけ……? げんすけッ……!」
母の温かい手が、げんすけの頬を包む。
その手は、さっき、夢のなかで握ってくれた、あの優しいねえちゃんの手と——そっくり同じくらい、あたたかかった。
そのころ。
塔の心臓部では。
げんすけが残した光を浴びて、忘却の怪物は、なおも苦しげに身をよじっていた。けれど、その動きは、もう、さっきまでの勢いを失っている。
「……今だ」
ガルドが、剛剣を構え、低く言った。
「あの子が、繋いでくれた光だ。……無駄には、せん」
光芒の杖の輝きが、ガルドの剣に宿る。
虹色に燃える刃が、ただ一閃。
八本の腕を、まとめて斬り裂いた。
『……ア、ア……』
崩れゆく闇のなかから、最後に、あの悲しい声が、ぽつりと漏れた。
『……ヤット……オモイ、ダシテ……モラエタ……』
それは、長い苦しみから、ようやく解き放たれたような、安らかな声だった。闇は、さらさらと光の粒になって、ほどけ、消えていく。
たった一人で忘れられていた怪物は、こうして、やっと、安らかな眠りについた。
静かになった部屋で、アリスは、太鼓を抱えたまま、しばらく動けなかった。
げんすけは、もう、いない。けれど。
「……よかった」
ぽつりと呟く。涙のあとの、けれど晴れやかな声だった。
「げんすけ、ちゃんと、帰れたんだね」
リオンが、そっとアリスの肩に手を置いた。ガルドは、何も言わず、静かに剣を鞘に納める。
握りしめるのではなく、愛したまま、送り出すこと。
その、いちばん難しいことを、アリスは、今、やり遂げたのだった。
胸に抱いた太鼓が、まだ、ほんのりと温かかった。




