八本腕の影
ひと晩、骨の広間で身を寄せ合って眠った三人は、夜明け——といっても、この城に朝の光は射さなかったが——とともに、塔の攻略を始めた。
青い石の回廊は、登っても登っても、同じような景色が続いた。無数の階段、無数の扉、枝分かれした通路。けれど、上の階へ続くはずの大扉は、どれもびくともしない。
「……変なの。力ずくじゃ、開かない」
リオンが、扉を押しながら唸った。
「この塔はね、ただ歩いて登るんじゃないんだ。各階に“掟”がある。それを解かないと、上への道は、開かない」
「掟って?」
「謎かけ、みたいなものさ。しかも、たいてい、理不尽なやつ」
そんな塔のあちこちには、青い迷宮に棲みついた魔物たちが、うようよと蠢いていた。
ぷるぷると震える、半透明のスライム。錆びついた鎧をまとった、物言わぬ騎士。
けれど、それらは、もう三人の敵ではなかった。アリスの月色の泡が魔物を包んで眠らせ、げんすけの光弾が鎧を撃ち砕き、リオンが声をかけて二人を導く。竜巻の海で身につけた呼吸が、今は地上でも、ぴたりと噛み合っていた。
けれど、登るほどに、アリスは、奇妙なものに気づきはじめた。
冷たい青い石の壁に、無数の、引っかき傷のような跡が刻まれている。
よく見ると、それは——文字だった。
「これ……読める。私の、世界の言葉だ」
掠れた幼い筆跡で、壁のあちこちに、いくつもの言葉が刻まれている。
『よるが、おわらない』
『あしたに、いきたい』
『ママ、どこ?』
それは、誰もが幼いころ、暗闇のなかで一度は心のなかで呟いたことのある、寂しい迷子の言葉だった。
そして、その下に。
アリスは、息を呑んだ。
通路の隅に、小さな石像が、いくつも、ぽつんぽつんと佇んでいた。
よく見れば、それは、小人のような尖った帽子をかぶった子や、ブリキのおもちゃみたいな意匠の服を着た、小さな人形めいた像たち。どれも、片足を一歩、前に踏み出した格好のまま、固まっている。まるで、もう少しで次の段に手が届きそうだった、その瞬間に——時が、止まってしまったかのように。
「リオン……これ」
リオンは、その石像たちを、じっと見つめていた。いつもの笑みは、すっかり消えている。
「……この塔を登ろうとして、力尽きた者たちだよ。君みたいに呼ばれた子や、旅人や、僕みたいな案内人。……みんな、最後まで行けなくて。そして、外の世界から忘れられて、塗りつぶされて——こうして、物言わぬ石に、変えられてしまったんだ」
焚き火の夜に、彼が語った言葉が、アリスの胸に蘇る。
——僕の前にも、案内人はいたんだよ。でも、途中で、消えちゃった。
アリスは、そっと、その小さな石像の頭に手を置いた。
冷たかった。けれど——。
掌の奥から、かすかに、とん、とん、と。小さな鼓動のような、懐かしいリズムが、響いてきた気がした。
(まだ、完全に消えたわけじゃない。みんな、ここで、待っているんだ)
胸の奥が、きゅっと熱くなる。それは、シロの記憶が薄れていくのを恐れていた、あの夜の自分への、答えのようにも思えた。忘れられたって、消えてなんかいない。誰かが、もう一度、思い出してあげさえすれば。
「……大丈夫」
アリスは、石像たちに、そっと囁いた。
「私たちは、止まらないよ。ぜんぶ置いていったりしない。——いつか、ちゃんと、みんなも、一緒に連れて帰るから」
その、いくつもの石像が見守る大きな広間の中央に。
ひときわ大きな、黄金の鎧を着た騎士が、ただ一人、立ち尽くしていた。
人の背丈ほどもある、鉄の塊のような大剣を地面に突き立て、固く閉ざされた大扉を、微動だにせず睨み続けている。
「……あの人も、石像?」
アリスが囁くと、その騎士が、ぎろりと兜の奥の目を向けた。生きていた。
「……むやみに近づくな。危険だ」
低く、寡黙な声だった。
騎士が身じろぎしたとき、鎧の内側で、じゃら、と乾いた音がした。金具の音ではなかった。もっと小さくて、数の多い、なにかを繰るような音だった。
兜は、上がらなかった。声だけが、鉄のすきまから漏れてくる。
「あなたは……?」
騎士は、しばらく黙っていたが、やがて、剣を握り直しながら、ぼそりと言った。
「ただの、騎士だ。……情けないことに、この階の掟が、どうしても、解けん。もう、何日も、ここで足止めを食っている」
その声には、隠しきれない、深い疲れと、孤独が滲んでいた。
「あんたも、ひとりで登ってるのか?」
げんすけが尋ねると、騎士は、ふっと自嘲するように兜を揺らした。
「私には、果たさねばならぬ約束がある。……誰に讃えられずとも、ただ、それだけのために、登り続けている。それだけだ」
リオンが、アリスと、げんすけと、顔を見合わせた。
そして、にっと笑って、騎士に手を差し出す。
「だったら、僕たちと、一緒に登らない? ひとりじゃ解けない謎も、四人なら、解けるかもしれない」
騎士は——ガルドは、その手を、しばらく、信じられないように見つめていた。
そのときだった。
ヒュン——。
どこからともなく、鋭い風切り音が、響いた。
次の瞬間、何もないはずの空間が、ぐにゃりと歪み、そこから青白い魔法の波動が四方八方へと放たれた。
「魔導士だ……!」リオンが叫ぶ。「姿を消して、見えない場所から撃ってくる!」
ヒュン、ヒュン、ヒュン。
右から。左から。背後から。頭上から。
無数の見えない敵が、四方から、容赦なく波動を撃ち込んでくる。一人では、とても全方位を守りきれない。
「背中を、合わせろ!」
ガルドが、低く吠えた。
四人は、とっさに、背中合わせに円陣を組んだ。
「アリス、上!」「げんすけ、右後ろ!」「リオン、左っ!」
声を、掛け合う。
アリスが頭上へ泡を放ち、波動を受け止める。げんすけが右後ろへ光弾を撃ち、敵を弾く。リオンが左の死角を声で知らせ、ガルドの剛剣が、それを薙ぎ払う。
誰かの見えない場所を、別の誰かが、見ている。
ひとりでは絶対に守れなかった全方位が、四人で背中を預け合うことで、隙のない、ひとつの円になっていた。
焚き火の夜に分け合った、互いの弱さ。それが今、互いを守る、いちばん硬い盾に変わっていた。
「……これだ」
ガルドが、撃ち合いのさなか、はっと息を呑んだ。
「この階の掟は、“ひとりでは越えられぬ”——そういうことだったのか」
その瞬間、固く閉ざされていた大扉が、ごごご、と重い音を立てて、ついに、左右へと開きはじめた。
姿を隠していた魔導士たちが、悔しげな呻きを残して、霧のように散っていく。
開いた扉の、その奥。
塔の、さらに高みへと続く、巨大な吹き抜けの空間が広がっていた。
そして、その天井の闇に。
ぬめりと光る、八本の長い腕を持つ巨大な影が——こちらを見下ろすように、音もなく蠢いていた。




