今の自分と
「……ここだと、少し話しにくいよね」
亮がそう言った。
智樹は顔を上げた。
「別のところに行く?」
「……どこに?」
「近くにカフェがあるから。そこでなら、もう少し落ち着いて話せると思う」
智樹は少し考えてから、頷いた。
「そうですね」
二人で会社を出た。
夕方の街は、仕事帰りの人たちで少しずつ賑わい始めていた。
並んで歩いていると、ふと高校時代の帰り道を思い出す。
駅までの道。
コンビニ。
アイスを半分くれたこと。
あの頃は、こうして隣を歩くことが当たり前だった。
けれど今は、同じ道を歩いているわけでもないのに、妙にその記憶が重なって見えた。
カフェに入ると、窓際の奥まった席に案内された。
飲み物を注文し、向かい合って座る。
智樹は、もっと緊張すると思っていた。
何を言われるのだろう。
昔のことを思い出して、また胸が苦しくなるかもしれない。
そう考えていた。
けれど、実際には不思議なくらい落ち着いていた。
もちろん、まったく平気なわけではない。
胸の奥には、まだ小さな緊張がある。
それでも、以前のように「聞きたくない」と思ってはいなかった。
目の前にいる亮が、急かさず、何も決めつけずに待っている。
そのことが、智樹を少し安心させているのかもしれなかった。
――今の亮が、そうしてくれているのかもしれない。
そんな考えが、心の片隅に浮かんだ。
飲み物が運ばれてきた。
しばらく、二人ともカップに手を添えたまま黙っていた。
先に口を開いたのは、亮だった。
「……高校のときのことから話すね」
「はい」
「俺、あのとき……智樹が俺の絵を描いてるのを見て、驚いた」
智樹は黙って聞いていた。
「最初は、どうして俺なんだろうって思った。でも、嫌だったわけじゃなかった」
亮は一度言葉を切った。
「むしろ、嬉しかった」
智樹の指が、カップの縁で止まった。
「自分のことを、そんなふうに見てくれてる人がいるんだって思った。……たぶん、嬉しかったんだと思う」
「……たぶん?」
「うん。当時の俺には、それが何なのか、よくわからなかったから」
亮は少しだけ苦笑した。
「智樹のことは大事な友達だと思ってた。でも、それだけじゃないような気もしてた。でも、それ以上のことを考えるのが怖かった」
智樹は何も言わなかった。
「男同士だとか、そういうこともあったと思う。でも、それだけじゃなかったと思う。智樹にどう接したらいいのか、自分でもわからなくなったんだ」
亮は窓の外に目を向けた。
「だから、距離を取った」
その言葉に、智樹の胸がわずかに痛んだ。
聞きたかった言葉だった。
同時に、一番聞きたくなかった言葉でもあった。
「……逃げたんだと思う」
亮はそう言った。
「智樹からじゃなくて、自分から」
智樹が顔を上げる。
亮はまっすぐこちらを見ていた。
「今だから、そう思う」
「……今だから?」
「うん。あの頃は、自分が何を怖がってるのかもわからなかった。ただ、智樹の顔を見ると、何かを答えなきゃいけない気がして……でも、その答えを俺は持ってなかった」
静かな声だった。
言い訳をしているようには聞こえなかった。
「あのとき、智樹に何か言ってやればよかったんだと思う。『嫌じゃない』とか、『ちょっと考えさせて』とか。せめて『怖かった』って言えばよかった」
亮は少し俯いた。
「でも、何も言わなかった」
智樹の胸の奥で、長いあいだ固まっていたものが、ほんの少しだけ動いた。
「俺は……」
智樹は言いかけて、言葉を探した。
「嫌われたんだと思ってました」
亮の表情が変わった。
「……うん」
「俺が変なことをして、気持ち悪いと思われたんだって」
「違う」
亮の返事は、思ったより早かった。
「それだけは、違う」
智樹は黙って亮を見た。
「一度も、そう思ったことはない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
ずっと欲しかった言葉だった。
あの頃の自分が、何度も何度も欲しかった言葉。
けれど、今になってようやく届いた。
亮は続けた。
「……遅すぎるよな」
智樹は答えなかった。
亮も、それ以上は言わなかった。
しばらく、二人の間に沈黙があった。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
昔なら、きっとこの沈黙に耐えられなかった。
何かを言わなければと思っただろう。
でも今は、ただそこにいればよかった。
やがて智樹は、ゆっくり息を吐いた。
「……話してくれて、ありがとうございます」
亮が顔を上げる。
「俺も、ずっと聞きたかったんだと思います」
その言葉を口にしてから、智樹自身が一番驚いた。
ずっと聞きたかった。
そうだったのだ。
怒っていたからではない。
忘れたかったからでもない。
本当はずっと、あの日の続きを知りたかった。
亮が何を思っていたのか。
自分が見ていたものは、本当にあれだけだったのか。
そして――。
今の亮は、自分のことをどう思っているのか。
そこまで考えて、智樹はふと黙った。
今なら、それも聞いてみたい。
そんな気持ちが、自分の中にあることに気づいてしまった。
怖さは、まだある。
けれど、それと同じくらい、知りたいと思っている。
目の前の亮が、昔の亮とは違うように。
自分自身も、あの頃の自分とはもう違うのかもしれなかった。




