新たな予感
「……今の篠原さんは」
智樹は、そこで一度言葉を止めた。
聞いてしまっていいのだろうか。
さっきまで、あの頃のことを話していた。
自分が傷ついた理由も、亮が逃げた理由も、少しだけわかった。
それだけで十分なのかもしれない。
けれど、胸の奥にはもう一つ、ずっと引っかかっていることがあった。
「……今は、俺のことをどう思ってるんですか」
言ってから、智樹は視線を落とした。
亮はすぐには答えなかった。
しばらく考えるように、カップの中を見つめている。
やがて、静かに口を開いた。
「……正直に言っていい?」
「はい」
「俺も、まだちゃんと言葉にできてない」
智樹は少し意外に思った。
もっと何か、はっきりした答えが返ってくると思っていた。
「前にまた会ったとき、すごく嬉しかった」
亮はそう言った。
「でも、嬉しいと思った自分が怖かった」
「怖い?」
「うん。また智樹を傷つけるんじゃないかって」
その言葉に、智樹は黙って聞いた。
「だから、最初は仕事だけにしようと思ってた。必要以上に近づかないようにして、智樹が嫌そうだったら、それ以上は何もしないって決めてた」
亮は苦笑した。
「……でも、無理だった」
智樹が顔を上げる。
「仕事を一緒にしてると、昔のことを思い出すんだ。駅まで一緒に帰ったこととか、くだらない話をして笑ったこととか」
「……そんなことまで覚えてるんですか」
「覚えてるよ」
亮は迷いなく答えた。
「俺にとっても、大事だったから」
その言葉が、智樹の胸に静かに落ちた。
亮は少し間を置いてから続けた。
「それに、今の智樹を知るのが楽しいんだと思う」
「今の俺を?」
「うん」
「昔とは違いますよ」
「そうだね」
亮が笑った。
「だから、もっと知りたいと思う」
その言葉に、智樹の心臓が一度、大きく鳴った。
けれど亮は、そこで言葉を止めた。
しばらくしてから、慎重に続ける。
「それが友達としてなのか、それ以上なのか……俺にはまだわからない」
智樹は何も言わなかった。
「でも、一つだけわかってる」
「……何ですか」
「もう一度、智樹とちゃんと関係を作りたい」
その言葉は、思っていたよりもずっとまっすぐだった。
「高校のときみたいに、何も言わずに逃げるんじゃなくて。今度は、ちゃんと話したい」
亮は智樹を見た。
「それが友達からなのか、別のものになるのかは、今は決めたくない」
智樹は、その言葉を聞きながら、なぜか少しだけ安心していた。
「……決めなくていいと思います」
自分でも驚くほど自然に、そう言っていた。
亮が目を見開く。
「智樹……」
「俺だって、今どう思ってるのか、よくわからないから」
そこまで言って、智樹は少し笑った。
「ただ……」
言葉を探す。
「前みたいに、何もわからないまま離れるのは嫌です」
亮は何も言わなかった。
ただ、ゆっくり頷いた。
「うん」
それだけだった。
けれど、その「うん」は、昔とは違った。
逃げるための沈黙ではなかった。
答えを急がないための沈黙だった。
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
駅へ向かって歩きながら、二人の間には少しだけ距離があった。
けれど、智樹はその距離を以前ほど遠いとは感じなかった。
「智樹」
「はい」
「……また、こうやって話してもいい?」
智樹は少し考えた。
それから、前を向いたまま答えた。
「……仕事じゃなくても?」
「うん」
「……考えておきます」
亮が小さく笑った。
「わかった」
その笑い声を聞きながら、智樹もほんの少しだけ口元を緩めた。
まだ、何も始まってはいない。
昔の傷が消えたわけでもない。
亮への気持ちが何なのかも、まだわからない。
それでも智樹は思っていた。
もう少しだけ、この人のことを知ってみてもいいのかもしれない。
今度は、昔とは違う自分として。




