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心のままに

その日の打ち合わせが終わったのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。


資料を鞄にしまいながら、亮が言った。


「……このあと、少し飲まない?」


智樹は顔を上げた。


以前、一度誘われたときには断った。


けれど今日は、不思議と嫌ではなかった。


「いいですよ」


亮が少し驚いたように目を見開く。


「本当に?」


「そんなに驚きます?」


「いや……断られると思ってたから」


「じゃあ、今日は断らないということで」


智樹がそう言うと、亮は笑った。


駅の近くの居酒屋に入った。


最初は仕事の話をしていた。


今回の案件のこと。


次のスケジュールのこと。


けれど、酒が少し入ると、いつの間にか話題は高校時代へ移っていた。


「そういえば、智樹って体育のあと、いつも水すごい飲んでたよな」


「亮くんが勝手に飲んでたんですよ」


「一口だけだって」


「その一口が毎回なんですよ」


「そうだっけ?」


「そうですよ」


二人で笑った。


こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。


智樹はそう思った。


昔のことを話しているのに、胸が苦しくない。


むしろ、不思議なくらい懐かしかった。


「図書館で勉強したときもあったよな」


「勉強してたのは俺だけですけどね」


「俺だってしてたよ」


「寝てたじゃないですか」


「考えてたんだよ」


「何を?」


「人生」


「高校生が?」


「高校生だからだよ」


くだらない。


本当にくだらない話だった。


でも、そのくだらなさが心地よかった。


智樹は気づいていた。


自分はずっと、あの頃を思い出さないようにしていた。


けれど、忘れていたわけではなかった。


楽しかったことも。


嬉しかったことも。


亮と一緒にいることが、当たり前だった時間も。


全部、心のどこかに残っていた。


店を出た頃には、亮の足取りが少し怪しくなっていた。


「……大丈夫ですか?」


「大丈夫、大丈夫」


「大丈夫な人は、そんな歩き方しません」


「智樹、昔から厳しいよな」


「昔からじゃありません」


「じゃあ、今もか」


「そうです」


笑いながら返したものの、亮は明らかに飲み過ぎていた。


結局、智樹は亮を自宅まで送ることになった。


しかし、部屋の前まで来たところで、亮がポケットを探り始める。


「……鍵」


「ないんですか?」


「会社に……置いてきたかも」


「どうするんですか」


「……どうしよう」


しばらく二人で黙った。


タクシーを呼んでホテルに行くという選択肢もあった。


けれど、今の亮を一人で行かせるのも心配だった。


「……うち、来ます?」


気づけば、智樹はそう言っていた。


亮は少しだけ目を丸くした。


「いいの?」


「床で寝てもらいますから」


「うん」


亮は素直に頷いた。


智樹の部屋に着くと、亮はソファに座った。


「水、飲んでください」


「ありがとう」


水を渡すと、亮はそれを少し飲んだ。


そして、そのまま目を閉じた。


「寝ないでくださいよ」


「寝てない……」


数秒後には、静かな寝息が聞こえてきた。


智樹は呆れながらも、少し笑った。


「……ほんとに寝てるし」


毛布をかけてやろうと思い、部屋の中を探しているうちに、ふと机の上にある黒いケースが目に入った。


いつもの筆箱だった。


智樹はそれを手に取った。


中には鉛筆とシャープペンシル、消しゴム。


昔から使っているものではない。


けれど、これを見ると、あの日のことを思い出す。


スケッチブック。


放課後の美術室。


亮の横顔。


そして、閉じられたページ。


智樹は、ソファで眠る亮を見た。


静かな寝顔だった。


仕事をしているときとは違う。


笑っているときとも違う。


無防備な顔。


頬に落ちた髪。


少し開いた唇。


それを見ているうちに、胸の奥に何かが湧き上がった。


描きたい。


そう思った。


理由はわからなかった。


ただ、描きたかった。


智樹は机からスケッチブックを取り出した。


鉛筆を一本選ぶ。


そして、ソファの前に座った。


最初の線を引く。


輪郭。


髪。


眉。


目元。


少しずつ形を取っていく。


描いているうちに、不思議な感覚になった。


昔と同じだった。


けれど、違う。


あの頃は、ただ亮のことを描きたかった。


笑っている顔。


窓の外を見ている顔。


何気なくこちらを向いた横顔。


どうしてこんなに描きたくなるのか、自分でもわからなかった。


ただ、描いていたかった。


それだけだった。


今、智樹はわかっていた。


どうしてだったのか。


鉛筆を動かしながら、智樹はふと気づいた。


――好きだったんだ。


あの頃。


友達として大切だった。


もちろん、それも本当だった。


でも、それだけじゃなかった。


亮が笑うと嬉しかった。


名前を呼ばれるだけで嬉しかった。


一緒に帰れることが嬉しかった。


隣にいることが、当たり前のように幸せだった。


だから、描きたかった。


もっと見ていたかった。


もっと知りたかった。


もっと近くにいたかった。


「……そうだったんだ」


小さく呟いた。


自分でも驚くほど、穏やかな声だった。


あの日、亮に絵を見られたとき。


そして、そのあと亮が離れていったとき。


智樹は、自分の気持ちそのものを否定した。


こんな気持ちは持ってはいけない。


知られてはいけない。


知られたら嫌われる。


そう思った。


だから、全部を心の奥に押し込めた。


「傷つきたくなかったんだ……」


それは、亮への気持ちを忘れたのではなかった。


忘れたことにしていただけだった。


鉛筆を止める。


スケッチブックを見る。


そこには、今の亮がいた。


高校生の亮ではない。


大人になった亮。


少し疲れた顔。


穏やかな表情。


昔と変わらない目元。


そして、自分がもう一度好きになりかけている人。


智樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……俺、まだ好きなのかな」


その言葉を口にしてみても、以前のような怖さはなかった。


むしろ、少しだけ納得できた。


あの頃の気持ちは消えていなかった。


傷つかないように、見ないふりをしていただけだった。


そして今、亮ともう一度会って。


話して。


昔のことを聞いて。


少しずつ距離を縮めて。


その封印が、自然にほどけてきたのだ。


ソファを見る。


亮はまだ眠っている。


何も知らない顔で、静かに眠っている。


智樹は、もう一度スケッチブックに目を落とした。


昔の自分が描いた亮と、今の自分が描いた亮。


そこには、同じ人がいる。


けれど、その絵を描いている自分は、もう同じではなかった。


昔は、自分の気持ちに名前をつけることができなかった。


今は、少なくとも一つだけわかる。


自分は亮を、友達としてだけ見ていたわけではなかった。


そして――。


その気持ちは、今もまだ、ここにある。


智樹はスケッチブックをそっと閉じた。


その音で、亮がわずかに身じろぎする。


「……智樹?」


「起きました?」


「……ううん」


亮は目を開けないまま、小さく笑った。


「なんか……安心する」


「何がですか」


返事はなかった。


また眠ってしまったらしい。


智樹はしばらく亮を見つめていた。


そして、ほんの少しだけ笑った。


今度は、逃げない。


すぐに何かを伝えるつもりもない。


ただ、自分の中にある気持ちを、今度はなかったことにしない。


それだけでいい。


今は、それだけで十分だった。


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