帰り道で
それからしばらく、二人の間に会話はなかった。
亮も、それ以上は何も言わなかった。
智樹も、パソコンの画面に視線を戻した。
キーボードを打つ。
保存する。
ブラウザを確認する。
修正したページを何度か見直す。
そうしているうちに、時計の針は十時を過ぎていた。
「……できました」
智樹が言った。
亮が画面を確認する。
「うん。これなら大丈夫だと思う」
「じゃあ、先方に送ってください」
「わかった」
亮がメールを送る。
しばらくして、クライアントから確認の返信が届いた。
『こちらでお願いします。本日は遅くまでありがとうございました』
それを見て、智樹はようやく肩の力を抜いた。
「終わりましたね」
「うん」
亮もパソコンを閉じる。
静かなフロアに、二台のパソコンを閉じる音が重なった。
二人で帰り支度をする。
智樹がバッグを肩に掛ける。
黒いケースも、その中にしまった。
亮はそれを見ていた。
何か言いたそうな顔をしていたが、しばらく黙っていた。
やがて、エレベーターを待っているところで口を開いた。
「……伊藤」
「はい?」
「もしよかったら、このあと少し飲まない?」
智樹は一瞬、亮を見る。
「二人で?」
「うん」
ほんの数秒だった。
けれど、その数秒の間に、智樹の胸の奥でいくつもの感情が動いた。
高校時代。
放課後。
帰り道。
何度も一緒に歩いた道。
あの頃は、二人でいることが当たり前だった。
けれど。
「……すみません」
智樹は目を逸らした。
「今日は帰ります」
「そっか」
亮は、それ以上勧めなかった。
「じゃあ、また次の打ち合わせで」
「はい」
エレベーターが来る。
二人で乗り込む。
一階までの短い時間、会話はなかった。
扉が開く。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
それぞれ反対方向へ歩き出した。
*
駅へ向かう道を歩きながら、智樹は何度も自分に言い聞かせていた。
断ってよかった。
当然だ。
仕事の相手なのだから。
高校時代のことを少し話したからといって、急に昔のように戻る必要なんてない。
まして、二人で飲みに行くなんて。
そんなことをしたら、また昔に戻ってしまう。
そう思っていた。
けれど。
しばらく歩いたところで、智樹は足を緩めた。
夜の街を行き交う人たちの間で、ふと立ち止まる。
「……本当に?」
自分に問いかける。
本当に、それだけなのだろうか。
さっき、亮が言った。
――嫌だったわけじゃない。
――むしろ、うれしかった。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返されている。
あの頃、そんなことは一度も言ってくれなかった。
何も言わずに離れていった。
だから智樹は、ずっと思っていた。
自分の気持ちは、気持ち悪かったのだと。
亮にとって、自分はそういう存在だったのだと。
それなのに今日。
亮は違うことを言った。
だったら。
あのとき、自分が傷ついたのは何だったのだろう。
智樹は唇を噛んだ。
胸の奥が、また少し痛くなる。
同時に、別の感情もあった。
ほんの少しだけ。
亮ともう少し話してみたかった。
そう思ってしまった自分がいた。
だからこそ、断った。
これ以上聞いたら、自分がどうなるかわからなかったから。
駅へ向かって、また歩き出す。
バッグが肩に食い込む。
中に入っている黒いケースが、歩くたびにわずかに揺れた。
智樹はそれに気づいて、バッグを持ち直した。
昔なら。
放課後なら。
きっと、このまま二人でどこかへ行っていた。
くだらない話をして。
笑って。
いつまでも一緒にいた。
でも、もうあの頃には戻れない。
「……戻れなくていい」
そう呟いた。
なのに。
なぜか胸の奥には、少しだけ寂しさが残った。
智樹は立ち止まり、夜空を見上げた。
さっきまでいたオフィスの窓。
亮の顔。
あの頃の教室。
スケッチブック。
全部が頭の中で重なっていく。
そして、最後に思い浮かんだのは、帰り際の亮の顔だった。
残念そうだった。
でも、無理に引き止めなかった。
――あの頃とは違う。
そのことに気づいて、智樹は少し戸惑った。
亮は、変わったのかもしれない。
いや。
変わったかどうかなんて、まだわからない。
ただ今日、初めて。
もう一度だけ、亮のことを知ってみてもいいのかもしれない。
そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。
智樹はすぐに首を振った。
「……何考えてるんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして歩き出す。
けれど、今度はさっきより少しだけゆっくりだった。
断ってよかったのか。
それとも。
――もう少し、話してもよかったのか。
答えは出ない。
ただ、今日初めて。
智樹の中にあった「もう終わったこと」という言葉が、ほんの少しだけ揺らいでいた。




