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午後九時のフロアで

 午後九時を回った頃には、フロアに残っているのは智樹と亮だけになっていた。


 さっきまで聞こえていた人の話し声も、コピー機の音もない。


 空調の低い音と、キーボードを叩く音だけが静かなフロアに響いている。


 智樹は画面に向かったまま、黙々と作業を続けていた。


 仕事中の横顔は、昔と少しも変わらない。


 ――そう思った瞬間、亮は自分の考えに戸惑った。


 変わっている。


 当たり前だ。


 高校生だった智樹は、もうどこにもいない。


 けれど、何かに集中しているとき、ほんの少しだけ眉間に皺が寄る。


 考え込むと、無意識に唇を引き結ぶ。


 そういう細かなところだけは、昔のままだった。


「……」


 亮は視線を逸らした。


 そのままパソコンへ向き直る。


 けれど、意識してしまうと、どうしても思い出してしまう。


 放課後の教室。


 窓際の席。


 夕方の光。


 そして、机に向かって鉛筆を走らせていた智樹。


 あのときの智樹も、今と同じように何かに集中していた。


 ただ一つ違うのは。


 あのとき、智樹が描いていたのが自分だったことだ。


 亮は小さく息を吐いた。


 ふと、向かいの机を見る。


 智樹の手元に、細身の黒いケースが置かれていた。


 以前も見たものだった。


 中からシャープペンシルと鉛筆が数本、覗いている。


 それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。


「……まだ描いてるの?」


 思わず口から出た。


 智樹の手が止まった。


「何をですか」


「絵」


 ほんの一瞬。


 智樹の表情が固くなった。


 けれど、すぐにいつもの顔に戻る。


「……たまに」


「そうなんだ」


「仕事でも使うので」


「そっか」


 そこで会話は終わった。


 亮はそれ以上聞けなかった。


 けれど、智樹は黒いケースを閉じた。


 カチ、と小さな音がする。


 その音を聞いた瞬間、亮の記憶の中で、十年以上前の音と重なった。


 ――ぱたん。


 あの日、智樹のスケッチブックを閉じた音。


 亮は思わず息を止めた。


 あのとき、自分は何を見たのか。


 智樹が描いた、自分の横顔。


 一枚ではなかった。


 窓の外を見ている横顔。


 笑っている横顔。


 頬杖をついている横顔。


 どれも、自分が気づかないところで描かれていた。


 あの頃の亮には、それが何を意味するのかわからなかった。


 ただ。


 自分がそんなふうに見られていたことが、少し嬉しかった。


 嬉しいと思った自分が、怖かった。


 だから逃げた。


 それが、今でもずっと引っかかっている。


「……篠原さん?」


 智樹の声で、亮は我に返った。


「え?」


「何かありました?」


「いや……」


 亮は首を横に振った。


「ごめん。ちょっと昔のこと思い出してた」


 智樹の顔から、わずかに表情が消えた。


「昔?」


「高校の頃」


 今度は、智樹が黙った。


 空調の音だけが聞こえる。


 亮は、その沈黙から逃げなかった。


 けれど、いきなり「あのときは」と切り出すこともできなかった。


 だから、別のことを聞いた。


「……放課後、よく絵描いてたよな」


 智樹の指が、机の上で止まった。


「覚えてるんですか」


「覚えてるよ」


「そうですか」


 智樹はそれだけ言った。


 声は平坦だった。


 けれど、その手がほんの少しだけ強く握られている。


 亮にはわかった。


 智樹も、同じ記憶を思い出している。


 あの日のことを。


 自分がスケッチブックを見てしまったことを。


 そのあと、何も言わずに離れてしまったことを。


 亮は一度、目を伏せた。


「……あのときさ」


 智樹が顔を上げる。


 亮は言葉を探した。


「俺、お前が絵を描いてるの、嫌だったわけじゃないんだ」


 智樹の瞳が揺れた。


 けれど、何も言わない。


「むしろ……」


 そこで亮は言葉を止めた。


 当時の自分が感じたことを、今なら少しだけ言葉にできる。


 けれど、それを口にするのは怖かった。


「……うれしかった」


 智樹の表情が変わった。


 ほんのわずかだった。


 けれど、確かに。


 亮は続けた。


「でも、あのときの俺には、それがどういう意味なのかわからなかった」


 智樹は黙っている。


「お前が俺をどう思ってるのかも。俺がそれをどう受け止めたらいいのかも」


 亮は一度、息を吸った。


「だから、逃げた」


 静かな声だった。


「何も言わずに、お前から離れた」


 智樹の視線が、ゆっくりと下がる。


 黒いケースに向けられた。


 まるで、そこに十年以上前の時間がしまわれているみたいに。


「……それで?」


 やがて智樹が言った。


「今さら、何を言いたいんですか」


 その声は冷たかった。


 亮は答えようとした。


 けれど、智樹は先に続けた。


「俺はもう、あの頃のことを掘り返すつもりはありません」


 その言葉で、亮は理解した。


 ここから先へ進むには。


 ただ謝るだけでは足りない。


 智樹が閉じたものを、無理やり開けることもできない。


 それでも。


 逃げたままでは終われない。


「……それでも、謝りたい」


 亮が言った。


 智樹は答えなかった。


 ただ、黒いケースに触れていた指先が、わずかに震えていた。


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