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3/14

智樹の思い

 打ち合わせを終えて、ビルを出た。


 外の空気を吸った瞬間、智樹はようやく小さく息を吐いた。


 思っていたより、疲れていた。


 たった一時間ほどの打ち合わせだった。サイトの構成や必要なページ、デザインの方向性。話した内容だけを考えれば、いつもの仕事と何も変わらない。


 篠原亮が相手だったことを除けば。


 歩道を歩きながら、智樹はさっきまでいた会議室を思い出していた。


「このあたりは、伊藤さんのほうで自由に考えてもらって大丈夫です」


 亮はそう言った。


 高校生の頃とは違う、落ち着いた声だった。


 その声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに跳ねた。


 智樹はそれを思い出して、眉を寄せる。


 ――なんで。


 もう十年以上も前のことだ。


 今さら、声を聞いただけでこんな反応をするなんて。


 信号の手前で立ち止まる。


 人の流れに紛れながら、智樹はそっと手を握った。


 指先が少し冷たい。


 けれど、手のひらにはじんわり汗が滲んでいた。


 打ち合わせの間もそうだった。


 亮が向かいに座っているだけで、妙に落ち着かなかった。


 視線が合えば、反射的に逸らした。


 名前を呼ばれるたびに、胸の奥が小さく締まった。


 昔と同じ声なのに。


 昔とは違う顔をしているのに。


 身体だけが、あの頃を覚えているみたいだった。


「……嫌になるな」


 小さく吐き出した声が、自分でも驚くほど弱かった。


 亮は、何もしていない。


 昔のことを責めることもなかった。


 むしろ、今日の打ち合わせでは終始こちらの意見を聞いていた。


 だからこそ、困る。


 嫌いだと言い切れれば、もっと楽だった。


 けれど、実際に目の前にした亮に対して、智樹の中に残っていたのは怒りだけではなかった。


 懐かしさ。


 戸惑い。


 そして、認めたくないほど微かな嬉しさ。


 それが混ざって、胸の奥でぐちゃぐちゃになっている。


 智樹は一度、深く息を吸った。


 肺の奥まで空気を入れる。


 それでも、心臓の速さはなかなか戻らなかった。


 ――友達だった。


 高校生の頃、亮は自分にとって大切な友達だった。


 けれど。


 あのスケッチブックを見られてから、亮は少しずつ智樹から離れていった。


 理由を聞くこともできなかった。


 聞いたところで、答えを聞くのが怖かった。


 だから智樹の中では、あの日の出来事はずっと「拒絶された」という形で残っている。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 信号が青に変わった。


 人の流れに合わせて歩き出す。


 そのとき、肩に掛けたバッグが腕に触れた。


 中に入れていた黒い細身のケースが、わずかに動く。


 智樹は足を緩めた。


 中には、シャープペンシルと数本の鉛筆、それから小さな消しゴムが入っている。


 打ち合わせで使うかもしれないと思って持ってきただけだった。


 デザインのラフを紙に描くこともある。


 ただ、それだけだ。


 ――なのに。


 さっき、亮の視線が一瞬だけそこに向いた気がした。


 気のせいかもしれない。


 けれど、そう思った途端、胸の奥がまた強く脈打った。


 指先まで、妙に熱くなる。


 智樹はバッグの持ち手を握り直した。


 あの頃も、そうだった。


 鉛筆一本で、何気なく描いていた。


 窓際に座っている亮の横顔。


 笑っているときの目元。


 頬杖をついて、ぼんやり外を見ている姿。


 特別なつもりはなかった。


 ただ、描きたかった。


 見ていると、なぜか描きたくなった。


 それがどういう気持ちなのか、自分でもわかっていなかった。


 少なくとも、あのスケッチブックを見られるまでは。


 智樹は無意識に胸元へ手を当てかけて、途中で止めた。


 そんなことをしたら、自分で自分の動揺を認めるような気がした。


 今でも絵は描く。


 仕事ではなく、たまに。


 誰かに見せるためでもなく、ただ自分のために。


 けれど、人の顔を描くことはほとんどなくなった。


 特に、昔のように誰かを繰り返し描くことは。


 それでも今日、久しぶりに亮を目の前にして思った。


 もし今、あの頃と同じように鉛筆を持ったら。


 自分は、亮を描くだろうか。


「……描かないだろ」


 智樹は自分に言い聞かせるように呟いた。


 もう高校生じゃない。


 あの頃とは違う。


 そう思うのに。


 心臓は、まだ少しだけ速かった。


 歩きながら、ふと振り返りそうになる。


 さっきまで自分がいたビルを、もう一度見てしまいそうになる。


 智樹は振り返らなかった。


 ただ、胸の奥に残っている妙な感覚だけが消えなかった。


 懐かしい。


 そう思った自分が、少しだけ嫌だった。


 懐かしいと思えるほど、あの頃を忘れていたわけではない。


 忘れたかっただけなのだ。


 そして今日、その蓋を、亮が何気なく開けてしまった。


 仕事の打ち合わせをしただけなのに。


 たった一度、顔を合わせただけなのに。


 それなのに智樹の中では、十年以上前に止めたはずの時間が、ほんの少しだけ動き始めていた。


 そのことを認めるのが怖くて、智樹は歩く速度を少しだけ上げた。


 逃げるように。


 けれど、逃げても。


 胸の鼓動だけは、なかなか元には戻ってくれなかった。


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