智樹の思い
打ち合わせを終えて、ビルを出た。
外の空気を吸った瞬間、智樹はようやく小さく息を吐いた。
思っていたより、疲れていた。
たった一時間ほどの打ち合わせだった。サイトの構成や必要なページ、デザインの方向性。話した内容だけを考えれば、いつもの仕事と何も変わらない。
篠原亮が相手だったことを除けば。
歩道を歩きながら、智樹はさっきまでいた会議室を思い出していた。
「このあたりは、伊藤さんのほうで自由に考えてもらって大丈夫です」
亮はそう言った。
高校生の頃とは違う、落ち着いた声だった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに跳ねた。
智樹はそれを思い出して、眉を寄せる。
――なんで。
もう十年以上も前のことだ。
今さら、声を聞いただけでこんな反応をするなんて。
信号の手前で立ち止まる。
人の流れに紛れながら、智樹はそっと手を握った。
指先が少し冷たい。
けれど、手のひらにはじんわり汗が滲んでいた。
打ち合わせの間もそうだった。
亮が向かいに座っているだけで、妙に落ち着かなかった。
視線が合えば、反射的に逸らした。
名前を呼ばれるたびに、胸の奥が小さく締まった。
昔と同じ声なのに。
昔とは違う顔をしているのに。
身体だけが、あの頃を覚えているみたいだった。
「……嫌になるな」
小さく吐き出した声が、自分でも驚くほど弱かった。
亮は、何もしていない。
昔のことを責めることもなかった。
むしろ、今日の打ち合わせでは終始こちらの意見を聞いていた。
だからこそ、困る。
嫌いだと言い切れれば、もっと楽だった。
けれど、実際に目の前にした亮に対して、智樹の中に残っていたのは怒りだけではなかった。
懐かしさ。
戸惑い。
そして、認めたくないほど微かな嬉しさ。
それが混ざって、胸の奥でぐちゃぐちゃになっている。
智樹は一度、深く息を吸った。
肺の奥まで空気を入れる。
それでも、心臓の速さはなかなか戻らなかった。
――友達だった。
高校生の頃、亮は自分にとって大切な友達だった。
けれど。
あのスケッチブックを見られてから、亮は少しずつ智樹から離れていった。
理由を聞くこともできなかった。
聞いたところで、答えを聞くのが怖かった。
だから智樹の中では、あの日の出来事はずっと「拒絶された」という形で残っている。
それ以上でも、それ以下でもない。
信号が青に変わった。
人の流れに合わせて歩き出す。
そのとき、肩に掛けたバッグが腕に触れた。
中に入れていた黒い細身のケースが、わずかに動く。
智樹は足を緩めた。
中には、シャープペンシルと数本の鉛筆、それから小さな消しゴムが入っている。
打ち合わせで使うかもしれないと思って持ってきただけだった。
デザインのラフを紙に描くこともある。
ただ、それだけだ。
――なのに。
さっき、亮の視線が一瞬だけそこに向いた気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、そう思った途端、胸の奥がまた強く脈打った。
指先まで、妙に熱くなる。
智樹はバッグの持ち手を握り直した。
あの頃も、そうだった。
鉛筆一本で、何気なく描いていた。
窓際に座っている亮の横顔。
笑っているときの目元。
頬杖をついて、ぼんやり外を見ている姿。
特別なつもりはなかった。
ただ、描きたかった。
見ていると、なぜか描きたくなった。
それがどういう気持ちなのか、自分でもわかっていなかった。
少なくとも、あのスケッチブックを見られるまでは。
智樹は無意識に胸元へ手を当てかけて、途中で止めた。
そんなことをしたら、自分で自分の動揺を認めるような気がした。
今でも絵は描く。
仕事ではなく、たまに。
誰かに見せるためでもなく、ただ自分のために。
けれど、人の顔を描くことはほとんどなくなった。
特に、昔のように誰かを繰り返し描くことは。
それでも今日、久しぶりに亮を目の前にして思った。
もし今、あの頃と同じように鉛筆を持ったら。
自分は、亮を描くだろうか。
「……描かないだろ」
智樹は自分に言い聞かせるように呟いた。
もう高校生じゃない。
あの頃とは違う。
そう思うのに。
心臓は、まだ少しだけ速かった。
歩きながら、ふと振り返りそうになる。
さっきまで自分がいたビルを、もう一度見てしまいそうになる。
智樹は振り返らなかった。
ただ、胸の奥に残っている妙な感覚だけが消えなかった。
懐かしい。
そう思った自分が、少しだけ嫌だった。
懐かしいと思えるほど、あの頃を忘れていたわけではない。
忘れたかっただけなのだ。
そして今日、その蓋を、亮が何気なく開けてしまった。
仕事の打ち合わせをしただけなのに。
たった一度、顔を合わせただけなのに。
それなのに智樹の中では、十年以上前に止めたはずの時間が、ほんの少しだけ動き始めていた。
そのことを認めるのが怖くて、智樹は歩く速度を少しだけ上げた。
逃げるように。
けれど、逃げても。
胸の鼓動だけは、なかなか元には戻ってくれなかった。




