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亮の思い

### 第一章 再会


 ――篠原亮は、伊藤智樹の背中を見送っていた。


 エレベーターの扉が閉まり、智樹の姿が見えなくなる。


 亮はしばらく、その場から動けなかった。


「……久しぶり、か」


 自分で口にしてみる。


 あまりにも普通の言葉だった。


 もっと別のことを言いたかった。


 元気だったか、とか。


 今までどうしていたのか、とか。


 仕事は順調なのか、とか。


 それよりも、本当は。


 ――あのとき、ごめん。


 そう言いたかった。


 けれど、言えなかった。


 再会したばかりの相手に、いきなり高校時代の話を持ち出すのもどうかと思った。


 それに。


 智樹の表情を見れば分かった。


 あの頃のことを、智樹はまだ覚えている。


 忘れているわけではない。


 むしろ、自分よりもずっと鮮明に。


 亮はデスクに戻った。


 パソコンのモニターには、今日の午後に予定されている案件の一覧が表示されている。


 確認しなければならないメールもある。


 部下から上がってきたワイヤーフレームにも目を通さなければならない。


 仕事は山ほどある。


 それなのに、さっきから頭に浮かぶのは、十七歳の頃のことばかりだった。


 高校二年の秋。


 放課後の美術室。


 窓から差し込む夕方の光。


 教室に残っていた亮は、忘れ物を取りに戻った。


 そのとき、智樹がいた。


 窓際の席で、スケッチブックを開いていた。


 亮は何気なく後ろから近づいた。


 そして、見てしまった。


 自分の横顔。


 鉛筆で描かれた、自分の顔。


 それも、一枚だけではなかった。


 ページをめくると、似たような絵が何枚もあった。


 笑っている自分。


 授業中に窓の外を見ている自分。


 机に頬杖をついている自分。


 どれも、亮自身が気づかないような瞬間だった。


 そのときは、何と言えばいいのか分からなかった。


「……これ、俺?」


 ようやく出てきた言葉が、それだった。


 智樹は顔を真っ赤にした。


 スケッチブックを閉じようとしたけれど、亮はその手を見てしまった。


 震えていた。


 あのときの智樹の顔を、亮は今でも覚えている。


 そこで初めて気づいた。


 ただの絵ではない。


 ただの友達ではない。


 智樹は、自分のことを特別に思っている。


 そのことが分かった瞬間、亮の胸の奥に、妙な感覚が広がった。


 嬉しい。


 そう思った。


 少なくとも、最初に感じたのは嫌悪ではなかった。


 むしろ、自分のことをそんなふうに見ていた人がいたことが、少し嬉しかった。


 でも、その気持ちをどう受け止めればいいのか分からなかった。


 自分は男だ。


 智樹も男だ。


 友達として好きなのは分かる。


 一緒にいると楽しい。


 くだらないことで笑える。


 放課後に寄り道するのも好きだった。


 けれど、それと同じ「好き」なのか。


 違うのか。


 亮には分からなかった。


 分からないことが、怖かった。


 だから、逃げた。


 次の日から、智樹と二人きりにならないようにした。


 昼休みも友達の輪の中に入った。


 帰り道も別の友達と帰った。


 智樹が話しかけてくれば普通に答えようとした。


 でも、どうしても以前のようにはできなかった。


 智樹を見ると、あのスケッチブックを思い出す。


 そして、自分の中にある、説明できない感情まで思い出してしまう。


 だから避けた。


 智樹が傷ついていることには気づいていた。


 それでも、どうすればいいのか分からなかった。


 卒業の日も、話しかけられなかった。


 最後くらい何か言おうと思った。


 何度も思った。


 けれど、結局できなかった。


 校門を出てから、一度だけ振り返った。


 校舎の窓の向こうに、智樹の姿が見えた気がした。


 それが、最後だった。


 ――あれから十数年。


 亮は椅子の背もたれに体を預けた。


 あの日のことを思い出すたび、胸の奥が重くなる。


 高校を卒業してから、何度も後悔した。


 あんなふうに逃げなければよかった。


 ちゃんと話せばよかった。


 自分が何を感じていたのか分からなくても、少なくとも智樹の気持ちを否定する必要はなかった。


 それなのに、自分は逃げた。


 そして、そのまま何年も経ってしまった。


 大学に進学して、就職して、仕事を覚えて。


 恋人ができたこともあった。


 別れたこともあった。


 仕事で忙しくなれば、智樹のことを思い出すことも少なくなった。


 それでも、完全に忘れたことはなかった。


 ふとした瞬間に思い出す。


 駅のホームで、似た後ろ姿を見かけたとき。


 文房具店でスケッチブックを見かけたとき。


 高校時代によく聴いていた曲が流れたとき。


 そのたびに、あの日の智樹の顔が浮かんだ。


 そして今日。


 その本人が目の前に現れた。


 思っていたよりも、ずっと嬉しかった。


 それが亮には意外だった。


 会ったら、まず謝ろうと思っていた。


 けれど、実際に顔を見た瞬間。


 ただ、もう一度話したいと思った。


 昔みたいに。


 くだらない話をして、笑って。


 仕事が終わったあと、一緒に飯でも食べて。


 そんな時間を、もう一度持ちたいと思った。


 でも――。


 智樹の目は、昔とは違っていた。


 笑ってはいた。


 仕事相手として、きちんと接してくれていた。


 けれど、その奥にあるものが分かった。


 距離。


 明確な距離だった。


 自分が作った距離だ。


 亮はパソコンの画面を見つめた。


 画面には、今日の打ち合わせ内容が表示されている。


 サイトのリニューアルは、思っていたより規模が大きい。


 デザインだけでも数週間はかかる。


 その間、ディレクターである自分と智樹は、何度も打ち合わせをすることになる。


 それに気づいて、亮は少しだけ息を止めた。


 ――何度も会える。


 そう思った自分に、すぐに戸惑う。


 仕事だからだ。


 当然だ。


 それ以上の意味なんてない。


 そう言い聞かせながら、亮はプロジェクトの進行表を開いた。


 初回の打ち合わせ。


 デザイン案の確認。


 クライアントへのプレゼン。


 修正。


 最終確認。


 少なくとも、あと一か月は智樹と仕事をすることになる。


 一か月。


 長いようで、短い。


 亮は、なぜかその期間を意識してしまった。


 そのとき、部下から声がかかった。


「篠原さん、さっきのデザイナーさんって、知り合いですか?」


「……え?」


「なんか、篠原さんが珍しく緊張してたんで」


「してないよ」


 反射的に答えてから、亮は苦笑した。


「高校の同級生。昔の友達」


「へえ。じゃあ今回、やりやすそうですね」


「……そうかな」


 亮はそう答えたものの、胸の奥には別の感覚が残った。


 やりやすいどころか。


 たぶん、難しい。


 智樹は自分に対して、明らかに壁を作っている。


 仕事の話なら問題ない。


 丁寧に話すし、意見もはっきり言う。


 けれど、仕事から一歩でも外れようとすると、すっと引いてしまう。


 それが分かった。


 そして、その壁を作らせた原因が自分だということも。


 亮は机の上に置かれた資料に目を落とした。


 クライアントから提供された参考資料の中に、一枚の写真がある。


 窓際に置かれた古い木製の椅子。


 その横に観葉植物。


 何気ない写真だった。


 けれど、なぜかその写真を見た瞬間、高校時代の美術室が頭に浮かんだ。


 窓際に座る智樹。


 その手に握られていた鉛筆。


 そして、自分の横顔を描いていたスケッチブック。


 亮は視線を逸らした。


 ――そういえば。


 あのスケッチブックに描かれていた絵は、全部、自分の横顔だった。


 正面からではなく。


 横から見た自分。


 なぜ智樹は、あんなに自分の横顔を描いたのだろう。


 今になって、そんなことが気になった。


 そしてもう一つ。


 今日、智樹が持っていた鞄の横から、細長い黒いケースが少しだけ見えていた。


 中身までは分からなかった。


 けれど、鉛筆を入れるようなケースに見えた。


 ただの偶然だろう。


 そう思う。


 それなのに、亮はそのことが妙に頭から離れなかった。


 もしかしたら。


 今でも智樹は、絵を描いているのだろうか。


 そんな考えが浮かんだ。


 もし、まだ描いているのなら。


 いつか、もう一度その絵を見てみたい。


 そう思った瞬間、亮は自分自身に驚いた。


 どうしてそんなことを思ったのか。


 ただ昔の友達に会っただけだ。


 昔の友達。


 その言葉を頭の中で繰り返してみる。


 けれど、どうしてもそれだけではない気がした。


 高校時代のあの日から、自分の中に置き去りにしてきたものがある。


 それが何なのか。


 まだ、亮には分からない。


 ただ一つ分かっているのは――。


 今度こそ、智樹から逃げたくないということだった。


 その日の夜。


 仕事を終えた亮は、スマートフォンに残った智樹とのメールを開いた。


 事務的な文章。


 必要な資料。


 次回の打ち合わせ日程。


 どれも仕事のことしか書かれていない。


 亮は返信を打ち終えたあと、送信する前に一度だけ画面を見つめた。


 最後に、余計な一文を付け加えようとして――やめた。


 **「今日は会えてよかった」**


 そんなことを書いたら、智樹はどう思うだろう。


 高校のときと同じように、また困らせてしまうかもしれない。


 亮はその一文を消した。


 そして、仕事の返事だけを送信した。


 けれど。


 送信ボタンを押したあとも、指先にはさっきまで打っていた言葉の感触が残っていた。


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