第29話 退く道は残す
敵が撃たなくなると、シラには、次の一発だけが大きく見えるようになった。
ルクスレインの艦橋で、観測の更新音が鳴る。
発射反応なし。右の敵、前進なし。火星側の三隻も、距離を保っている。
そのたびに、シラは操作盤から手を浮かせ、また置いた。
味方の八隻は地球寄りへ下がっていた。人類の援護船団が、追撃する船との間にいる。
損傷艦は直進を続け、工作船はその近くを離れない。前へ出した通常艦を戻す作業まで終えると、シラの画面には久しぶりに、未処理の線が一本もなくなった。
だからといって、勤務終了の欄には、まだ印をつけられなかった。
「〇一の点検、いつ始まる?」
ラビが整備班へ確認した。
冷却は進んでいる。だが熱で傷んだ部分がないかを調べる前に、再出撃は認められないという。
「了解。待機戦力には数えません」
そう返すラビを見て、シラも空いた番号を閉じた。
同じことを何度も確かめて、飛べると言ってもらいたくなる自分がいた。
今、守っている船を見なければならなかった。
*
人類側の通信担当を通じて、侵攻部隊との交渉の要旨が届いた。
祖星への帰還を妨げるな。
地球への進出を認めろ。
同じ人類がその道を塞ぐべきではない。
シラは文字を読んだあと、もう一度最初の行を見た。
帰還という言葉が、自分の使ってきたものと同じ字をしていた。
「こっちの船を壊して、帰るんだ」
ラビが小さく言った。
シラは何も返せなかった。
海王星の調査船は、彼らの祖先を追い出した船ではない。月の港で寝台を使っていた人たちも、誰かの歴史を奪う相談などしていなかった。
続く文には、侵攻部隊が以前から繰り返している主張が記されていた。
すでに失った者を無駄にできない。ここで引き返せば、何のために戦ったと説明するのか。
シラは奥歯をかみしめた。
トウカを亡くしたから、次も誰かを失うまで続ける。そんな命令をされたら、自分はどう思うだろう。
答えは考えるまでもなかった。
ガルドは送信の席へ向き直った。
「地球が祖先の星だという話を、聞かないと言ったことはない。だが、ここで暮らす者へ砲を向けることは認めない。地球も月も空け渡さない」
艦長は一度言葉を切った。
「これ以上撃っても、その目的は達せられない。撤退する船は追わない。現場の六隻だけでなく、火星の拠点も引き揚げてもらう」
返答はすぐには来なかった。
通信担当は送信記録を確かめ、援護船団が相手へ伝えたという受領を待った。
シラは、待つ時間を埋めるように損傷艦の状態を開いた。
補助推進、維持。
前部の気密、維持。
追加搬送を要請。
話し合いが長くなる間も、その船には怪我をした人がいた。
*
右の敵が動き、艦橋の空気が張った。
前へ出る噴射ではなかった。船首を振り、援護艦の外側に道を探すような動きだった。
シラが迎撃の範囲を開く前に、人類の援護艦が同じ方へ向きを変えた。敵が地球側へ進もうとすれば、再びその前へ出られる位置を保つ。
敵は、そこで止まった。
「迂回、再開せず」
ラビの報告を聞いても、シラはしばらく手を離せなかった。
先ほどの作業が終わったから安全になったのではない。あの位置を取った船が、今も動き続けているから敵は進めない。
火星寄りには、攻撃を続けられる三隻がいる。
遠くへ外れた二隻のうち、一隻は〇一と通常艦が側面を破った船だった。もう一隻は、医療艇を通すため〇二が発射部を壊した船だ。
その二隻は、まだ射撃を再開していなかった。
六隻全部が揃って前へ出ていたら、同じ数の援護艦を同じ場所へ置けたかは分からない。
八隻で止めた時間と、敵から減らした攻撃が、今も残っていた。
援護側から、侵攻部隊へ送った警告の記録が来た。
地球側への前進と獣人艦隊への攻撃は阻止する。火星とその外側へ退く経路は塞がない。
「帰る道はあるんだね。あっちにも」
シラが言った。
ラビはしばらく右の敵を見た。
「こっちへ来る道と、同じにしなければね」
シラは新しい経路図を開いた。
自分たちの搬送艇と敵の撤退船を、同じ場所へ通すわけにはいかなかった。
*
撤退の条件は、通信の届くたびに具体的になった。
射撃を止める時刻を揃える。
侵攻艦六隻は、損傷した二隻も含め、監視を受けながら地球と月から離れる。
火星の拠点からも、人員と艦艇を引き揚げる。
獣人側は、約束を守って退く相手を追撃しない。
ガルドは通常艦の艦長たちへ条件を回した。遠い司令部にも送り、現場でまず砲撃を止めるための取り決めを進める。
代表同士の話し合いを待つ間、怪我人を戦場に留めるわけにはいかなかった。
シラとラビは、別の図を仕上げていた。
左手前に工作船と味方の搬送経路。右の外側から火星寄りへ、侵攻艦が離れていく道。戦闘で広がった破片も、両方の船が避けるべきものとして書き込む。
「敵の損傷艦、曲がれるのかな」
ラビがつぶやいた。
「使える経路を、向こうに確認してもらう。こっちで直進できるとは決めない」
シラは図に余白を残した。
人類の援護側へ送ると、損傷二隻の位置に合わせた修正が戻ってきた。味方の医療搬送からは離れたままだった。
相手を救いに行く任務ではない。それでも、実行できない撤退を命じて、また撃ち合う理由を作りたくなかった。
味方の損傷艦から返事が来た。
『条件に同意する。こちらの搬送艇は、いつ出せる』
いつもより、長い間を置かない声だった。
シラは時計を見た。まだ停止時刻が確定していない。
「停止の条件を全艦が確認したという返事を待っています。時刻をそろえ、放たれた弾が航路に残っていないと確かめてから通します。時刻が決まり次第、最初にお知らせします」
『分かった。準備はしておく』
シラはその依頼を、待機欄の一番上へ置いた。
やがて、侵攻部隊の同意が届いた。
そのあとに、祖星への主張を撤回するものではない、と続いていた。
シラは顔を上げた。
言い直してほしかった。最初から間違っていたと。撃たなくてもよかったと。
だが、望んだ一文は増えなかった。
「同意の条件に、謝罪は入っていない」
ガルドが言った。
シラの顔を見ていたのかもしれなかった。
「今、止めるのは砲撃だ。被害の話を終わらせる約束ではない」
シラは損傷艦の待機欄を見た。
あの船の怪我人に、納得できる言葉が届くまで待ってもらうことはできない。
「搬送経路は、このまま使えます」
そう報告した。
許したから、ではなかった。
*
停止の時刻は、全艦へ伝わる余裕を取って決められた。
先に放たれた弾が残っていないか、観測班が追う。ラビは援護側の受領と、味方七隻の返答を確かめ、母艦内の各班へ共有した。
「全艦、確認済み」
シラの画面で、時計の数字が変わった。
「射撃停止。迎撃の準備は維持する」
ガルドが命じた。
すでに発砲の間隔は開いていたので、急に静かになったわけではない。
何も来ない時間が、もう少し続いた。
右の敵が、艦首を変えた。
シラは思わず身を固くしたが、今度は回り込む向きではなかった。指定した離脱方向へ、黒い艦体が進み始める。
援護艦は追い立てず、距離を保って並んだ。
火星側の三隻も、続いて動く。
「四隻、離隔開始。損傷二隻との合流を監視します」
ラビが言った。
その声を聞いて、シラは初めて、自分の背中が椅子から離れていたことに気づいた。
〇二を失った方を見た。
そこから返るものはない。
それでも、これから同じ場所で誰かが撃たれる予定は、消せるかもしれない。
シラは損傷艦へ回線を開いた。
「お待たせしました。搬送艇を通せます」
相手が医療班を呼ぶ声が、通信に混じった。
そのあとで、ありがとう、と返ってきた。
砲を撃たずに運ぶための最初の一本を、シラは工作船まで伸ばした。




