第2話 切り札はまだ空っぽ
こんなに大きいものが、空へ上がるのか。
その日の午後、シラは荷物を抱えたまま乗艦通路で立ち止まった。
窓の外を、白い船腹がふさいでいる。艦首は通路からでは見切れ、はるか下で港の作業艇が一隻、外板に沿って移動していた。朝、接岸させた貨客艇なら丸ごと入ってしまいそうな開口部が、その先にある。
「ラビ。これ、本当に私たちの行く船?」
「小さい方だったら困るよ。もう荷物を送っちゃった」
ラビも見上げていた。
声は弾んでいるが、荷物の持ち手を握る指には力が入っている。シラはそれを見て、ようやく足を動かした。自分だけが怖がっているのではないらしかった。
気密扉を抜けると、靴が床へ落ちる感触が変わった。
月面港より歩幅が小さくなる。艦内の人工重力はもう入っていると、通路の表示にあった。シラは片手で持っていた鞄を、両手に持ち替えた。
「荷物、増えた?」
「詰めたときから同じ量だよ」
前を歩くトウカが答えた。
工具袋を肩から下ろしもしない先輩へ、ラビが恨めしそうな目を向ける。
「先に言ってくれたら、一冊減らしたのに」
「帰りに読まない方を貸して。私は入れ忘れた」
「えっ。先輩も忘れ物するんですか」
「工具は全部ある」
「そこしか確認してない人だ」
トウカは否定しなかった。
その背中について曲がると、壁いっぱいの艦内図が見えた。居住区。食堂。格納区画。艦橋。知らない場所の名前が、階層ごとに並んでいる。
これ全部を覚えるのか、とシラが思ったところへ、制服姿の犬が近づいてきた。茶色の毛に、短い立ち耳。机上の写真で見た艦長だった。
「ガルドだ。港の引き継ぎは終わったか」
「はい。誘導装置は交換待ち、捕捉アームは位置表示の点検中です」
「……君たち自身の引き継ぎは?」
シラは口を閉じた。
横でラビの耳が揺れる。
「終わってます。二人とも、まだ港が気になってるだけです」
「そうか。では、こっちの心配事も見てもらおう」
艦長は格納区画への階段を示した。
*
広い区画には、黄色い無人作業機が二機と、何も載っていない固定台が並んでいた。
人の声が遠い天井に反響し、床を伝わる機械の振動が靴底に残る。奥の壁には大きな扉があった。船外へ通じる格納口で、今は閉じている。
シラは、空の台を数えかけてやめた。
新しい船なのだから、まだ積み込んでいないのだろう。
「君たちには、この艦から出す子機の運用を担当してもらう」
ガルドが黄色い機体を指した。
操縦席はない。港で荷物を運ばせていた小型艇とよく似ていた。
「シラは、周囲の船と子機の通り道を整理する。ラビは観測と通信をまとめ、子機に仕事を与える。母艦の操縦は航海班、武器は兵装班だ」
「一機ずつ、手で操縦するんですか」
ラビが尋ねた。
「行き先と仕事、避ける範囲を送る。近くの障害物は自分でよける。ただし、誰を先に助けるかまでは決めてくれない」
シラには、少し分かる気がした。
荷役艇を一機ずつ安全に動かしても、全員が同じ通路で譲り合えば、荷物は一つも届かない。港では自分たちが、先に通る相手を決めていた。
ここでも同じ仕事をしてほしいのだ。
ただし、敵のいる宇宙で。
「危険だから止めたいとき、言っていいんですか」
朝から聞こうと決めていたことを、シラは口にした。
ガルドは、話を続けようとしていた手を下ろした。
「言ってくれ。安全に通せないという報告がなければ、私も判断できない」
「それでも出せ、と言う場合は?」
「ある。ほかの船を危険にさらすこともあるからだ。だが、命令した責任を君たちへ押しつけるつもりはない」
安心して任せろ、とは言わない艦長だった。
シラは、それならまだ質問できると思った。
「今日から出撃ではないですよね」
「三日間は港で訓練と検査だ。合格した範囲の仕事だけ任せる。四日目の朝に出航予定だが、間に合わなければ延期する」
「試験中に敵が来たら?」
ラビが続けた。
「試験をやめて退避する。近くの避難船を誘導する場合も、本艦が帰れる範囲でだ」
ガルドは二人を順に見た。
「絶対に無事だ、とは約束できない。港まで敵が来る可能性も同じく消せない」
シラは窓のない壁を見た。
午前中、四十二人を下ろした船も、外からここへ来た。船が入れなければ、港だけが無事でも、人も食料も届かなくなる。
今度は、その途中を守る席なのだろう。
「訓練を受けます。まだできないことは、できないと言います」
「私も。まず、この二機を見せてください」
ラビが少し前へ出た。
艦長の後ろにいた灰色の狸が、待っていましたと言いたげに端末を持ち直した。白衣の胸から、細い工具が三本のぞいている。
「エナです。製造設備を担当しています。動く方からなら、すぐに」
ラビは空いた固定台へ顔を向けた。
「動かない方も、あるんですか?」
*
見学窓の向こうで、金属の腕が小さな部品をつまみ上げた。
削られたばかりの銀色の金具を検査台へ置き、次を取りに戻る。隣の腕は外装の板を運んでいた。壁の中に、工場が入っている。
「ここで子機を作るんですか」
「材料と電力のある範囲で。普通の修理部品も作ります」
エナは窓の端を指した。
加工腕の列とは別に、黒い容器があった。そこだけ照明が消えている。
「あちらは、新型の中枢を作る場所です」
「中枢って、操縦する頭みたいなもの?」
「役割としては近いですね。通信が途切れても、周囲を見て、任された仕事を続けられるようにする部分です。新型の名前はボイド。でも、肝心のそれができていません」
シラは、先ほどの空の固定台を思い出した。
「まだ積んでいないんじゃなくて、作れていない?」
「はい。この艦に、完成したボイドは一機もありません」
ラビの耳が、ゆっくり外側へ倒れた。
「すごい船に来たと思ったら、すごく困ってる船だった」
エナは少しだけ困った顔をした。
「外装も推進部も用意できます。普通の制御装置を載せた飛行試験も通りました。けれど、中枢を作る条件だけは分からない」
「作った人に聞けないんですか」
シラが尋ねると、エナは黒い容器を振り返った。
「元になった設備が、地球の海底で見つかった古い船のものなんです。残された資料を調べ、こちらの技術で補ってきました。普通の部品を作る部分は扱えるようになった。でも、ここはまだ」
海底にあった船。
誰が乗っていたのだろう。そんなものを、月まで持ってきたのか。
聞きたいことが一度に増えた。シラが口を開く前に、エナは窓の赤い封印札を示した。
「今は供給を遮断しています。私と艦長が承認し、担当者が隔壁を閉めて監視するとき以外は動かしません。見学していたら突然何か出てくる、ということはありませんよ」
ラビが、窓から半歩戻した足を止めた。
「……今の、顔に出てました?」
「よく聞かれるので」
シラも窓へ近づき直した。
新しい機械の使い方を覚えに来たはずなのに、そこには、まだ作り方の分からない機械があった。
期待していいのか、心配すべきなのか、決められなかった。
ラビは黄色い作業機の方へ向き直る。
「じゃあ、今日はあっちの二機ですね。できてないものの操縦は覚えられないし」
「ええ。まず、帰ってこられるようにしましょう」
*
その最初の練習で、シラは六機を帰れなくした。
艦内の訓練席。画面の中だけの母艦と、十二機の模擬子機。
そのうち六機を戻す課題なのに、格納口の手前で、その六機が止まっていた。
「衝突はしてない」
シラが言うと、ラビは画面を指した。
「入口にも入ってない。誰かが先に譲るまで、全員ここで暮らすことになるよ」
点検を続けている一機が、帰還する二列の間へ入り込んでいた。各機はちゃんと障害物をよけている。その結果、左右の列が互いを塞いでいた。
港なら、作業中の艇をどかすところだ。
「点検の一機をどかしたい。タスクを止めるの、どこ?」
「ここ。帰還じゃなくて、一時待機にして。あっちなら列を塞がない」
ラビが操作欄を開き、空いた場所を示す。
シラはその一機の仕事を止め、退避位置を作った。列が動き始めたのを見て、ようやく椅子へ座り直す。
習った操作を間違えなければできる、と思っていた。その考えから直さなければいけないらしかった。
翌日は、ラビが一機を取り残した。
通信が切れた機体に、母艦を待つよう指示してあった。母艦が逃げ始めても、機体は律儀に同じ場所にいた。
「ちゃんと待ってる。私がそう言ったから」
ラビは長耳を両手で押さえた。
シラは取り残された印を見てから、母艦の進路を戻した。
「次は先に、合流する場所を教えよう」
「そこが使えなくなったら?」
「もう一つ決める。戻す相手にも伝えておく」
画面の中で失敗しておいてよかった。
口には出さなかったが、次を始めるラビの顔を見て、同じことを考えている気がした。
三日目の夕方、二人はようやく必要な試験を通った。
許可された仕事は、通常子機の運用と、監督担当者のいる場での航行支援。兵器の画面には、触れられないところがいくつも残っていた。
食堂でトウカに報告すると、先輩は持参した包みから、金属の輪を取り出した。
「おめでとう。じゃ、これを次の補給便で港へ送り返す手伝いをお願い」
「合格祝いが仕事」
「港のオーブンの部品だよ。パンがもう少しまともになる」
ラビが包みを引き寄せた。
「シラ、送り先を出して。私は受け渡し時間を聞く」
「急に仕事が早いね」
「大事な荷物だから」
シラは笑って、食堂への輸送票を開いた。
明日は港を離れる。けれど、帰る場所との用事は、こんなふうに続くらしかった。
*
四日目の朝、ルクスレインは支持架台を離れた。
艦橋の誘導席で、シラは窓代わりの画面を見つめた。灰色の地面が下がり、何度も歩いた港が、床に描かれた図くらいの大きさになる。
離陸の重さがふっと抜け、膝に置いた端末が、落下防止のひもを引いて浮いた。
「来た」
ラビが小声で言う。
重力の切り替えで、一時的に物が浮く。教わったとおりだ。シラは端末を押さえ、人工重力が戻って、再び足が床へ押しつけられるのを待った。
まずは月の近くで、船外の点検と通信試験をする。
新型はまだ空の台のまま。外へ出すのは、見慣れた黄色い作業機二機だけだった。
「一番機、点検位置へ。二番機はここで待機」
ラビが指示を送った。
シラは帰る道を先に確かめてから、往路を開いた。黄色い機体が船腹を離れる。
画面の隅に、訓練中の表示はなかった。
「飛んだね」
「帰ってくるまでが試験」
「それ、昨日は私が言った」
ラビが笑った、そのすぐあとだった。
艦橋の照明が変わった。
外縁監視網からの警報が、正面画面へ割り込む。
黒い艦影、二隻。
シラの喉が詰まった。記録映像の船と同じ形だった。外板が花のように散っていく、あの記録の向こうにいた船だ。
「試験中止。子機回収、退避を開始する」
ガルドが命じた。
シラの画面へ、避難する船の印が次々に入ってくる。
その一つから通信が開いた。
『こちら観測施設の連絡艇。向きが戻らない。誰か、聞こえるか』
通信の向こうで、金属をたたくような音がした。
ラビの顔から笑みが消える。
練習なら、いったん止めて考え直せた。
シラは震える指を画面の縁に押しつけ、通信を開いた。
「聞こえます。今いる場所を、教えてください」




