第1話 朝食の前に四十二人
「シラ。もし今日、急に休みになったら何する?」
食堂の向かいで、ラビが頬杖をついた。
白い長耳が、湯気の上へ二本伸びている。シラはパンを持ち上げたまま、その耳を見た。
「これを食べる」
「そのあと」
「スープを飲む」
「もっと大きな予定は?」
「今の予定を終わらせてから考えたい」
ラビは口を閉じた。わざとらしく背筋まで伸ばすので、シラは笑いそうになる。せっかく黙ったのだから、ここで話しかけてはいけない。
白狼のシラと白兎のラビは、月面補給港の航路誘導係だった。船を迎え、荷役艇の通り道を空け、次の担当へ渡す。今朝も混み合う時間を乗り切り、交代の班に席を渡してきたところだ。
ようやくパンにかじりつこうとしたとき、二人の端末が一緒に鳴った。
ラビが両手を上げる。
「今のは私じゃない」
「分かってる」
呼び出しは、第六桟橋からだった。
貨客艇一隻、接岸支援。到着まで四分。
シラは詳しい報告を開いた。桟橋の誘導装置が故障し、自動接岸が使えない。到着する艇も姿勢を直す噴射口を一つ使えず、長く待つ余裕がないという。
画面の下に、乗客四十二名とあった。
「ラビ、行ける?」
「もう立ってる」
ラビは椅子を戻しながら、当直へ応援を受けたと返信していた。
シラはパンを袋へ入れた。今度こそ戻って食べるつもりで、スープにはふたをした。
*
食堂の外には、簡易寝台が壁沿いに並んでいた。
廊下の照明は朝の白さなのに、毛布の中ではまだ何人も眠っている。月の外側に残った施設から、作業員とその家族が引き揚げてきたのだ。
急ぎたいのに、走れない。
通路へはみ出していた荷物をラビが壁際へ押し、シラはその横を抜けた。寝台の端に座る小さな子が、二人の職員証を見上げる。
「船、来た?」
シラは一瞬だけ足を緩めた。
「これから。一隻、迎えに行く」
どの便を待っている子なのか、聞く時間はなかった。
通路の先でラビが扉を押さえている。シラはうなずいて、管制室へ入った。
横に長い窓の向こうは、灰色の月面だった。
第六桟橋は海へ突き出した橋ではない。宇宙船を地面へ据えるための大きな支持架台で、その左右に船体をつかむ機械の腕が立っている。人が外を歩くときには宇宙服が要る。乗客を迎える気密通路も、今は畳まれていた。
架台の上方に、小さな光が一つ見えた。
来た船だ。
「来たね。お湯、ここに置いておくよ」
工具袋を肩に掛けたトウカが、二人の席へ湯の入った紙コップを一つずつ置いた。
三毛猫の彼女は港の整備主任で、シラたちが困るたびに呼んできた先輩だった。今日はもう呼ばれていたらしい。作業着の膝が、床に潜ったときの汚れで黒くなっている。
「誘導装置、すぐ直りますか」
「部品交換に十五分。船はあと三分ちょっと」
シラは当直の背後から画面を見た。
桟橋から船へ送る進入信号が不安定になり、貨客艇は手動操縦に切り替えていた。桟橋のカメラと捕捉アームは使える。
「ほかの桟橋に回せませんか」
「空いてる八番は医療搬送中。それに、あの艇の姿勢制御用ガスが少ない。向きを変えて待たせるほど、残りを使う」
当直が答えた。
壊れた桟橋へ、壊れかけの船を入れる。ほかを選べるならそうしたかった。だが、待つことも安全ではないらしい。
「じゃあ、ここで受けます。カメラの測定をラビに。私は艇長を誘導します」
「捕捉はこっちでやる」
当直が、アームの操作席へ移った。
シラは空いた席に座り、固定帯へ足を通した。窓の外の光が、補修板の多いずんぐりした船の形になってきた。
『第六桟橋、聞こえるか。表示の中心がまたずれた』
通信が開くなり、艇長の声が飛び込んできた。
年配の猫だった。映像の片隅に白いひげが映り、手前には操縦桿を握る両手がある。背後で、乗客に着席を呼びかける声がした。
「こちら誘導担当のシラです。桟橋側の信号を使わずに入れます。まず――」
「待って。シラ、船尾」
ラビがカメラの映像を横へ送った。
船の前半は架台の中心へ寄っている。けれど後ろ半分は、反対へ振れていた。このまま真っすぐ下ろせば、船尾が架台の柱を払う。
「艇長、右への修正を止めてください」
『中心から外れるぞ』
「承知しています。先に回転を止めます」
返事の代わりに、小さな噴射が見えた。
船尾の振れが増えた。
シラは同じ指示を繰り返しかけた。
ラビが、通信の音量を上げる。艇長の背後で、短い警告音が鳴り続けていた。
「艇長。今、何を見て動かしていますか」
『何って、接岸線だ。外れるたびに鳴る』
「その線、桟橋から来る信号で出してますよね?」
艇長の目が、こちらを向いた。
「あの線は今、正しい場所を示していません。手動にしても表示は残っています。消せますか」
少しして、警告音が止んだ。
『……消した。悪い、追いかけてた』
「こっちから見えています。今からシラの声に合わせてください」
ラビがシラへ指を一本立てた。どうぞ、の合図だった。
シラは息を吐き、使える噴射口を確認した。
「船尾左側の噴射口を、短く吹かしてください。一回だけお願いします
艇長が復唱する。
白い噴射が見え、船尾の動きがゆっくりになった。
「止めてください。今ので合っています」
艇長の手が止まった。
シラは次を急がず、ラビの測定を待った。こちらの席から操縦桿を取り上げることはできない。相手が何を見て怖がっているか知らずに、正しい指示だけ言っても届かないのだ。
「回転、止まった。右へ寄ってるけど、アームが届く」
ラビの声は明るかった。安心させようとして作った調子ではなく、実際に道ができたときの声だった。
シラは当直へ向き直る。
「二番のアームから受けられますか」
「いける。一番は待たせる」
窓の外で、太いアームが起き上がった。
貨客艇の船腹が近づき、窓の上半分をふさいでいく。さっきまで小さな光だった船だ。塗装の剝げた板一枚が、自分の身長ほどもある。
その大きなものが、まだ動いていた。
「二番、停止?」
当直の手が、操作桿を押し直そうとした。
画面のアームが、途中で止まっている。
「触らないで」
トウカが短く言った。
その手は画面ではなく、窓の外を指していた。
「腕は動いてる。位置表示だけ遅れた」
シラも顔を上げた。
船腹へ伸びる腕は、止まっていなかった。ここでもう一度押せば、思った以上に近づけてしまう。
当直が手を浮かせる。その間に、画面の表示が実際の腕へ追いついた。
「あと少し。そのまま」
ラビがカメラを見て言った。
腕の先が、船体の受け金具をつかむ。
床の奥から、低い振動が伝わった。
二番の固定確認。一番も閉じる。大きな船の影が動かなくなり、架台へ荷重が移っていく。
『……止まったか?』
艇長が聞いた。
シラは両側の固定表示を見た。どちらも緑だった。
「止まりました。お待たせしました」
通信の向こうで、長い息が漏れた。
『四十二人、全員無事だ。降ろしてやれる』
「気密通路がつながるまで、もう少しだけ」
『ああ。今度は待つ』
シラはそこで初めて、背もたれに体を預けた。
*
乗客が港へ入り始めるころ、シラたちは引き継ぎを終えた。
当直は誤表示の出た装置を使用禁止にし、トウカへ交換の順番を確かめている。助かったからといって、このまま次の船を入れるわけにはいかない。
ラビがぬるくなった湯を一口飲んだ。
「今日の休み、何するか決まった?」
「まだ朝食が終わってない」
「私も」
シラは袋からパンを取り出し、半分に割った。
ラビへ差し出しかけて、少し大きい方に持ち替える。
「表示のこと、助かった」
「それで大きい方?」
「いらなければ戻す」
「いる。感謝は食べて受け取る」
ラビはすばやく取った。
トウカが工具袋の口を閉めながら、二人を見た。
「ちょうどいい。食べながらでいいから、連絡を一つ」
シラは嫌な予感がして、先にかじった。
「午後、出向の説明がある。二人とも荷物をまとめといて」
飲み込むのに、少し時間がかかった。
「……誰がですか」
「今、目が合ってる二人」
「どこへ?」
ラビが聞いた。
トウカは端末に正式な通知を出した。
試験艦ルクスレイン。
航行運用担当、シラ。
観測・子機管制担当、ラビ。
シラは、同じ二行を読み直した。
港の席から、艦の席へ。仕事内容は似た言葉で書いてあるのに、窓の外側へ出されるような気がした。
「私たち、船の武器なんて使えません」
「その係として推薦したんじゃない」
トウカは作業をやめ、こちらへ向き直った。
「故障した船と、動揺した相手がいても、実際に何が起きてるか見て仕事を変えられる人が欲しいって。そう聞かれたから、二人の名前を出した」
「推薦したの、先輩?」
「うん。私も整備で行く。配属通知は私の方が先だった」
一緒なのか。
安心した自分に気づいて、シラは困った。先輩がいれば安全だなんて、そんなわけがない。
ラビは通知を下まで送っていた。
「無人機の運用試験と、航行支援。これって、敵が来る場所でもやるんですか」
「そこは艦長から直接聞いて。訓練前に実戦へ出すとは聞いてないけど、私が全部を約束するわけにはいかない」
冗談を言ってほしいところで、先輩は言わなかった。
シラは通知を閉じかけた手を止める。何をさせられるのか分からないまま、分かりましたと答えるのは嫌だった。
「説明を聞きます。危ない仕事なら、何が危ないかも」
「うん。私も聞きたい」
ラビが隣で言った。
もう食べ終えていた。こういうときだけ早い。
通路の向こうで、乗客を数える声がした。
四十、四十一。最後の一人が、気密扉を抜けてくる。
艇長は一人ずつ降りるのを見届けてから、こちらへ深く頭を下げた。
シラも頭を下げ返した。
あの船を、入れてよかった。それだけは迷わなかった。
「先輩、説明の前に食堂へ寄れますか」
「時間はあるよ」
「スープ、置いてきたので」
ラビが笑った。
シラは残りのパンを口へ運ぶ。午後からどこへ行くとしても、朝食くらいは、自分で終わらせたかった。




