第20話 長い航海の途中
乾燥室の取り出し口に、シラの上着だけが残っていた。
下着と靴下は自分で持った。ラビのものも、頼まれた分は袋へ入れた。なのに一番大きいものを忘れた。
「どういう順番で忘れたの」
ラビは上着を広げて待っていた。
「全部終わったと思ったから」
「自分のは、まだだったね」
肩へ掛けられた布は温かかった。シラは袖へ腕を通し、首の毛が襟へ巻き込まれたのを引き出した。
人類の映像を見た翌朝だった。昨日あれほど大きな話を聞いたのに、今朝いちばん助かったことは、乾いた上着があることだった。
ラビは袋から自分の服を出し、寝台へ並べた。
「今度は私が取りに行くから、畳む方お願い」
「耳のところは?」
「そこは畳まない。しわになる」
長い耳を通す部分を潰しかけ、シラはそっと戻した。
*
その日の打ち合わせで、部隊の数が八隻になった。
集結地点へ追加の通常艦二隻と、二隻目の補給船が到着したのだ。
シラは最初、増えた三隻を前の五隻の図へ押し込もうとした。すぐにやめた。守れる幅がそのままで、置く船だけ増やしてよいはずがない。
ラビが各艦から届いた観測範囲を開く。
「目は増えた。砲も増えた。でも、連絡の窓も増えた」
「二人で全部見ないようにしよう」
当直の担当者とも分担し、重複する報告をまとめてから席へ送る。各艦を操縦するのは、それぞれの航海班だ。こちらから送る線が、相手の実際の動きを追い越さないようにする。
ガルドは全艦との回線で、火星方向への目的を確かめた。
「火星から地球側へ出てくる艦を抑え、こちらが活動できる範囲を広げる。八隻で惑星全体を取り戻す計画ではない」
地図の上では、進路は一本で済む。
実際には燃料も部品も、人が眠る時間も要る。工作船長が整備できる設備を読み上げ、補給船二隻は互いに違う積み荷を示した。どちらか一隻で二隻分を運べるわけではなかった。
「前へ出る四隻と、後ろへ残る四隻に分けたいです」
シラは新しい図を送った。
ルクスレインと通常艦三隻を前へ。補給船二隻と工作船には、残る通常艦一隻をつける。戦闘へ入る前に支援船を離し、前線から傷ついた船が戻る道を空ける。
「後ろの一隻だけで守り続けるつもりはありません。敵が回ったら、こちらの前進も止める必要があります」
ラビが後方を見る担当を付け加えた。
遠い敵を追っている間に、帰り先を狙われたくなかった。
各艦から返事が届く。工作船は、修理する船を受ける側にもっと空間が欲しいと言った。シラはその分だけ位置をずらし、もう一度確認した。
機体は増えていない。
〇一と〇二、そして黄色い通常機二機。エナは、中枢の予備はなく、外装の修理部品だけを積み増したと報告した。
その場で、無理な三機目を予定の枠に入れる人はいなかった。
*
三日後、八隻は集結地点を離れた。
置いてきた観測機は後続へ引き継ぐ。補給便が使う進入範囲も、月側の担当へ渡した。
シラが最後の返事を受けたとき、靴底から緩い振動が伝わった。母艦の進路が変わり、帰るために覚えた月の方向から、また一つ遠ざかる。
それからの航海は、戦闘記録には短くしか残らなかった。
砲を撃たない一日が続いた。だが、人の一日は、静かな記録の長さでは測れなかった。
一週目、シラは夜中に目を覚まし、壁の時計が午後を示しているのを見た。
艦の当直に合わせて寝る時刻を変えたため、体の中の時間がずれている。ラビは向こうの寝台にいなかった。慌てて端末へ触れかけ、交代で入浴しているのだと思い出した。
空いた寝台は、いなくなったことと同じではない。
シラは自分の膝に毛布を戻した。
戻ったラビは、シラが起きているのを見て眉を上げた。
「起こした?」
「勝手に起きた。まだ寝る」
「じゃあ、次は私が静かにする番」
ラビは明かりを小さくし、袋を広げる音まで控えた。
シラはそれを聞いているうちに、もう一度眠れた。
*
二週目の訓練では、砲を向けるより前に、古い情報を捨てる練習をした。
母艦の観測が一時使えないという設定で、通常艦から送られる映像だけを使う。ラビはすぐ新しい窓を開いたが、同じ対象が別々の場所に見えた。
「どっちが今?」
シラが尋ねる。
「こっち……待って、表示した順じゃない。撮った時刻を見る」
送られた順番が前後していた。最後に届いたものが、一番新しいとは限らない。
ラビは新しい画像へ大きく時刻をつけ、古い方を脇へ寄せた。
耳の先が欠けた艦長は、こちらで見えている範囲を図へ重ねて送ってきた。
『母艦と同じ場所に目があると思うなよ。うちから見えない裏側は残る』
「分かりました。見えない方も表示します」
ラビが応じた。
訓練の終わりに、シラは〇一を出さずに済んだ時間を数えた。短い間でも、通常艦が引き受けられれば、機体を格納したまま点検できる。
その時間は、整備班へそのまま渡された。
*
四週目、補給船から母艦への受け渡しが遅れた。
故障ではない。前方に見つかった不明な影を確かめるため、八隻が進路を変えていた。補給用の小型艇を出すには、互いの速さを改めて合わせる必要があった。
昼の献立が一品減り、ラビは空いた皿の場所をじっと見た。
「そんなに残念?」
「昨日、今日の献立を見てから寝た」
「期待を先に使いすぎ」
「寝る前の楽しみくらい、自由に使わせて」
調理担当が代わりの温かい汁を注いでくれた。ラビはきちんと礼を言い、席に着くと予定表を閉じた。
その夜、無事に受け渡しを終えた小型艇が戻った。シラは二機の点検に使う部品の受領まで確認し、次の担当へ渡す。
荷物の箱には、月を出た日付が残っていた。
そのころ、自分たちはまだ集結地点にいた。箱は二人を追って、いくつもの受け渡しを通ってきたのだ。
私用の通信も届いた。
港の食堂から回覧された、焼き上がりの写真だった。以前、部品を送ったオーブンの前に、何枚もの天板が並んでいる。
ラビは一枚を拡大した。
「これ、先輩なら端の焦げてるところを選ぶかな」
シラは答えようとして、言葉が出なかった。
トウカの好きなものを全部知っているわけではない。知っていることまで、今はすぐ口にできない日があった。
ラビは写真を閉じかけた。
「消さないで」
シラは言った。
「今日は、見るだけにしたい」
ラビはうなずき、端末を二人の間へ置いた。
その日は写真だけを見た。二日後、ラビがもう一度開いたときには、シラもどの皿を食べたいか言えた。
*
六週目になると、月への問い合わせは、その場で返事を待つ仕事ではなくなっていた。
通信を送る。次の当直へ渡す。いくつか別の仕事をしてから、受信を確かめる。
近くにいる各艦とはすぐ話せても、月も、資料を送る人類も、同じ回線の隣席にはいない。
「こっちの予定を、あっちの人が読むころには変わってるかも」
ラビは通信の冒頭へ、作成時刻を入れた。
「なら、変わって困るところも書こう。次の返事を待たずに決める条件」
シラが言うと、通信担当が現在の様式を二人へ回した。部隊内で判断してよい範囲は、すでに指揮側で分けられていた。二人はその下に、実際に見ている航路の状態を書いた。
許可を待たずに何でもできるわけではない。遠い返事を待つ間にも、目の前の船を止めずに済むよう準備があるのだった。
生活も、互いの交代が少しずつ楽になった。
シラはラビの耳を通す部分を潰さずに服を畳めるようになった。ラビは、シラが起きた直後には二つの質問を一緒にしない方がよいと覚えた。
それでも、二人とも同じ日に目覚ましを止めかけた。
当直の呼び出しではなく、二つ目の目覚ましで起きたことを、シラは少し誇らしく報告した。
「失敗の報告を、得意そうにしないで」
ラビに言われたが、相手も笑っていた。
*
七週間を過ぎた朝、火星が模様のある丸い星として画面に映った。
肉眼の大きさではない。望遠で拡大された赤い面に、淡い筋と暗い影がある。
シラはしばらく、その前から動けなかった。地図の印へ向かってきたつもりだった。向こうにも、実際の広さがあった。
八隻はまだ火星を回る軌道へ入っていない。敵の活動域の外で、速度を落として観測している。
「艦影、四。重複を除いて四隻です」
ラビが報告した。
いま見えているものと、別の時刻に写った同じ艦を分けた数だった。
ガルドは前進を止め、後方の四隻を離す準備を命じた。七週間かけて来たからといって、最後の接近だけを急がない。
シラは敵へ近づく線を閉じ、補給船へ戻る線を残した。
格納区画からは、次の点検で二機を動かせなくなる時間が届いた。
機体の番号は、月を出たときから変わっていない。
同じものを直し、同じ人たちが交代しながら、ここまで運んできた。
シラは次の当直へ席を渡し、ラビと一緒に下の階へ降りた。長い航海で、よく知った匂いになった通路だった。




