第16話 誰の設計図
分析室の机に置かれた紙は、一枚だけ端が丸まっていた。
エナが重しに小さな部品を載せる。その下に、〇二の帰還映像が何枚も印刷されていた。
「画面で見ないんですか」
ラビが尋ねた。
「並べたまま、別のことを考えたかったので」
「分かります。端末って、別のことをすると前のが隠れる」
ラビは椅子を引き、自分の端末も机に置いた。
中継器の設置から一晩。展開船と警備艦は月側の管制へ渡し、ルクスレインは待機軌道で点検を受けている。休息を取った二人は、〇二が帰りに選んだ遠回りについて呼ばれていた。
シラは紙の上の線を指で追った。
「ここを、避けたように見えました」
「観測できた範囲には、障害物はありません。船腹の噴射も止まっていました」
エナが別の記録を並べる。
温度、通信、母艦から送った指示。知らない記号が続く中で、停止命令を受けた時刻だけはシラにも読めた。
「止まれと言えば止まる。でも、どこを通るかは決めている」
「任された範囲では、そうです」
「決め方を書いた人に聞けませんか」
シラの問いに、エナは重しの部品を持ち上げた。
紙の端がまた丸まる。
「その人が、ここにはいないんです」
*
艦長が来るまで、二人は別室で待った。
ラビは途中で席を立ち、通路の水飲み場へ行った。シラは置いていかれた紙を見ていた。誰が書いたか分からない規則に、人の乗った船を守らせている。
これまで聞いてきたのは、何を任せられるかだった。いつか、なぜできるかも分かるのだと思っていた。
「冷たい方しか出なかった」
戻ったラビが紙コップを置く。
ありがとう、と言うより先に、扉が開いた。
ガルドは二人を分析室へ戻し、エナへ説明を求めた。
「海底の古船に残っていた資料だけでは、製造設備は動きませんでした」
博士は三つに色分けした図を開いた。
「足りない部分について、外から届いた資料があります。地球や月の研究所からではなく、もっと遠い宇宙からです」
ラビのコップが机の上で止まった。
「……攻めてくる船の方から?」
「送信者は、その艦隊の攻撃に反対すると伝えてきた。正体については、司令部が確認中だ」
ガルドの言い方は慎重だった。
シラは立ち上がりそうになった。敵から来た資料、という言葉が先に頭へ浮かび、続く説明を聞き逃しそうになる。
「それを、私たちに使わせてたんですか」
部屋が静かになった。
エナは弁解せず、図のうちの一色を広げた。古船に残っていた機械と、届いた資料の構造が並ぶ。
「照合して確かめられた部分です。資料を丸ごと装置へ流し込んだのではありません。部品を調べ、こちらで作り、動作を一つずつ試しました」
「じゃあ、ボイドは?」
「完成した設計図をもらったものではない。古い設備を、提供された資料と私たちの制御装置で動かした結果です」
三つ目の色が、図の間を埋めた。
外装、推進部、通信器。シラにも名前の分かるものは、こちらで作った部分に多かった。中央だけが、どの色にも塗り切れていない。
ラビがそこへ目を近づけた。
「送った人も、〇二の選び方を知らない可能性がある?」
「あります。問い合わせは続けています」
受信記録が開いた。日付の違う問いと返答が、交互に並んでいた。すぐ答えが戻る距離ではない。今回の帰還記録は、まだこちらから送ったばかりだった。
「秘密にしたら、安全になったんですか」
シラは艦長へ聞いた。
聞いてしまってから、自分が怒っているのだと分かった。知らないことが怖いのに、知らされない方が安全だと決められていたことにも腹が立っていた。
「情報を絞る判断は、司令部と私の側にあった。今、君たちが理由の分からない挙動を報告している以上、資料にないことまで理解済みだと思わせてはならん」
「もっと早く聞きたかったです」
「それも報告に残す」
謝って終える言い方ではなかった。
シラは指を机から離した。これで納得したと見られたくなかったが、同じ言葉を繰り返したいのでもなかった。
*
「外から、こっちの二機へ命令は送れるんですか」
今度はラビが尋ねた。
エナは通信の図を開いた。外部資料を受けるところと、機体へ指示を送るところは、直接つながっていなかった。
「現在使う指示は、艦内で確認した系統からです。これまで外部が機体へ割り込んだ記録はありません」
「中枢が分からないのは、そのまま?」
「はい。だから、外から乗っ取られる心配は絶対ない、とまでは言えません」
ラビはゆっくりうなずいた。
「変な動きをしたとき、私たちが『設計どおりだから大丈夫』って判断しなくていいんですね」
「そうです。異常かどうか分からないことも、記録してください」
シラは帰還映像の紙を引き寄せた。
進めるか、全部やめるか、その二つしかない気がしていた。今の問いなら、自分たちが次の席で変えられることがある。
「帰還範囲を出た場合と、停止に答えなかった場合は、次の任務を与えず、運用を続けるかどうかの判断を艦長にお願いします。交代の担当にも、同じ条件を渡したいです」
「一つ付け足していい?」
ラビが手を上げた。
「外の記録を機体へ渡すとき、何を渡したか私の席でも見たい。『必要な資料』だけじゃなくて、対象の位置なのか、経路なのか。次に調べるとき、こっちの指示を間違えたのか分からなくなる」
エナはその場で、現在の入力記録を二人に見せた。実際には保存されている。普段の画面では隠れているだけだった。
表示を直し、艦長が運用条件への追記を認める。
シラは初めて、水を飲んだ。冷たいはずだったコップは、もう手の温度になっていた。
部屋を出るとき、ラビが紙を指した。
「コピー、もらっていいですか」
「何に使います?」
「交代の説明。端末だと、前のが隠れるので」
エナは少し笑い、丸まっていない方を渡した。
*
中継器を置いてから三日目、止まっていた輸送便の一つに出発時刻が入った。
シラたちが受け持つのは月寄りの短い区間だった。船長は指示された速度へ落とし、映像を送る代わりに、位置と機関の状態を短く伝えてきた。
通信は普段より静かだった。
静かすぎて、シラは何度か音量を確かめた。
『位置報告、受け取ったか』
「受け取りました。次の管制も準備できています」
『じゃあ、このまま行く』
ラビが別経路への切り替えを監視している。一基を経由する信号が弱くなったところで、通信班が残る経路へ振り分けた。
船の印は消えなかった。
次の管制から引受の返事が届き、シラは担当の欄を閉じた。
たった一便。積み荷は食料と補修部品だった。
ラビは保存の欄へ、戦闘ではなく、その便の番号を入れた。
「私の図、ここまで来た」
「通信班に、あとで送ろう」
「送った。向こうから先に来てた」
ラビの画面に、同じ引継ぎ完了の印が二つ並んでいた。
*
食堂で焼き野菜を選べたのは、その便が届く前だった。
シラが不思議そうに皿を見ていると、調理担当が奥から言った。
「次が来る予定になったから、しまってた分を出した。食べていいぞ」
ラビは迷わず取った。シラも手を伸ばす。
向かいに座って一口食べると、ラビは声を落とした。
「あの資料、使わないでって言わなくてよかった」
シラは皿から顔を上げた。
「私、言いそうだった?」
「うん。私も、ちょっと思った」
反論しかけて、シラはやめた。自分でも思っていた。
「でも、知らないまま、次も出しては嫌だった」
「そこは同じ」
ラビは焼き目の濃い端をフォークで切った。
「信用するって、全部任せることだと思うと怖い。あのとき、まだ任せない場所も決められたから」
シラは、いつもなら残しがちな野菜の皮まで食べた。誰から来た資料でも、それで救えた船をなかったことにはできない。秘密にされた怒りも、同じ皿の上から消えなかった。
食事のあと、二人は次の訓練説明へ向かった。
正面画面には、月から先へ延びる航路があった。火星の手前で味方の船を集め、補給を受けられる場所を作る計画だ。
ガルドは火星へ向かう理由を短く話した。敵の出撃する拠点が残る限り、月で追い返すだけでは次が来る。その一方で、帰りの燃料も運ぶ船も用意せずには進めない。
通常艦との共同訓練が、出発の条件に入っていた。
シラは赤い惑星を見つめた。あそこから、戻らなかった艦隊がある。
「顔が、さっきと違う」
席を立つと、ラビが言った。
「そんなに分かる?」
「焼き野菜をもう一皿取る顔ではない」
シラは笑えなかった。
「火星へ行くの、怖い」
「私も。名前だけで怖いの、ずるいよね」
ラビは赤い丸を見上げた。
「向こうへ行く人には、普通の朝とかもあるのかな」
「私たちには、あると思う。寝坊したら困る」
「じゃあ、そこは準備できる」
二人は明日の集合時刻を同じ画面で確かめた。
それからシラは、通常艦から届いた牽引の資料を開いた。知らない相手と前へ進む前に、その相手が何をできるか、今度は最初から聞くつもりだった。




