第14話 同じ場所には戻さない
短い当直の終わりに、シラは立ち上がろうとして、椅子の固定帯に尾を挟んでいることに気づいた。
交代の担当者が椅子を少し引き、帯に手が届くようにしてくれた。
「ほどけました。どうぞ」
「……ありがとうございます」
隣の席でラビが口元を押さえている。
「笑ってる?」
「無事にほどけたから、少し」
トウカを乗せた連絡艇を見送ってから、四日が過ぎた。
医療班との面談と休息を挟み、二人は見張りの引継ぎから仕事へ戻っていた。昨日は一回、今日は二回。眠れなかった朝には順番を変えてもらった。艦橋の時計だけを見れば以前と同じ生活なのに、夕方になると、もう一日終わったことに驚いた。
今日はそのあと、〇二の飛行試験がある。
「休む方へ行かないのか」
交代の担当者が尋ねた。
「試験まで、まだ時間がありますよ」
「経路をもう一度……」
「記録は受け取りました。変わったら呼びます」
シラは端末を胸へ抱えた。
自分が席を離れれば、何か見落とされる気がする。その何かが何なのか、答えられなかった。
ラビが先に通路へ出て、振り向いた。
「私、足を伸ばしたい。付き合って」
それならいいか、とシラは立った。
*
艦橋の下の廊下を往復し、二人は試験の時間に戻った。
正面画面の月は、半分だけ白かった。ルクスレインは民間便の通り道を外した試験区域にいて、警備艦が遠い側を見張っている。
〇二の外装検査は済んだ。今日は速さを競う日ではない。いったん出した機体の仕事を、こちらの都合で変えられるか。それを確かめる日だった。
「格納口、開きます」
整備担当の声が届いた。
灰色の機体が船腹から離れる。最初は、貨物を運ぶ黄色い通常機と同じくらい遅い。ラビが手元で行き先を送ると、四枚の板を開き、白い噴射を短く引いた。
シラは帰還位置へ指を置いた。敵も、助けを待つ船もいない。それでも、戻すために使う欄を先に開いておきたかった。
「予定を変える。短い方へ」
試験監督が言った。
ラビの操作で、〇二の行き先が切り替わる。機体はその場で直角には曲がらず、弧を描いて向きを直した。シラが空けておいた範囲を出ない。
停止。再開。任務の取り消し。
最後の指示で、〇二は母艦へ戻り始めた。
「ここまでは、通りました」
エナが言い、次の試験を許可した。
修理を終えた〇一も外へ出る。母艦から離れる標的を、二機が一つずつ追った。発砲できるのは、人のいる船から外向きの、限られた範囲だけだ。
小さな光が二度走った。
その直後、シラの画面で二本の帰還線が重なった。
「待って。〇一は前へ戻さないで」
言ってから、シラは指を止めた。
待機させたい場所には、これから戻る〇二がいる。二機とも帰還口の前で止めれば、乗艦した日の模擬試験と同じになる。
ラビが画面の余白を指した。
「〇二、こっちを通せる。〇一は今の待機位置でいい?」
「うん。入口へ寄せすぎた。外側を使おう」
シラは航海班へ変更を送り、受領を確かめた。ラビが〇二を船腹の外へ回す。〇一が残った場所からは、次の標的を見張れる。
帰るものと、まだ仕事をするものが、ようやく分かれた。
「二機いれば、二機ともすぐ帰せると思ってた」
「私は二機ともすぐ働かせられると思ってた」
ラビは〇二の温度を見ながら答えた。
「休む場所まで、二つ要るんだね」
その一言に、シラはさっきの交代担当者を思い出した。自分たちの席にも、同じ仕事をする別の人がいる。
試験は、二機を同時に撃たせるところで終わらなかった。一機を休ませ、その間をもう一機と母艦の砲で受け持つ。警告まで使い切らずに、交代させる。
〇二が回収口へ戻ると、整備班が受け取った。続いて〇一も収まる。
収容完了の表示が二つ並んだところで、ラビが机の下で靴を伸ばした。
「次の散歩、もう少し長くしたい」
「付き合う。尾を抜いてから」
*
午後、通信室の予備席で、ラビはシラへ一枚の航路図を見せた。
第七中継所のあった場所に、黒い斜線が引かれている。
シラの目はそこへ吸い寄せられた。壊れた腕も、そこから離れていった艇も、図にはなかった。
「これ、どうしたの」
「通信班に借りた。再建するなら、使う船の側から意見が欲しいって」
机の向こうの通信担当が椅子を寄せてきた。大きな施設を建て直すには、材料も人も足りない。今すぐ用意できるのは小型の無人中継器が三基だという。
図の最初の案では、三基が一列に並んでいた。月へ近い方から順に、遠い船の声を渡していく。
「これだと、真ん中が切れたら?」
ラビは中央の印を隠した。
遠い側の二本の線が消えた。
「そこは船の通信器を借りる案だ。警備艦を一隻置けば、通せる」
「その艦が救助に出たら?」
「迂回はできる。ただ、この条件を満たせない」
担当者は別の案を開いた。三基を横にも結ぶ線がある。その下で、旧中継所と同じ量を送るための数字だけが赤かった。
「大きくて速い中継器は三基も用意できない。現行の運用基準だと、警備艦で補う方を先に出すことになる」
ラビは赤い数字を見た。
「これ、全部同時に送る量ですか」
「そうだ。航行映像、設備の記録、船員向けの通信も入る」
「大きな映像はあとにしたら? 位置と救難と、ちゃんと受け取ったって返事が先です。船も、初めから二つの連絡先を持つ。通信が減ったら、速さを落として通せるか、管制側で決めます」
担当者が優先する項目を選び直した。赤い数字のいくつかが消えた。
「全便を今までの速さで流す条件を、変えるんだな」
「はい。一本も通せないより、少しずつでも通したい」
ラビは黒い斜線を見ないまま続けた。
「あのとき、同じ録音が何回も来た。新しい声は一つも聞こえなくて。全部きれいに見せられなくても、今、生きて話してる人へつながりたい」
シラはラビの端末を引き寄せた。
誰かを失った場所へ戻る計画だと思っていた。ラビは、その場所へすべてを集め直さない計画を作ろうとしていた。
「この一基、少し月へ寄せられる?」
「どうして?」
「故障したら、作業船が回収する。今の位置だと、点検に来るたび長く外側へ出ることになる」
ラビが印を動かした。通信担当が距離を測り直す。
線の一本が、ぎりぎりの色に変わった。
そこからの話はすぐには終わらなかった。届く距離、交換できる部品、点検船の戻り道。一本の線を太くすると別の線が消え、二人の案は何度も書き直された。
休憩の時刻になると、担当者が図を保存した。
「続きはこちらで詰める。全部、今日決めなくていい」
ラビはまだ口を開きかけていたが、うなずいた。
「切り替える試験には、呼んでください」
*
翌日、計画の説明を受けたガルドは、まず月側で止まっている便の一覧を出した。
食料。空気を循環させる装置の部品。整備員の交代。
中継器が三つ働けば、この全部が一度に動くわけではない。それでも、少なくとも一本の輸送予定を組める見通しが立つ。
「これを進める。通信班の修正を加えた分散配置だ」
ラビの図とは形が少し変わっていた。だが、一つを外しても残る線は同じだった。
設置する展開船に警備艦二隻がつき、ルクスレインが外側を守る。〇二は点検結果を受け、母艦近くでの短時間運用が許可された。通常機二機は運搬と撮影の予備として艦内へ残す。
「施設の残骸へは入らない。故障した機材を、その場で人が出て直す任務でもない」
ガルドが図の脇へ帰路を示した。
シラはその線をたどり、展開船の担当者へ回線を開いた。
「積み荷を持ったまま帰る場合、曲がれる幅は変わりますか」
『放したあとより鈍い。途中まで出ていたら、なおさらだな』
「その状態の経路も作りたいです」
『珍しいな。普通は、どうすれば早く全部降ろせるか聞かれる』
声には少し笑いが混じっていた。
「降ろせなかったら、船ごと帰ってきてほしいので」
向こうの船長はしばらく黙り、それから荷室の図を送ってきた。
ラビは通信が一本切れた場合の手順を追記する。シラは三つの積み荷を抱えて帰る経路を、空荷のときと同じ大きさで残した。
それを交代の担当者へ渡して、二人は席を離れた。
今日は、確認し忘れたものがある気がしても、振り返らずに廊下へ出られた。




