第13話 引き継げないもの
トウカの名前は、宛先のいちばん上に残っていた。
翌朝、ルクスレインは月の待機軌道にいる。午前中は短い引き継ぎと格納区画での確認だけ。シラとラビはまだ通常の当直へ戻らず、航行と機体の監視は交代の班が受け持っていた。
シラは打ち合わせ席で、整備にかかる時間の照会を開いた。
昨夜できた中枢を、準備済みの外装へ組み込んでいる。誘導班が次の試験日程を考える前に、整備側の見通しを受け取るための連絡だった。
いつも選ぶ相手の名前を押した。
本文の空欄が開いてから、指が止まった。
送れないわけではない。
押せば、きっと送れてしまう。
ただ、あの先輩から返事が来ることはない。
シラは閉じた。
もう一度開くと、同じ宛先が残っていた。
「当直主任に聞くことになったって」
ラビが隣の椅子へ座り、整備班から届いた連絡を見せた。
「うん。変える」
シラは新しい相手を探した。
名前を一つ選び直すだけで、こんなに時間がかかる。ラビは待っていた。せかされる方がよかったのか、待ってもらえて助かったのか、自分でも分からなかった。
送信すると、しばらくして見積もりが戻った。
思っていたより長い。
人が減っただけではなく、作業と確認をする組み合わせも変わったと書かれていた。
シラは「もっと早く」と打ちかけた。
その文を見て、手を止めた。
「次の出動、まだ決まってないよね」
「うん」
「急がせる理由、ないね」
ラビは画面をのぞき、うなずいた。
シラは文を消した。
予定の空欄を埋めたいのは、次の船が待っているからではなかった。いつものように時間を聞き、次の仕事を書けば、いつもの朝になる気がしたのだ。
「この予定で受け取ったって、返す」
そう言って、送った。
返信の印がついても、朝は昨日までのものには戻らなかった。
*
格納区画には、灰色の機体が二つ並んでいた。
〇一の周りでは、整備員が板の付け根を調べている。
その隣の機体は外装を開かれ、中央に黒い中枢が収まっていた。つい昨日まで空だった部分だ。
外装も推進器も、前から準備されていた。昨夜、一晩で機体のすべてが現れたわけではない。
エナが二人を床の線の手前で迎えた。
「今朝、中枢を取り付けました。接続を一つずつ確認しているところです」
シラは黒い部分を見た。
〇一に入っているものと似ている。どこが違うのか、外からでは分からなかった。
「動くんですか」
「指示への応答はあります。いま、板を止めるところを試します」
整備員が周囲から離れ、固定台の確認を返した。
エナが指示を出すと、板が一枚持ち上がった。
途中で、ぴたりと止まる。
シラの肩がこわばった。
エナは停止の指示を示し、今の動きで合っていると伝えた。
「急に動き出しても困るので、止められることを先に確かめます」
ラビが小さくうなずいた。
「帰還の指示も、まだこれからですね」
「ええ。飛ばす許可は出ていません。二機を一緒に動かす試験も、別に必要です」
博士は識別番号の欄を開いた。
「こちらを〇二と呼びます。当面は試験機として登録してください」
ラビが名前を入れた。
ボイド〇二。
シラの配備表にも、その一行が増えた。使用可能の欄には、まだ印がない。
「次も同じ方法で作れますか」
ラビが聞いた。
「それは、まだ約束できません。電源を変えたことが関係するかも、ほかの記録と比べてからです」
エナは〇一の方へ目を向けた。
一度できたあとで、できなかった一機。その隣に、二度目の成功が置かれている。
シラは、〇二を戦場の図へ動かしたくなった。
ひとつは艇のそばへ。もうひとつは通信腕の上へ。
昨日の景色だと気づき、端末を下ろす。
「まだ、試験ですね」
確かめるように言うと、エナは、はい、と答えた。
ほかの意味を聞かれずに済んだことがありがたかった。
*
出口で、整備班の当直主任に呼び止められた。
「作業記録の引き継ぎで、誘導班に聞きたいところがある。今、大丈夫か」
シラはラビを見た。
ラビもうなずいたので、通路を空けて壁際へ寄った。
主任の端末には、救難艇へ積んだ工具の一覧が出ていた。
使った保持具。切断工具。途中で持ち替えた小さい工具。
艇へ戻ってきた道具と現場に残した器具を分け、使った順番を映像と合わせたいという。
「こちらで受け取った作業機の映像なら、送れます」
「助かる。確認は整備側でやる。二人で見直さなくていい」
シラはうなずいた。
先輩の仕事を、誰かが次の仕事へつなごうとしていた。分からないところは、こちらへ聞かれる。
先輩が戻るまで待つ、という欄は、どこにもなかった。
ラビが記録の転送を始めた。
すぐに主任の端末が鳴る。
「本文だけ来た。添付は、あとでいいよ」
ラビの顔が固まった。
「今、送ったつもりでした」
「急がなくていい」
主任は別の整備員に呼ばれ、二人へ軽く手を上げて戻っていった。
ラビは画面を何度も開き直した。空の添付欄は、何度見ても空だった。
「普通に送れるはずなのに」
シラは隣へ寄った。
「一緒に選ぼう。日付は昨日。作業機の外部映像」
ラビが候補を出し、シラが時刻を確かめる。
その先の事故映像まで再生しなくて済むよう、記録名だけで指定した。
「これで合ってる」
添付の印がついたのを二人で見てから、ラビが再送した。
受信しました、と返ってくる。
「こんなことで、人を呼び止めちゃった」
「私も今朝、先輩に予定を聞こうとした」
ラビが顔を上げた。
「私も、先輩ならどの記録か分かると思った」
シラは答えられなかった。
互いに失敗を打ち明けても、その失敗が消えるわけでも、以前のように仕事ができる二人へ戻れるわけでもない。ただ、戸惑っているのはラビ一人ではないと、伝わったらしかった。
「今日の用事、これで終わりにしよう」
シラが言った。
「まだ、〇二の」
「試験の担当に、結果を送ってもらえる。私たちがここに立ってなくても」
ラビは目を閉じて、息を吐いた。
「うん。立ってるだけなのに、疲れた」
「私も」
二人は通路を歩いた。
台車が来たので、シラはラビの袖を軽く引いてよけた。トウカなら、自分たちがよける前に、通るよ、と言っていたかもしれない。
今日は台車の車輪の音だけが通り過ぎた。
*
午後、月面から連絡艇が上がってきた。
交代の整備員が荷物を抱えて乗り込み、補給品が運び込まれる。
戻る便でトウカを月へ送る、と医療担当から連絡があった。受け入れ先との調整と、必要な連絡は、艦長と陸側の担当が進めている。
二人に手続きをさせるための呼び出しではなかった。
見送るなら、この時刻に、とだけ書いてあった。
シラは予定表を開かず、二人の部屋へ戻った。
扉の前で、ラビと会った。ラビも外へ出るところだった。
「一緒に行こう」
どちらからともなく言った。
格納区画へ続く通路の端で、二人は待った。
トウカと外へ出た整備員も来ていた。昨日より手の擦れ跡が目立つ。今日も、会釈だけを交わした。
覆いを掛けた搬送台が来た。
進む速度は、荷物を運ぶ台車より遅かった。曲がるところで一度止まり、担当者が先を確かめてから押した。
シラは道を空けた。
いつものように体が動いたことが、ひどく嫌だった。空けた道の先へ、先輩が行ってしまう。
それでも、通路をふさいではいけなかった。
搬送台が艇へ入る。
ラビは両手を前で重ねていた。シラも、どこかへ手を置きたくなったが、置く場所がなかった。
受け取りを確かめる声がして、扉が閉じた。
誰も、立派な別れの言葉を言わなかった。
シラは言えると思っていた言葉を、どれも出せずにいた。
連絡艇が離れるまで、三人はその場に残った。
艦内の表示が接続解除へ変わり、外部映像の艇がゆっくり遠ざかる。
月へ向かう船だった。何度も案内してきた行き先なのに、今日は自分の声を届ける用事がなかった。
*
「食べに行こう」
先に言ったのは、シラだった。
ラビがこちらを見た。
「いま?」
「昼、食べてないから」
おなかは空いていなかった。
それでも、このまま部屋へ戻って横になることだけは、違う気がした。今日、まだ自分で決められる小さいことがあるなら、二人で座る場所へ行きたかった。
「休憩室じゃないところがいい」
ラビが言った。
「昨日と同じ机は、いまは」
「食堂にしよう」
シラは答えた。
隣にいた整備員へ声をかけると、あとから班の人と行くという。シラはうなずいて、先に歩き出した。
食堂には、遅い時間の食事が残っていた。
温めた汁物と、量を少なく盛ってもらった主菜。二人で同じものを受け取る。
空いた席を探したとき、シラは三人で座れる机へ目を向けた。
少し迷い、窓際の二人席を選んだ。
ラビが食器を置き、長い耳を片手で後ろへ寄せた。
今度は自分で、汁物に入る前に気づいていた。
シラは匙を持った。
一口飲んで、少し塩が強いと思った。
昨日は、何を飲んだかさえ分からなかった。いま感じた味を、うれしいと呼ぶには早すぎたが、もう一口なら飲めそうだった。
「熱い?」
ラビが聞いた。
「少し。飲めるよ」
ラビも器を引き寄せた。
二人とも、食事を全部終えられるかは分からなかった。
それでもシラは匙を置かず、もう一度、汁物をすくった。




