第12話 助かった人の声
医療区画の前に、作業服を脱いだ整備員が座っていた。
トウカと一緒に外へ出た人だった。膝に置いた手の甲に、赤い擦れ跡がある。シラが近づくと顔を上げたが、挨拶をする前に目を落とした。
「手は、診てもらいましたか」
シラは尋ねた。
ほかに何を聞けばいいか分からなかった。
「うん。たいしたことない」
整備員は反対の手を重ねた。
「綱、つないだんだ。服に。回転も止めた」
「見ていました」
「すぐ中へ入れられたと思ったんだけど」
言葉が終わらなかった。
シラは、連れてきてくれて、と言いかけた。ありがとう、と続けるつもりだった。
その人は、先輩を助けたかったのだ。戻せたことだけを褒められたら、どんな気がするだろう。
ラビが隣の椅子へ座った。
「二人が中へ入ったの、見てた。扉が閉まるところも」
整備員はうなずいた。
シラも、端の椅子へ腰を下ろした。
何も言わない時間が続いた。誰かが泣き出せば、自分も泣ける気がした。けれど三人とも、手を見たり、廊下を見たりしていた。
扉が開く音に、シラの体が動いた。
いつもの作業着で、先輩が出てくる気がしたのだ。
出てきたのは医療担当だった。
「トウカさんに、会いますか」
シラは、すぐ答えられなかった。
ラビの方を見る。ラビはシラを見ていた。どちらかに先に決めてほしい顔だった。
「行く」
自分の言葉として、シラが言った。
ラビもうなずき、一緒に立った。
*
先輩は寝台に横たわっていた。
作業服は外され、胸から下に布が掛かっている。三毛の頬に、襟が押しつけられていた跡が残っていた。
眠っているようだとは思わなかった。眠る先輩を、シラはそんなによく知らない。
仕事をしているとき、食べ物を選んでいるとき、こちらの返事を待つときの顔なら知っていた。
今の顔は、こちらを待っていなかった。
シラは寝台の横へ行った。
何か言わなければと思う。さっきはちゃんと案内できなくて、とか、道具は戻ってきています、とか。
どれも、今答えてもらう用事ではなかった。
「手、触ってもいいですか」
医療担当へ聞いた。
うなずかれて、布の脇から見えている指へ、自分の指を添えた。
休憩室で本を返した手だった。工具を迷わず選んでいた手でもあった。
シラが触れても、持ち替えたり、握り返したりしない。
そのことを確かめるために来たわけではない。
でも、触れなければ、部屋を出てからまた、先輩が戻るのを待ってしまう気がした。
ラビは反対側で、口を一度開いた。
「先輩」
呼んでから、何も続かなかった。
伏せた耳の先が、寝台の布へ触れそうになり、ラビは両手で押さえた。その動きが普段と同じで、シラは初めて、目の奥が痛くなった。
医療担当は、時間を急がせなかった。
それでも、いつまでここにいればいいのか、シラには分からない。先輩から、もう行って、と言われることもない。
「ラビ」
シラは小さく呼んだ。
ラビが顔を上げる。
「いったん、出よう」
自分もここに残りたいのか、残れないのか、分からないまま言った。
ラビはうなずいた。
二人は寝台から離れ、医療担当へ頭を下げた。扉が閉まる直前、シラはもう一度だけ中を見た。
先輩は、動かなかった。
*
休憩室には、温かい飲み物が用意されていた。
誰が置いてくれたのか、二人とも聞きそびれた。
シラは器を持ち、ラビは机の端に肘をついた。壁の画面には艦内のお知らせが流れていて、艦がどちらへ進んでいるかは分からなかった。
交代の担当から、短い報告が届いた。
通常作業機の一機を回収。もう一機は艦内待機のまま。〇一も帰還を終え、冷却中。
十二人を乗せた避難艇は、母艦と並んで月へ向かっている。
シラは返事をしようとして、救難艇の回線を開いた。
「それ、もう中にいる方」
ラビが言った。
シラは指を止めた。自分で入口へ誘導した艇だ。分かっているのに、手がそちらを選んだ。
「うん。分かってた」
「うん」
ラビは続きを言わず、交代した担当への返事を送った。
怒られないことが、かえって苦しかった。できるはずのことを、できなくなっている。
「二人とも、いま仕事から外れてるんだから」
シラは自分に言うようにつぶやいた。
ラビはうなずき、飲み物へ手を伸ばした。
シラも一口飲んだ。熱さは分かるのに、何の味なのかは、飲み込んでも思い出せなかった。
しばらくして、救難隊との合流が済んだと届いた。
負傷した二人は治療設備のある救難船へ移り、残る十人も乗り換えた。空になった避難艇は、救難隊が曳いていく。
十二人、全員生存。
シラはその行を長く見た。
うれしいはずだった。実際、うれしかった。けれどそのうれしさを、体のどこへ置けばいいか分からなかった。
職員から礼を伝えたいと連絡が来た。
今は話さなくてもいい、と通信担当が添えてくれていた。
シラがラビに聞くと、ラビは少し考え、聞きたい、と言った。
つながったのは、点検窓から爪を見ていた人だった。
『外にいた整備の方が亡くなったと、聞きました』
低い声がした。
シラは器を机へ置いた。
『十二人、全員います。脚を怪我したのも、今は医者に診てもらってる。それを伝えておきたくて』
「はい」
ラビが答えた。
『あの方には、ちゃんと礼を言えなかった』
シラは、外で工具を替えた先輩の姿を思い出した。
「言っていました」
思ったよりはっきり声が出た。
「一つ目が外れたとき、艇から。先輩、聞いていました。そちらは乗る方をお願い、って返して」
回線の向こうで息を吸う音がした。
『そうか。聞こえてたか』
シラはうなずいた。音声だけの相手には見えないので、もう一度、はい、と言った。
それだけは、自分が聞いたこととして伝えられた。
通話が終わると、ラビが額を手に預けた。
「助かって、よかった」
「うん」
シラも言った。
少し間を置いて、ラビが続ける。
「そう言うの、悪いことみたいになるのが嫌だ」
シラは顔を上げた。
ラビの目が赤かった。
「先輩がいないからって、あの人たちまで助からなければよかったなんて、思わない」
「私も思わない」
「でも、全部よかったとは、言えない」
シラは机の上のラビの手へ、自分の手を重ねた。
握り返されると、先ほど寝台の横にいたときのことが、突然戻ってきた。
シラは下を向いた。
こぼれた涙が、袖口から出た手の白い毛へ吸い込まれていった。
*
月の待機軌道へ戻ったあと、二人は短い聞き取りに呼ばれた。
ガルドは大きな会議室を使わず、小さな机を挟んで座った。
いきなり映像を流すことはしなかった。
「覚えている順に、話してほしい。分からないところは、あとで記録と合わせる」
シラは敵の警報から説明しようとして、言葉に詰まった。
警報が先か、画面が変わったのが先か。すぐ前に起きたことなのに、順番がつながらない。
「私が、もっと早く通信腕を見ていたら」
ガルドは手元の記録を閉じた。
「その点も調べる。だが、いま君の見落としだったと決めるのは違う」
「私、帰り道が見えているって言いました」
「そのとき見えていた経路は、記録に残っている。敵弾がどこへ来たか、何を迎撃できたかも調べる」
艦長はすぐに、悪くない、と言ってくれなかった。
シラはそれを望んでいたのかもしれない。言われたら、信じずに言い返すつもりだったのかもしれない。
「作業を続けることも、〇一の位置も、本艦の判断だ。君一人の誘導へ、全部を戻して考えないでくれ」
ガルドの指が、机の上で一度止まった。
「私の命令も含めて、確かめる」
ラビが聞いた。
「次は、同じ場所に救難艇を置かない方がいいですか」
「それを今、即答はできん。近くへ置けば拾いやすい。遠くへ置けば破片を避けやすいが、渡る時間が長くなる。今回の記録を、両方から見る」
シラはうなずいた。
答えはまだない。それでも、何を確かめるのかは分かった。
聞き取りはそこで終わり、二人は休息へ戻された。
*
新しい試験の通知が来たのは、その日の遅い時間だった。
中継所へ出動したとき保留した、中枢形成の試験。
月の待機軌道に戻り、装置の点検と担当者の休息を終えてから、艦長の承認を取り直したとあった。救援中の作業の続きではなく、条件を確認して始める別の一工程だった。
電源を独立させ、供給の揺れが変わるか確かめる。終われば遮断する。
二人に操作の割り当てはなかった。
「いまは読まなくてもいいんだよね」
ラビが言った。
「結果は、あとで確かめれば」
シラはうなずき、端末を伏せた。
それでも、少し前に二機あったなら、と考えてしまった。
あの場所へ存在しなかったものを置いても、先輩は戻らない。分かっていても、頭の中の図だけが勝手に変わった。
しばらくして、試験結果が届いた。
中枢形成を確認。
ラビが先に画面を開き、シラの方へ向けた。
二人で、同じ一行を読んだ。
工程は終了。供給遮断済み。動作未確認。原因はまだ特定できない。
エナの補足も、いつもと同じ言葉で続いていた。
「できたんだ」
シラが言った。
喜べる声は出なかった。
機体が増えれば、次に守れる人がいるかもしれない。それを否定したくはない。けれど今、自分の中にあるものをどかして、そこへ期待を置くことはできなかった。
受信しました、とだけ返した。
ラビが伏せた端末を、シラは起こさなかった。
休憩室の時計が進んでいた。今日が終わるまで、まだ少し時間があった。
二人は同じ机に座り、どちらも先に部屋へ帰ろうとは言わなかった。




