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王宮の招待状に、私の名前は書かれていませんでした  作者: 九葉(くずは)


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第八話 婚約解消

婚約解消の書類は、思ったよりも軽くてうすかった。


中立の応接の卓のうえに置かれていたのは、両家の家紋入りの便箋が二枚、王宮への控え用の写しが一枚、両家の代理人が立ち会いの署名を添える用紙が一枚、合わせて四枚の薄い書面だけだった。


私はその枚数を一度だけ目で数え、それから手のなかの扇を、もう一度握り直した。

扇の骨の感触のほうが、書類よりもずっと重かった。


ジョセフィーヌ様とフィリップ様の侯爵家へのお話し合いから、五日が経っていた。

両家の代理人を介して、婚約解消の手続きが、思っていたよりも早く整っていた。

ベルナール公爵家のほうから、できるだけ穏当な形で、ご令嬢の名誉を損ねない手続きにする、というご意向が示されたためだ。

私とフィリップ様が直接お顔を合わせるのは、本日が三度目だった。




応接にお越しになったのは、ベルナール公爵家から公爵夫人ジョセフィーヌ様とご令息フィリップ様、エルダー侯爵家から父と私。

それから、両家それぞれの代理人と、立ち会いの書記が一人ずつ。


書記は、机の隅で帳面を広げ、本日のお話のすべてを記録するために控えていた。

社交界の慣例として、両家合意による婚約解消の場では、こうした書記が必ず同席する。

書記の筆跡は、王宮儀礼長補佐の控えにもそのまま提出される。

本日この応接で交わされる言葉のひとつひとつが、王宮の記録となって残る。

それを、当事者の私たちは、最初から承知のうえで席に着いていた。


「書類の確認をお願いいたします」


ベルナール家側の代理人が、書類を私のほうへお回しになった。

私は一度ずつ、内容に目を通す。

書面の文言は、両家合意による婚約解消、両家のあいだに財産上の争いはなし、ご令嬢の名誉に関して両家ともに敬意をもって扱う旨、すべて穏当に整えられていた。


「内容に異存はございません」


私はそう申し上げた。

父も、ジョセフィーヌ様も、フィリップ様も、それぞれ短く頷いて同意なさった。




「では、その前に」


ジョセフィーヌ様が、卓に手を添えながら、お顔をご令息のほうへ初めて向けられた。

応接にお入りになって以来、最初にフィリップ様をご覧になった瞬間だった。


「フィリップ、ひとつ、私の言葉として申し上げておきたいことがございます」


フィリップ様は、何もおっしゃらず、母上のお顔をご覧になった。


「あなたが今日、本日この書類で失うのは、ご婚約者ではありません」


夫人のお声は、いつものお落ち着きをそのまま保たれていた。


「私の家の柱の、半分です」


書記の筆が、わずかに早くなった。


「あなたが三年のあいだ、ご令嬢に支えていただいてきた書面、招待状の差配、家政の橋渡し、社交界の挨拶の段取り。それらは、家の柱の半分でございました。私はそれを、母として、ようやく公の場で口にいたします。本日この場で、書記の手で記録されることに、私は同意いたします」


ジョセフィーヌ様は、そう申し上げてから、私のほうへ深く頭を下げてくださった。


「ローズマリー様、申し訳ありませんでした。私の家の名で、本日、改めてお詫び申し上げます」


私はその礼を、座らずにお受けして、同じ深さでお返しした。


書記の筆は、夫人の最後のお言葉まで、一語も漏らさずに記録していた。




署名の段取りは、淡々と進んだ。


ベルナール公爵家側の代理人がまず署名なさり、続いてフィリップ様が筆をお取りになった。

フィリップ様のご署名は、いつものお手で書かれていた。

文字の角度が、ほんの少しだけぶれていた気もしたが、それは私の見間違いだったかもしれない。


次は、私の番だった。

父がうしろから、私の肩に一度だけ手を添えてくださった。

それから、筆をお譲りくださった。


私はインクを取り、自分の名を書面に記した。


エルダー侯爵令嬢ローズマリー。


書き慣れた自分の名前のはずだったのに、最後の文字を書き終えるまで、なぜか少しだけ時間がかかった気がした。

インクが、紙の上で、しばらく乾かなかった。

代理人が、慎重に砂を振りかけてくださる。

それを見届けてから、私は筆を置いた。


最後にエルダー侯爵家側の代理人と立ち会いの書記が署名し、両家分の控えがそれぞれ揃った。


「これにて、本日の手続きを終了いたします」


代理人がそう告げた。


その時だった。


フィリップ様が、自分の署名されたばかりの書面を、手元にお引き寄せになった。

そして、書面に目を落としたまま、低くおっしゃった。


「ローズマリー」


その呼びかけが、もう、ご婚約者へのものではなくなったことを、私は声の落ち方で感じた。


「君は本当に、戻らないのか」


書記の筆が、すぐにその言葉を書き留めた。

両家代理人は、誰も口を挟まなかった。

ジョセフィーヌ様も、何もおっしゃらなかった。


私は、フィリップ様の手元の書面と、それを書き留める書記の筆を、一度ずつ見た。

それから、卓のうえに、一冊の薄い帳面を、静かに置いた。




「フィリップ様」


私はそうお呼びした。


「これは、過去三年分の、お家の贈答記録の写しでございます。私が手元で控えとして整理しておりましたものの、すべてです」


帳面は、丁寧に綴じられていた。

私が三年のあいだ、ベルナール公爵家のためにつけていた、ご家族へのご贈答の記録。

ソフィ様のお誕生日の薔薇から、王家への節目のご贈答まで、年に四度の節目ごとの記録のすべて。


「これはご家族の品にまつわる記録ですから、お返しいたします」


私は、それだけ申し上げた。


フィリップ様は、帳面に手をお伸ばしになって、開きかけて、そして開ききらないままお閉じになった。


「君は……」


そこで、お声が途切れた。


書記の筆が、もう一度、その途切れまでをきちんと書き留めた。


私は何も申し上げなかった。

書面に目を落とし、扇を畳む手の動きが、自分でも分かるほど静かだった。




応接を辞する馬車のなかで、父は窓の外をご覧になりながら、お短くお尋ねになった。


「戻る道も、まだあるぞ。お前が望むなら」


私は左手のなかに、銀の婚約指輪を握っていた。

応接の場で書類のうえの手続きを終えたあと、家紋入りの品物のお返しは、後日、両家の代理人のあいだで進めることになっていた。それまで、この指輪は侯爵家でお預かりする。

私はそれを、最後の一瞬まで手元に置いていた。

それを、父の手のなかにそっと預けた。


「戻りません」


そう申し上げた。


父はその指輪を、ご自身のお手のなかでひと呼吸だけ握り、それから上着の内側のお胸にしまわれた。


「分かった」


それだけだった。

父はそれ以上のことを、何もお尋ねにならなかった。


馬車が侯爵家の前で停まる頃には、午後の光がすでに傾き始めていた。




書斎へ戻ると、机のうえに、王宮からの書面が一通、置かれていた。


封蝋は王宮のもの。

父がご一緒に開封してくださった。


招待状だった。

表題には、秋の王宮夜会のご招待、と書かれている。


宛名は、エルダー侯爵令嬢ローズマリー様。

それだけが、丁寧な筆跡で、書面の中央に書かれていた。

公爵家のお名前は、どこにもなかった。

同伴のお名前も、書かれていなかった。


「秋まで、まだ時間があるな」


父が短くおっしゃった。


私は書面のうえの、自分の名前を、もう一度ゆっくりと目でなぞった。

四ヶ月のあいだに、私はこの招待状にお応えするだけの自分を、もう一度組み直していくことになる。

焦る必要はなかった。

それだけの時間を、王宮のほうで見込んでくださっていたのだ、ということが、書面の余白から伝わった。


書面の右下の隅に、小さな筆跡が見えた。

サン=クレール伯爵閣下のご署名だった。

ご署名のうえに、いつもの徽章の判が、丁寧に押されていた。

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