第七話 線を引く
「怒っているのではありません。決めたのです」
そのひと言を、私はその日の朝、自分の鏡の前で、何度か口にしてみていた。
何度言っても、声は震えなかった。
公爵夫人と公爵令息のご来訪のお知らせは、前日のうちに侯爵家へ届いていた。
ジョセフィーヌ様ご自身からの直筆のお手紙で、ご令息様と二人でお伺いしたい、と書かれていた。
父はそのお手紙をご覧になり、両家の話し合いとして、私と母の同席のもとで応接を開く、とお決めになった。
書面には「ご婚約に関わる」というひと言だけが添えられていた。
私はそれをどう受け取るべきか、迷う必要はなかった。
前日のフィリップ様のご来訪のあと、私は父の書斎で、半時間ほどお話をしていた。
ベルナール公爵家の書類に、もう手を入れないと申し上げたこと。
書記の口から「以前は、ご婚約者様がいつも整えてくださっていました」というお言葉が出たこと。
そして、書面のうえでの仕事と、婚約者としての役割を、ずっと混同されてきたこと。
父は何度かお頷きになり、最後にひとつだけ、お聞きになった。
「お前は、戻りたいのか」
私は短くお答えした。
「戻りたくは、ございません」
父はそれ以上、何もお聞きにならなかった。
私は書斎の扉を閉める前に、もう一度だけ振り返った。
父は机のうえに両手を重ねて、何かをお考えになっているご様子だった。
そのお手の重ね方が、いつもより、少しだけ深かった。
正午すぎ、公爵家の馬車が侯爵家の玄関に着いた。
私は母と並んで、玄関ホールでお迎えした。
ジョセフィーヌ様は、いつもより控えめなお召し物をお選びになっていた。
派手な装飾のついていない、深い藍のドレス。
フィリップ様は、母上の半歩うしろを控えるようにお歩きになっていた。
そのお歩き方が、いつもとは違っていた。
「お招きありがとう存じます」
ジョセフィーヌ様は、玄関で、わずかにお辞儀をなさった。
父も母も、同じ深さでお返しした。
それから、応接へお通しした。
応接の卓には、四人分の茶器が用意されていた。
私の分はなかった。
私は当事者として、末席で立ち会う形だった。母の隣に控える。
茶が注がれた。
誰も、最初の一口をお取りにならなかった。
「本日は、ご令息のお話と、私のお話を、両方お伝えしたく参りました」
ジョセフィーヌ様が、最初に切り出された。
お声は静かで、いつもの威厳をそのまま保たれていた。
ただ、ジョセフィーヌ様は、応接にお入りになってから、一度もフィリップ様の方をご覧になっていなかった。
「フィリップ、まずあなたから」
フィリップ様は、母上にご指名され、一拍だけ呼吸を整えてからお話を始められた。
「ローズマリー、ご令嬢、エルダー侯爵閣下、お時間を頂戴し、ありがとう存じます」
そう前置きされたあと、フィリップ様は、ご自身のお気持ちを、長くお話しになった。
三年のあいだ、私に支えていただいてきたこと。
書面のうえだけでなく、母上との橋渡しや、社交界でのご令嬢方への挨拶の手配でも、私の働きに頼ってきたこと。
ソフィ様を引き取った経緯について、ご自身がずっと「家族として守らなければ」と思いつめてきたこと。
そのために、ご婚約者である私への配慮が、いつのまにか後回しになっていたこと。
フィリップ様は、ご自分のお言葉で、それを認めてくださった。
「だから、私はもう一度、あなたとの婚約を続けたいのです」
フィリップ様はそうおっしゃった。
「席順を改めます。贈答のことも、ソフィへの扱いも、すべて改めます。母上ともご相談しております。どうか、もう一度だけ、機会を頂きたい」
そこまでおっしゃって、フィリップ様は深く頭を下げられた。
お声は、震えてはおられなかった。
ただ、卓のうえの紅茶のお湯気が、もう完全に消えてしまっていた。
私は何も申し上げなかった。
「フィリップ」
ジョセフィーヌ様が、ご令息のお名前を、静かにお呼びになった。
「ここからは、息子の言葉ではなく、私の言葉でお話しさせてください」
夫人はそうおっしゃり、ご自身が深くお辞儀をなさった。
「私の家は、長く、あなたに支えていただいてまいりました。書面でも、社交でも、家の内側でも。お礼を申し上げる機会を、私は、息子に任せ続けてしまっておりました。私からも、本日、改めてお礼を申し上げます」
夫人はそのまま、お顔をお上げにならなかった。
「そして、ローズマリー様、もしあなたが今日、お決めになったお返事が、私の家の望みと違うものであっても、私はあなたのお決定を、母として、最も尊いものとしてお受けいたします」
私はその時、夫人のお背中の向こうに、公爵家の老侍女が一人、玄関先のホールの隅に立っていらしたことに気づいた。
お見送りに同行されてきた方だったのだろう。
夫人がお辞儀をなさる姿を、その方は、目をそらさずに見ていた。
私は立ち上がった。
末席からのお返事だ。
深く礼をして、それから、顔を上げた。
「フィリップ様、ジョセフィーヌ様、お父様、お母様」
順番に、お名前をお呼びした。
「怒っているのではありません。決めたのです」
応接の中の音が、しばらく止まったように感じられた。
「フィリップ様、お言葉を頂戴いたしました。三年のあいだのお仕事を、あなた様のお口からお認めくださり、ありがとう存じます。けれど、お席や贈答を改めてくださるのは、あなた様のお家のご当主としてのお務めでございます。私の婚約者としての役割とは、別のものでございます」
私はわずかに息を整えた。
「私は、あなた様の婚約者を、降ろさせていただきとう存じます」
フィリップ様のお顔を、私は見た。
表情は、固まっていらした。
怒りではなかった。理解しきれない、というご様子だった。
「ジョセフィーヌ様。私がご婚約者として、お家の柱の半分でもお支えできていたとすれば、それは夫人の温かいご配慮のお陰でございました。お礼を申し上げます。私は今、お家を出る決断をいたしますが、夫人への敬意は、これからも変わりません」
ジョセフィーヌ様は、まだお顔を伏せたままでいらした。
ほんの少しだけ、お肩がふるえた気がした。
父が、静かにおっしゃった。
「決めるのは、お前だ」
それは、私の決定を、父が承認してくださるお言葉だった。
公爵家の馬車が侯爵家を発ったのは、それから一時間ほどあとのことだった。
私と父は、書斎へ戻った。
夕方、王宮の使者が一人、侯爵家へ書面を届けてきた。
封蝋は王宮儀礼長補佐のもの。
父が私の目の前で、その書面を開封なさった。
書面の表題には、儀礼上の保護書面、とあった。
本文の内容は、ベルナール公爵家との婚約に関し、ご令嬢の名誉と、エルダー侯爵家のお立場を、儀礼上、王宮としてお見守りする旨が、丁寧に書き連ねられていた。
法的な強制力はない、とただし書きが添えられていた。
ただ、王宮の見立てを社交界にお示しする、公的な書面である、と最後に明記されていた。
父はその書面を、もう一度、私のほうへ向けてくださった。
「これは、王宮がお前の立場を見ていることの証だ」
父のお声には、いつものお落ち着きが戻っていた。
書面の右下に、サン=クレール伯爵閣下の署名が、丁寧な筆跡で記されていた。
その筆跡を、私はしばらく目で追っていた。




