第六話 贈答記録の不備
公爵家へ届いた王宮からの照会書には、二年分の贈答記録の差し戻しが求められていた。
私がそのことを知ったのは、王宮からの正式な書面ではない。
サン=クレール邸の応接で、サン=クレール伯爵様から、業務上の礼として静かに伝えられたのだ。
王妃陛下のお茶会の差配をお引き受けしてから、二週間が過ぎていた。
打ち合わせのためにサン=クレール邸へ伺うのは、その日が三度目だった。
通された応接の卓には、王妃陛下のお茶会の年間予定表と、差配上の留意事項を整理した書面が、丁寧に並べられていた。
仕事のお話の合間、伯爵様はカップを置きながら、ふと話を切り替えてくださった。
「業務外のお話を、ひとつだけお伝えしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「本日、王宮儀礼長補佐の名で、ベルナール公爵家へ照会書を発出いたしました」
私は手元のカップを、卓に戻した。
「過去二年分の、王家への贈答記録の差し戻しをお願いする内容です。記録の不備が複数発覚いたしました。同じ書面の中で、不備が累積三件に達した場合、儀礼上の事前点検対象として通達することになっている旨も、改めてお知らせしております」
伯爵様のお声は、いつものように低く静かだった。
公的な業務のご説明として、形式どおりだった。
「あなた様にこのお話をお伝えしておくのは、儀礼長補佐としての立場ではございません」
伯爵様は、わずかに視線を伏せられた。
「公爵家への通達は、王宮の制度の動きでございます。私情ではない、ということを、あなた様に、お伝えしておきたかったのです」
「ご丁寧に、ありがとう存じます」
私はそうお返事申し上げた。
紅茶の表面が、わずかに揺れていた。
侯爵家へ戻る馬車のなかで、私は窓の外を見ていた。
王家への贈答記録というのは、貴族家が王宮に対して年に四度の節目で送る記念の品の一覧と、その家紋入りの記録のことだ。
公爵家ともなれば、年間の品数は多い。
私はその記録を、フィリップ様が「君なら整えてくれるだろう」とおっしゃるたびに、書面の体裁を整え、王家へお届けする手前まで仕上げてきた。
最後にお手伝いをしたのは、半年前の冬の節目だった。
あれ以降、私はベルナール家の書面に手を入れていない。
整えてきた書面の中身は、おそらくきちんと残っているはずだ。
ただ、私が触らなくなってからの記録に、何が起きているのかは、私には分からない。
伯爵様がおっしゃった「複数の不備」が、いつから累積しているものなのかも、私には知るすべがなかった。
馬車の振動を背中で受けながら、私はひとつだけ考えていた。
公爵家から、おそらく、お話があるだろう。
その日の午後、ベルナール公爵家から、ご令息ご自身がご来訪なさるという先触れが届いた。
父は短く頷き、私に応接でお会いするように、と告げてくださった。
応接でお目にかかったフィリップ様は、いつもの穏やかな笑みをお持ちにならなかった。
顔の血色がいくらか悪く、両手の指先が、ご自身で組み直されることなく、卓の縁に置かれていた。
「急に伺って、申し訳ない」
「いいえ。お茶をご用意いたします」
「いや、それはいい」
フィリップ様は、お茶を辞退なさった。
それで、私は今日のお話が、いつもより重いのだと察した。
「王宮から、照会書が届いた」
フィリップ様は、その一文を、いつもより少し早口でおっしゃった。
「二年分の贈答記録の差し戻しを求められている。書記長が、二日かけても整理しきれず、母上の前で泣きそうな顔をしていた」
私は何も申し上げず、お話を伺った。
「うちの書記が、こんなことを言うんだ。以前は、ご婚約者様がいつも整えてくださっていました、と」
書記の口から出た言葉を、私は手元の組んだ指のあいだで、もう一度だけ確かめた。
ご婚約者様、と。
奥様、ではなかった。
ジョセフィーヌ様が家の中の呼称をきちんと正してくださっていた成果が、こんなところに出ていた。
「ローズマリー、もしよければ、過去二年分のうちのいくつかだけでも、整理を手伝ってくれないだろうか」
フィリップ様はそうおっしゃった。
口調は、お願いというより、すでに承知の上で求めるお声だった。
「あなたなら、書面の体裁を一目で整えることができる。あなたが少し手を貸してくださるだけで、書記長が立て直せる。母上も、君を頼りにしている」
私は、しばらく卓の縁に目を落としていた。
「フィリップ様」
私は静かに申し上げた。
「私はもう、公爵家の書類には触れません」
フィリップ様の指が、卓の縁の上で一度だけ、こわばった。
「ローズマリー」
「お話のなかで、私がいつもお助けをしてきたとお認めくださり、ありがとう存じます。お手伝いの労を、書面のうえで王宮もご覧になっていたと、本日、別のところからお伺いいたしました」
私はわずかに息を整えた。
「ですから、書面のうえでのお手伝いは、もう、私のお仕事ではないのだと存じます。私が手を貸さずとも、家の書記の方々が立て直せるよう、家のなかでお話を進めてくださいませ」
フィリップ様は、何度かお口を開きかけ、けれど言葉にはなさらなかった。
「君は、私を見放すのか」
「見放すのではありません。お手伝いを、もうお引き受けしない、というだけのことでございます」
「だが、それは……」
「フィリップ様」
私はもう一度、静かにそのお名前をお呼びした。
「私はあなた様のお家の書記ではございません。私はあなた様のご婚約者です」
そう申し上げてから、私は自分の声の落ち着きを、自分でも少しだけ意外に思った。
怒っているのではなかった。
ただ、本来あった線を、本来の位置へ戻しただけだった。
フィリップ様は、応接を辞される前に、玄関の三段下のところで、もう一度だけ振り返られた。
「ローズマリー」
声は低かった。
「君は、本当に分かってくれないのか」
私は何も申し上げなかった。
代わりに、深く礼をした。
フィリップ様は、それ以上のお言葉を、おっしゃらないままお帰りになった。
馬車の車輪が砂利を踏む音が、玄関の扉の向こうで、長く続いていた。
私は扉が閉まってから、ようやく深く息を吸った。
胸の奥で何かが軋んだのではなかった。
置きたいところに置きたかったものを、ようやく置けた、そんな感覚に近かったのかもしれない。




