第九話 招待状が減る
社交界の招待状の山が、ベルナール公爵家でだけ薄くなり始めていた。
その話を、私は父の書斎で、最初に聞いた。
婚約解消から、ちょうど一ヶ月が経つ頃のことだった。
「ベルナール家の使用人が、最近、出入りの少なさをこぼしているそうだ」
父はそうおっしゃった。
父のお手元には、社交界の動きを記した、簡単な覚え書きの紙が一枚あった。
「夏の終わりの夜会への招待状を、いくつかの家が、辞退している。理由は、いずれも先約のため、と書かれているそうだ」
社交界では、欠席の理由を書く際に「先約のため」と書くのは、丁寧な辞退の合図だ。
本当の先約があるかどうかとは、別の問題だった。
「公爵家のほうから、何かおっしゃってきていますか」
「いや。ジョセフィーヌ様からのお手紙が、二度ほど届いている。お前への謝意のお気持ちが添えられているだけだ」
父はそのお手紙を、私に見せてくださった。
ジョセフィーヌ様のお手で書かれたお便りは、いつものお筆跡そのままだった。
内容は、お礼と、お詫びと、私の今後のご活躍をお祈りする旨だけが、控えめに記されていた。
私は手紙を読み終えて、卓に戻した。
そのお手紙のなかには、ご家族のことも、ソフィ様のことも、何も書かれていなかった。
王宮への打ち合わせは、その翌週に控えていた。
朝、王宮へ伺う前に、私は侯爵家の庭に出てみた。
夏の中ばの花が、まだいくつか咲いていた。
庭師が、枯れた花の根元の土を、長靴の先で軽く均していた。
私はその様子を、しばらく窓辺で見ていた。
それから着替えに戻った。
昨年までは、こうした朝に、公爵家からの伝言や、書記長からの相談事のお手紙が届いていた。
今朝は、ただの朝だった。
王妃陛下のお茶会の年間の差配を引き受けてから、私は週に一度、サン=クレール邸または王宮の控えの間で、伯爵様と仕事のお話をすることになっていた。
その日、伯爵様は、机のうえに新しい書面を一通だけ置いていらした。
「業務外のお話を、もう一度、申し上げてもよろしいですか」
伯爵様がそう前置きされる時のお声を、私はもう何度か聞いていた。
ご私情ではない、と申し上げるための合図だった。
「どうぞ」
「本日、王宮儀礼長補佐の名で、ベルナール公爵家への事前点検通達を、正式に発出いたしました」
私は伯爵様のお顔を見た。
伯爵様は、お顔をお伏せにならなかった。
「累積三件の基準を超えました。宛名漏れが三度、これに贈答記録の不備が加わったかたちでございます。制度として、避けようのない措置でございました」
伯爵様のお声は、いつも通りに低く静かだった。
「向こう一年のあいだ、公爵家が発出される招待状と贈答書面のすべては、王宮儀礼長補佐の事前確認を経たのちに、お届けされることになります」
「承知いたしました」
私はそう申し上げた。
それ以上、何を申し上げるべきなのか、すぐには言葉が出てこなかった。
伯爵様は、控えの間の窓のほうへ、わずかに視線を向けられた。
「あなた様にお伝えしておきたいのは、これは王宮の制度の動きであって、私情ではない、ということだけでございます。あなた様が望んでお求めになったことではない、と王宮も承知しております」
「ご丁寧に、ありがとう存じます」
私はそうお返しした。
王妃陛下のお茶会の差配の打ち合わせのなかで、その夏、私はナルディエ伯爵未亡人とロワール侯爵未亡人のお席に、何度か同席する機会を頂いた。
夫人方は、私のことを「ローズマリー様」とお呼びくださるようになっていた。
婚約解消の事実が、王宮の控えを経て、社交界の上位の方々のお耳には穏当に届いていた。
それでも、夫人方の口調は、何ひとつ変わらなかった。
「ローズマリー様、ひとつ、お耳に入れておきましょうね」
ナルディエ伯爵未亡人が、お扇の陰でお声を落としてくださった。
「貴婦人会のなかで、ある若いご令嬢が、こう申されたのですよ。王妃陛下のご信任を頂いたローズマリー様と、儀礼長補佐の事前点検対象になられた公爵家、どちらのお招きにお伺いするのが家のためになるかは、もはや申し上げるまでもありませんわ、と」
夫人はそうおっしゃってから、ロワール侯爵未亡人と顔を見合わせて、お互いに小さく頷かれた。
「貴婦人会の若いご令嬢方が、ご自分でそうおっしゃるようになりますとね、流れというものは、もう、止まりませんのよ」
私は何も申し上げず、紅茶を口にした。
今度の紅茶は、湯気がしっかりと立っていた。
夫人方は、それ以上のお話はなさらなかった。
数日後、ジョセフィーヌ様から、私宛にお手紙が届いた。
これまでとは、少し違う書き出しのお手紙だった。
ローズマリー様、本日は、ひとつだけお伝えしておきたいことがあって、お筆をお取り申し上げました。
そのように始まっていた。
ソフィ様のご社交デビューが、先日、公爵邸で催された。
ご招待状を差し上げた半数以上のお家から、欠席のお返事が届いた。
ご出席者の数は、当初の予定の半分にも満たなかった。
会場の空席が、想像していたよりも、はるかに目立った。
そう、お手紙にはお書きになっていた。
デビューの夕べののち、ソフィ様がご自分で控えの間にお越しになり、ジョセフィーヌ様にこうお尋ねになったそうだ。
「お母様、わたくしは、何を間違えたのでしょうか」
ジョセフィーヌ様は、お手紙のなかで、ご自身のお返事をそのままお書きになっていた。
「あなたは、間違えたのではありません。守られすぎたのです」
そのあと、ジョセフィーヌ様は、その夜のうちにフィリップ様もお呼びになり、もう一度だけお伝えになったそうだ。
これがあなたの選んだ家の姿です。
あなたが失ったのは、ご婚約者ではありません。
その一文を読み終えて、私はお手紙をいったん卓のうえに置いた。
窓の外で、夏の終わりの蝉の声が、まだ続いていた。
私は短いお礼のお返事だけを、お書き申し上げた。
ご令息やソフィ様のことには、お触れしなかった。
ジョセフィーヌ様も、おそらく、それをお望みではなかったと思う。
夏が終わる頃、私は秋の王宮夜会の準備のために、王宮の大広間へ伺った。
席次表、招待状の宛名の最終確認、入場の順序、王妃陛下のお茶会のお席との重なりの調整。
私が二年前まで陰で差配していたのと、同じ仕事だった。
ただ今回は、私の名で、私の差配として、正式に進める仕事だった。
机の向こうで、伯爵様が一枚の席次表を私のほうへお回しになった。
「こちらでお間違えはございませんか」
伯爵様がお尋ねになった。
私は席次表に目を通し、それから、自分でも気づかないうちに、その方のほうへ顔を向けていた。
「ガブリエル様」
そう呼びかけたあとで、私は自分の声に少し驚いた。
ガブリエル様も、わずかに目を伏せられた。
それから、ふたたび顔をお上げになり、短くお頷きになった。
「はい」
それだけだった。
それ以上のことは、お互いに何も申し上げなかった。
私は席次表に小さな印をつけ、お手元の書類の山へ戻した。
王宮の大広間の入り口の方から、足音がした。
「エルダー侯爵令嬢」
第二王子レイモンド殿下だった。
本日は、秋の夜会の準備のご視察として、お立ち寄りくださったご様子だった。
「ご準備、お疲れさまでございます」
殿下は短くおっしゃってから、私と伯爵様の両方に向かって、お話をお続けになった。
「秋の夜会のなかで、母上から、あなたに正式にお話があるそうです」
殿下のお声は穏やかで、その先のことを、すぐにはおっしゃらなかった。
ただ、殿下の口の端に、ほんの少しだけ笑みのお気配があった気がした。
私は深く礼をした。
伯爵様も、同じ深さで礼をなさった。
大広間の高い窓から、夏の終わりの光が、ゆっくりと斜めに差し込んでいた。




