第三話 サロンの空席
公爵邸のサロンで、私の席は隣ではなく三席目に用意されていた。
入り口で案内係が示した席順表を、私はもう一度見直した。
円卓の上座から、フィリップ様、ソフィ様、そして私。
公爵夫人ジョセフィーヌ様は、私の向かいの席だった。
「こちらでございます」
案内係はそれ以上の説明を加えなかった。
彼の声は、どこか抑えた響きだった。
サロンに入ると、すでにフィリップ様とソフィ様が並んで着席されていた。
ソフィ様の席の前に、白い薔薇が一輪、細い銀の花瓶に挿して置かれている。
私の席の前には、何もなかった。
卓布の上に、ただ茶器がひとそろい置かれているだけだ。
「ローズマリー、よく来てくれた」
フィリップ様がいつもの口調で迎えてくださった。
ソフィ様も、頬を染めるようにして、わずかに頭を下げる。
「ご無沙汰しております。お招きありがとう存じます」
私は短く申し上げ、三席目に腰を下ろした。
椅子の脚が、卓の縁から少しずれている気がした。
案内係はその位置のまま、私の座席を整えた。私はそれを直さなかった。
月例のサロンは、公爵家の身内と、ごく親しい知人だけが集う席だった。
今日は知人のお名前は見えず、円卓には公爵家の三人と私の四人だけだった。
ジョセフィーヌ様は、まだお越しになっていない。
「ローズマリー、聞いてくださる」
ソフィ様が、椅子の上で身を傾けるようにして、私のほうへ声を掛けてこられた。
「お兄様が、私のために薔薇を選んでくださったの。北の温室から取り寄せたものですって」
ソフィ様の声は明るかった。悪気は本当にない、と私は思う。
彼女は十年前にこの家へ引き取られてから、ずっとこの家の中で「特別」として育てられてきた。
それが、ご本人にとっては愛情の証なのだ。
「綺麗な薔薇ですわね」
私はそう申し上げた。心からの感想だった。
白い薔薇は、たしかに美しかった。
フィリップ様が、ソフィ様にだけ聞こえる声で何かをおっしゃった。
ソフィ様の頬がいっそう赤くなり、扇の陰で小さく笑われた。
私は紅茶のカップに目を落とした。
湯気はまだ立っていた。今度の茶は、冷めていないらしかった。
サロンの戸が、再び静かに開いた。
「お遅れして、申し訳ありません」
ジョセフィーヌ様が入っていらした。
すぐにはお席に着かれず、円卓の縁に手を添えて、ひと目で席順をご覧になった。
そのひと目だった。
「シャルル」
夫人が、控えていた執事に短くお呼びかけになった。
「はい、奥様」
「ご婚約者様のお席は、ここではありません」
夫人のお声は、いつもより、わずかに低かった。
怒鳴り声ではない。けれど、サロンの空気が、別の方向にひと回転したのが分かった。
シャルルと呼ばれた執事は、深く頭を下げ、すぐに席順表を確認し、案内係を呼んだ。
「席を組み直しなさい。ご婚約者様のお席は、フィリップ様のお隣でございます」
案内係は何も申し上げず、ただ礼をして、私の椅子に手を添えた。
私は立ち上がり、フィリップ様の隣の席へ移動する。
そこには、新しい茶器が運ばれてきた。
ソフィ様の前の薔薇は、そのままだった。
ソフィ様は、頬の赤みが引いていた。
代わりに、目元がほんの少しだけ伏せられた。
ばつが悪いというより、自分が何を間違えたのか分からない、そういう表情だった。
フィリップ様は、母上の振る舞いに、戸惑いを隠さなかった。
「母上、これは……」
「フィリップ」
ジョセフィーヌ様が、ご子息のお名前を、短くお呼びになった。
「席順とは、家の格をお示しするものです。誰が誰の隣に座るかは、家の意思の表れです。お忘れにならないように」
「分かっております」
「分かっておいでなら、結構です」
夫人はそれ以上はおっしゃらず、ご自身の席にお着きになった。
円卓は、ふたたび静けさを取り戻した。けれど、その静けさの質は、先ほどまでとは違っていた。
茶会の終わりに、私は控えの間で外套を受け取った。
案内係の女性が、丁寧に肩へ掛けてくれる。
廊下の奥から、ジョセフィーヌ様のお声が、わずかに聞こえてきた。
夫人がシャルルに、低くお話しになっている。
「家の中での呼称の徹底を、改めて全員に。あれは、先日のことが二度目です」
「承知いたしました、奥様」
「使用人の口は、家の格そのものです。ご婚約者様への呼称が崩れることは、私の家が崩れることに等しい。執事として、もう一度、皆に伝えてください」
「肝に銘じます」
私は外套のボタンを留めながら、それを聞いていた。
聞かないようにする努力もしなかった。
ジョセフィーヌ様は、おそらく私の足音を聞いていて、わざとそのお声を私の耳に届くようになさったのだと思う。
廊下に出ると、夫人と目が合った。
夫人は何もおっしゃらず、ただ一度、深く目礼をなさった。
私も同じ深さで礼を返した。
それ以上の言葉は、お互いに不要だった。
侯爵家へ戻ると、玄関で執事から、父が書斎でお待ちであると伝えられた。
書斎の扉を開けると、父は書面を一枚、机の上に置いてご覧になっていた。
封蝋は、もう開かれている。
「お帰り、ローズマリー」
「ただいま戻りました」
「サン=クレール伯爵閣下から、書面が届いておった」
父は私にその書面を見せてくださった。
形式は、儀礼上のごく丁寧な挨拶状だった。
先日の春の茶会へお越しいただいたことへのお礼と、エルダー侯爵家のご令嬢のご出席に対する敬意。
それから、王宮儀礼長補佐としての職務上、今後何か社交儀礼の場で不明な点があれば、いつでもお問い合わせいただきたい、という一文。
書面の文面は、公的な定型の中におさまっていた。
けれど、ふつう、こうした挨拶状は、お招きの礼を返すなら宛先の家の当主にしか出さないものだ。
今回の宛先は、エルダー侯爵閣下、と書かれていた。
そして、文面の中で、私の名が二度、丁寧に挙げられていた。
父はしばらく書面に目を落としてから、私のほうを見上げて短くおっしゃった。
「サン=クレール伯爵閣下は、お前の仕事を見ていたようだ」
私は何と答えるべきか分からなかった。
父も、それ以上のことはお口になさらなかった。
書面を封筒に戻しながら、父はもう一度小さく頷いた。
その頷きの中に、いつもとは違う重みがあった気がした。
私はその夜、いつもよりも少し早く床に就いた。
窓の外で、春の風が、まだ少し冷たいまま吹いていた。




