第二話 別の茶会へ
サン=クレール邸の控えの間には、私の名前が書かれた席札が一枚、きちんと用意されていた。
「エルダー侯爵令嬢様」
深い藍の地に銀の文字で、それだけが記されている。
案内係の女性が席札を私の前に差し出し、いつものように深く礼をした。
彼女が顔を上げ、私が答えるまでに、思っていたよりも一拍長い間ができた。
ありがとう、と申し上げて、私は席札を受け取った。
紙の縁が、丁寧に角を落としてある。雑に切り出した品ではない。
サン=クレール邸へ伺うのは、今日が初めてではなかった。
父が二年ほど前に一度、家督相続のお祝いに伺った折、私もご挨拶のために同行している。
父と、当時のサン=クレール家の方々と、形式どおりに茶を喫しただけの短い訪問だった。
その後、邸はしばらく喪に服され、社交の場としてはお名前を聞かなくなっていた。
控えの間の壁には、北方の風景画が静かに掛けられている。
冬の山稜と、雪の薄い谷。喪のあいだに掛け替えられたものかもしれないと、ふと思った。
王宮の春の茶会への欠席の返書を出してから、十日ほどが過ぎていた。
父が、その日のうちに書棚からサン=クレール邸の春の茶会への招待状を取り出してきた。
ずいぶん前に届いていたものを、私は王宮の招待状の処理に追われ、お返事を保留にしていたのだ。
その招待状の宛名は、エルダー侯爵令嬢ローズマリー様、とはっきり書かれていた。
茶会の会場は、邸の南向きの広間だった。
窓の外は手入れの行き届いた庭で、まだ寒さの残る空気の中に、椿の蕾がいくつか開きかけている。
円卓に着くと、私の隣の隣にあたる席に、年配の貴婦人がいらした。
ナルディエ伯爵未亡人と申し上げる方で、長く貴婦人会の幹事を務めていらした方だ。
夫人は私を見るなり、扇の上から少しだけ目元を緩めてくださった。
「お嬢様、お久しぶりですわね」
「ご無沙汰しております」
「あなたが二年前の王宮春の茶会で席を整えてくださった折のことは、今でも貴婦人会で話に上りますのよ。北方の招待客の方々を、あれほど自然に挨拶の輪へ導けるご令嬢は、なかなかいらっしゃいませんもの」
私は何と答えるべきか、すぐには言葉が出てこなかった。
あの時の差配は、公爵家の名で出していた。私の名が表に出ることはなかったし、それが社交界の通例だった。
それを、夫人は覚えていてくださった。
「お言葉を頂戴し、ありがとう存じます」
私は短く申し上げた。声が思ったより、わずかに低くなった。
ナルディエ伯爵未亡人は何もおっしゃらず、ただゆっくりと頷かれた。
その時、広間の入り口に、ホストである方が姿を見せられた。
「ようこそお越しくださいました」
低く、よく通る声だった。
「サン=クレール伯爵家当主、ガブリエルと申します。父の喪が明け、こうして家として茶会を開ける運びとなりました。皆様のお越しを、心よりお礼申し上げます」
二年前にお目にかかった折、サン=クレール伯爵様はまだ次期当主のお立場でいらした。
今は伯爵家の当主であり、お聞きするところでは、王宮儀礼長補佐をお務めとのことだった。
伯爵様の上着の袖口に、銀の小さな徽章が見えた。
細い銀の蔓が一周している意匠で、王宮儀礼の控えを所管される方の証であると、父から以前に聞いたことがある。
ご挨拶の最中、伯爵様の視線が一度だけ、私の席に止まった。
本当に一度だけだった。挨拶のお声を切らせるほど長くもなく、けれど形式の中で完全に流される短さでもない、ちょうどその間だった。
茶会のあと、私はナルディエ伯爵未亡人に伴われて庭へ案内された。
椿の蕾の咲きかけを、間近で見せたいとおっしゃってくださったのだ。
庭の四阿で、夫人は侍女に下がるよう合図をなさり、それから私に小さく微笑まれた。
「あちらでお話があるそうですよ。私は先に戻っておりますね」
夫人がご覧になった方向に、サン=クレール伯爵様が一人で立っていらした。
扇を畳んだ夫人が、私の前を静かに通り過ぎていかれる。
私はもう一度、その意味を確かめるように、四阿へ歩を進めた。
「お時間を頂戴して、申し訳ありません」
サン=クレール伯爵様が、先に軽くお辞儀をされた。
「いえ、こちらこそ。ご招待のお返事を長くお待たせし、失礼をいたしました」
「お父上から事情を承っております」
伯爵様は懐から、薄い書面を取り出された。封蝋の色は王宮のものだった。
「お預けする立場にはありませんが、これは王宮儀礼の控えの写しです。本日は、ひと目だけ、ご確認いただけますか」
私は両手で書面をお受けした。
表書きに、王宮春の茶会の招待状の控え、と記されている。
ご招待の年は、三年前のものだった。
宛名はベルナール公爵令息ご一行様、と書かれ、その下に、添え書きとして「エルダー侯爵令嬢ローズマリー嬢同伴」と、後から加えられた筆跡があった。
「三年前、お招きの宛名に、あなた様のお名前がございませんでした」
伯爵様が静かに続けられた。
「儀礼の控えとして、王宮の側で添え書きをいたしました。お名前を補い、公爵家へ宛名の確認をお願いする通達を、別に発出いたしております。本日お見せできるのは、これまでの過去三回分の控えでございます。今回のお招きの控えは、まだ修正の手続きの途中にございます」
書面をめくると、似た添え書きがもう二枚あった。
一年前、半年前。私が黙って内輪で処理してきた、あの三度の宛名漏れだ。
そのすべてに、王宮側で添え書きが入り、公爵家へ通達が出されていた。
私はしばらく、何も申し上げられなかった。
書面の紙の薄さが、不思議と手のひらに残った。
「本来、儀礼長補佐は、ご当人からの正式なお申し立てがあるまで、個別の社交儀礼の場へは踏み込めない立場にございます」
伯爵様のお声は、変わらず低く、静かだった。
「制度として動けない以上、控えのうえでの修正と、公爵家へのご通達でしか、お力になれませんでした。通達は控えの累積に応じて、いずれ別の措置に移ることもございますが、それは制度のなさることであって、私が個人として申し上げる立場にはないのです」
私は書面を、ゆっくりと折りたたんだ。
「お示しくださり、ありがとう存じます」
声は震えなかった。けれど、紙を折る指の動きは、いつもより少し遅かったと思う。
「二年前の王宮春の茶会の差配を、陰でお支えになっていらしたのは、あなた様であると、控えに残されておりました」
伯爵様がそうおっしゃった。
「二年前から、王宮の招待状の差配を、拝見しております」
その一文は、形式の挨拶ではなかった。
そう聞き取ったのは、伯爵様の声が、最後の言葉のところでだけ、わずかに柔らかくなったからだ。
「あの席は、本来あなた様のお席でございました」
椿の蕾が、いつの間にか一輪、足元に落ちていた。
誰も踏まないように、伯爵様が静かにそれを横へ避けてくださった。
私は何も申し上げず、ただ礼をした。
帰路の馬車の中で、私は膝の上に扇を置いた。
窓の外で、薄い春の日差しがゆっくりと傾いていく。
ナルディエ伯爵未亡人のお言葉と、伯爵様のお示しくださった書面と、王宮の控えに添えられた筆跡のことを、順にひとつずつ、思い返した。
二年前、王宮の差配を陰で支えていたのが私であると、書き留めていらした方がいた。
名乗ったことのない私の働きを、覚えていらした方がいた。
宛名から名前が抜けるたびに、王宮の側で名前を書き戻していらした方がいた。
それを、私は、知らなかった。
馬車の振動が、座席を通して背中に伝わる。
私は深く息を吐いた。喉のあたりで、薄く張りつめていたものが、ようやくほどけた。
そういえば、扇を膝に置くのは、いつ以来だっただろう。
夜会でも、サロンでも、私はずっと扇を手の中で開いていた気がする。




