第一話 招待状の宛名
「家のことだから、君は気を悪くしないだろう」と婚約者がおっしゃったので、私は王宮への欠席の返書を書き始めた。
朝のうちに、公爵家の使者が侯爵家へ招待状の写しを届けてきた。封蝋の縁がまだ少し冷たい。父が書斎で封を切り、無言で私に差し出した。
「ベルナール公爵令息ご一行様、ソフィ・リュミエール嬢同伴」
宛名はそれだけだった。私の名は、どこにもない。
王宮の春の茶会は、年に一度の格式高い催しだ。公爵家の婚約者として臨席する立場の私が呼ばれないということは、本来ありえない。
「あの婚約が決まった日のことを、覚えているか」
父が短く言った。
三年前の春、両家の当主が王宮の応接室で署名を交わした朝のことだ。父は喜びを隠さず、母も涙ぐんでいた。公爵夫人ジョセフィーヌ様は、私の手を取って「これからは家族ですよ」とおっしゃった。
あの方を孤立させてはいけない。両家の縁を私の都合で壊してはいけない。そう思って、三年が過ぎた。
宛名から私の名が抜けたのは、三度。
そのたびに私は黙って、内輪の伝手で席を整えてもらった。社交界の噂にしないため、母公爵夫人のお心労を増やさないため、両家の縁のため。
今朝届いた招待状で、四度目になる。
「公爵邸へ伺ってまいります」
父はそれ以上何もおっしゃらなかった。ただ、書斎を出る私の後ろ姿に、長い視線を残していらしたと思う。
公爵邸の控えの間に通された。
案内の侍女が紅茶の支度を始める。
「奥様、お茶をお…」
そこで、彼女の手が止まった。
私の表情を見たのではない。背後の廊下に立っていた人物に気づいたのだ。
「失礼いたしました、ご婚約者様」
侍女が深く頭を下げる。
私が答える前に、廊下のほうから静かな声が落ちた。
「家の者の不調法、申し訳ありません」
ジョセフィーヌ様が、廊下の入り口で、わずかに頭を下げてくださった。
未来の公爵夫人と呼ぶには、私はまだ婚約者でしかない。それでも夫人が頭を下げる重みを、侍女は理解していた。彼女は茶器を置き、そのまま静かに下がっていった。
ジョセフィーヌ様は、それ以上は控えの間にお入りにならなかった。私と息子の話の場を、邪魔したくないというお気遣いだったのだと思う。
私は紅茶を一口だけ口にする。
卓上には、私の分の茶器が一客しか用意されていなかった。フィリップ様とソフィ様の分の二客が、別の小卓にそのまま残されている。誰かがそこで先に茶を喫し、片付けを忘れた様子だった。
茶器の縁に、ほんの薄く、口紅の跡があった。
ほどなくフィリップ様がいらした。
今朝、私が伺うことは前もってお伝えしてあった。
「ローズマリー、よく来てくれた」
私は招待状の写しを卓に置いた。
フィリップ様は、最初それを書類の一枚としてご覧になり、それから宛名に目を留め、ほんの少しだけ困った顔をなさった。
「ああ、これか。母上から聞いている」
聞いている、とおっしゃった。
それで終わるかのような口ぶりだった。
「ソフィ嬢のお名前が、ございます」
私は静かに申し上げた。咎める口調ではない。ただ、事実を確認するための言葉だ。
「君は気を悪くしないだろう。家のことだから」
フィリップ様は微笑んで、そう続けられた。
「ソフィは家族だ。十年前から、家族なんだ。今年の春の茶会は、王宮で初めての披露目をしてやりたいと、母上ともずっと相談していた。君も、分かってくれるだろう」
私は何も答えなかった。
その代わりに、卓上の招待状の写しに目を落とした。封蝋の縁が、ほんの少し滲んでいる。届ける途中で誰かの手が汗ばんでいたのか、馬車の中で湿気にあたったのか。そんなことが妙に気になった。
「だから、ね」
フィリップ様が言葉を切られた。
「君なら、分かってくれると思っているんだ」
その言葉を、私は何度目に聞いただろう。
招待状の宛名から名が抜けたとき、一度。
昨年の夜会で隣席をソフィ様にお譲りしたとき、二度目。
今年の初めのサロンで、贈り物の格を譲られたとき、三度目。
そして今、四度目。
怒っているのではない。
ただ、自分が同じ言葉を聞くことを、何度許してきたのかを、はじめて数えていた。
「承知いたしました」
私は短く申し上げた。
「ご家族でのお披露目を、どうぞ心ゆくまでお楽しみくださいますように」
フィリップ様は少しだけ眉を上げ、それから安堵なさったように頷かれた。私が引き下がる、と思われたのだと思う。
「ありがとう。ローズマリーは、本当に分かってくれる人だ」
私はもう微笑まなかった。
冷めた紅茶のカップに、指先で触れる。湯気はとっくに消えていた。
フィリップ様がお下がりになったあと、私は控えの間に残らせていただいた。
取り次ぎの侍女に、便箋を一枚お借りしたいとお願いする。
侍女は不思議そうな顔をしたが、すぐに用意してくれた。差し出された便箋は、公爵家の家紋入りではなく、ごく無地のものだった。それで充分だった。
私が今書こうとしているのは、公爵家の名で出す書面ではない。
ペンを取る。
インク壺の蓋を開ける音が、思っていたよりも乾いていた。
宛名は、王宮儀礼長補佐殿。
「王宮春の茶会のお招きを賜り、誠にありがとう存じます。誠に勝手ながら、本年は欠席いたしたく、お返事を申し上げます」
そこまで書いて、私は一度だけ手を止めた。
理由の欄に、何と書こうか。
体調の不良。家の事情。所用。
どれも嘘で、どれも世間に通る理由だった。
私は、所用、と書いた。
書面の隅に、儀礼長補佐殿のお名前が小さく刷られている。
サン=クレール伯爵閣下、と読めた。今年から王宮の招待状の控えを所管されていると、父がいつかおっしゃっていた方だ。お顔をすぐに思い出せる方ではない。
封蝋を落とす。
私の名で、私の意思で出す、はじめての公的な書面だった。
それが欠席の返書であることに、自分でも少し驚いた。
私は書面を侍女に託す。
「ご婚約者様」
侍女が、控え目に呼びかけてくれた。先ほどの誤りを、もう繰り返さなかった。
「ありがとう」
私は微笑んで、控えの間を辞した。
廊下には、もうジョセフィーヌ様のお姿はなかった。
侯爵家へ戻る馬車の中で、私は窓の外を見ていた。
怒っているのではない、と自分に言い聞かせる必要もなかった。
長く張りつめていた糸が、控えの間の卓上で、すっと緩んだ感覚がある。
これからどうするか、まだ何も決めていない。
ただ一つだけ、思っていることがあった。
次に伺うのは、別の方の茶会にしましょう。
そうつぶやくと、馬車の振動が、ほんの少しだけ柔らかく感じられた。




