第四話 観劇のボックス
ボックス席に用意されていた椅子は三脚で、私の席は一番後ろだった。
王立劇場の春の演目は、毎年同じ作曲家による一幕物の喜劇と、別の作曲家による三幕の悲劇が、続けて上演されることになっていた。
ベルナール公爵家のボックス席は、舞台に向かってやや右手、二階の見やすい位置にある。今夜は喜劇のほうから始まる。
公爵邸でのサロンから、二週間が経っていた。
ジョセフィーヌ様の席順のご指示があってから、公爵邸でお目にかかる限りでは、私とフィリップ様の座席はきちんと隣で揃えられるようになっていた。
公爵夫人のお力が、家の中では届いている。
ただし、家の外の儀礼の場までは、まだ届いていなかったのだと、ボックスに案内された瞬間に分かった。
「こちらでございます」
案内係が示したのは、ボックスの後列に置かれた一脚の椅子だった。
前列には、すでに二脚の椅子が並んでいる。
そして前列の椅子には、フィリップ様とソフィ様が、すでに着席しておられた。
「私の席は、どちらでしょう」
私は案内係に静かに尋ねた。
彼は一瞬だけ口をひらき、それから何も言わずに、後列の椅子を改めて手で示した。
ボックスの中に、他に座席はなかった。
「分かりました」
私はそう申し上げて、後ろの席へ進んだ。
ドレスの裾が、後列の椅子の脚にほんの少し引っかかった。
案内係は気づかなかった。私もそれを直さなかった。
腰を下ろすと、舞台が思ったよりも遠く感じられた。
前列の二脚の椅子の背もたれの隙間からなら、舞台はかろうじて見えた。
それでも、平土間で見るときの三倍ほどは遠かった。
「ローズマリー、こちらにいらしたの」
ソフィ様が、後ろを振り返って小さくおっしゃった。
私は微笑んで頷いた。
ソフィ様の口調には、悪気はない。
だが、私が後列に座っていることへの違和感が、表情にも声にも、まったく出ていなかった。
「フィリップ様、もうすぐ開幕でございます」
私は短く前列へ申し上げた。
フィリップ様は、こちらを向かないまま、ああ、とだけ返事をなさった。
一階の客席が暗くなる前のひととき、私は劇場のホールの様子を、もう一度だけ目で追った。
向かいに、ちょうどボックスがひとつ向かい合っている。
そこには、年配の貴婦人と、お若い令嬢が、肩を並べてお座りになっていた。
お顔は、夜会で何度かお見かけしている方々だ。
お名前は確か、ロワール侯爵未亡人と、そのご令孫。
ロワール侯爵未亡人が、扇を半分だけ開かれた。
お隣のご令孫の耳元へ、何かをひとことだけお話しになる。
ご令孫は答えなかった。代わりに、その扇の上から、こちらのボックスを一度だけご覧になった。
それから、扇は静かに閉じられた。
向かいのボックスから、こちらへ向けて、声は一度も発せられなかった。
こちらから会釈を返すべき距離だったが、フィリップ様もソフィ様も、お気づきにならない様子だった。
私は後列に座っていたので、前列の椅子越しに身を乗り出さなければ、会釈を返すこともできなかった。
私はそうしなかった。
その代わり、後列の闇の中で、私は扇をひとつだけ畳んだ。
向かいのご令孫のお目には、おそらく、後列の闇に座る私の姿は見えていたと思う。
それで、十分だった気がした。
幕間の休憩に、私はボックスを出て、ホールの控えの間で喉を潤すことにした。
廊下を歩いていると、向こうから、見覚えのある銀の徽章をつけた方が、ご一行と歩いてこられた。
サン=クレール伯爵様だった。
おそらく、王宮の代理として、本日の演目をご視察になっていらしたのだろう。
通り過ぎる瞬間、伯爵様が、ほんの一拍だけ歩を緩められた。
ご一行の方々はそのままお進みになり、伯爵様は、廊下の角の柱の陰のところで、私のほうへ短くお辞儀をなさった。
「お疲れでしょう」
それだけだった。
その一言が、廊下の人混みのざわめきの中で、不思議なほど明瞭に聞こえた。
他のお声よりも低かったわけではない。
ただ、私の耳に、まっすぐ届く声だった。
「ご丁寧に、ありがとう存じます」
私は短くお返事を申し上げ、扇の陰で目を伏せた。
それ以上のことは、お互いに何も申し上げなかった。
伯爵様は、すぐにご一行のもとへお戻りになった。
人目を引く挨拶ではなかった。
それなのに、私の喉のあたりに、奇妙に温かいものがほどけていた。
私はホールの控えの間まで歩き、置かれていた水のグラスを一杯だけ口にした。
グラスを置いた音が、自分でも分かるほど静かだった。
後半は、悲劇の上演だった。
舞台の上では、契約と誤解のせいで遠ざかった二人が、長い独白を交わしながら別の道を歩き始める。
お決まりの筋書きだったが、本日に限っては、舞台の上の女性の言葉が、自分の中でゆっくり別の意味を持ち始めていた。
舞台と私のあいだに、フィリップ様とソフィ様のお背中があった。
お二人は、ときおりお互いに身を寄せ合うようにして、舞台のお話をなさっていた。
そのお背中は、いずれも私のほうを振り返らなかった。
私は、後列から舞台を見ていた。
舞台の上の女性が、契約書を畳んで席を立つ場面で、私は扇を、もう一度だけ畳み直した。
向かいのボックスの貴婦人たちは、悲劇のあいだ、一度もこちらへ目を向けなかった。
目を向けないことが、向けることよりも、ずっと長く目に残った。
終演後の馬車の中で、私はようやく深く息を吐いた。
「ローズマリー、今夜の悲劇はどうだった」
向かいの座席で、フィリップ様がそう尋ねてくださった。
ご機嫌のよいお声だった。
ソフィ様も、隣で小さく頷いていらした。
「お話の筋は、よく分かりました」
私はそれだけ申し上げた。
お席のことも、向かいのボックスのことも、廊下の挨拶のことも、何もお話ししなかった。
フィリップ様も、それ以上は聞いてこられなかった。
馬車が侯爵家の前で停まる頃には、夜風が冷えていた。
私は降りる前に、ひとことだけ、自分のなかでつぶやいた。
次は、来なくてもよろしいかもしれません。
そう思った。
誰にも聞かせる必要のない言葉だった。
ただ、馬車の床の振動が、その言葉に、わずかに余韻を残してくれた気がした。




