やってやる!
(はぁっ……情けないなぁ)
ひなたは、机に肘をついて大きく息を吐いた。
会議では、何も言い返せなかった。
いや、言い返せたはずの言葉を、飲み込んでしまった。
『……根拠は?』
あの声が、まだ喉の奥に刺さっている。
席に戻っても、指が動かない。
画面を開いては閉じ、開いては閉じる。
文字は読めるのに、意味が入ってこない。
周囲が気を遣って、目を合わせないふりをしているのが分かった。
如月さやが、机の横に立った。
「ひなた。1.5周年の提案書、作るわよ」
「……はい」
返事はした。したのに、遠い。
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
如月はそれ以上言わず、ただ、ひなたのディスプレイを一度だけ見た。
◆
帰る方向じゃなかった。なのに、足が勝手に駅と逆へ向いていた。
気づけば知らない路地。
小さな看板。薄い灯り。初めて見る店名。
考える前に、扉を押していた。
◆
カウンターに腰を下ろして、適当に酒を頼んだ。
味は分からない。喉を通る感覚だけが分かる。
一杯目で肩の力が少し落ちて、
二杯目で思考の輪郭がぼやける。
三杯目で――ようやく、生きた心地が帰ってくる。
カタカタ、と小さな振動音が響く。
さっきからずっと、同じリズムで。
「……なあ」
ひなたは隣の席に声を投げた。相手の顔も見ずに。
「さっきから、うるさいんだよ……スマホ」
隣の客が、ちらりとこちらを見る。
「……あ、すんません」
「えっ……先輩?」
ひなたはそこで、ようやく隣を見る。
「……紡?」
「うわ、マジで先輩じゃん! ここ来るんすね」
一ノ瀬紡。大学の文芸部の後輩。
卒業してから一度も会っていないのに、空気だけは、あの頃のままだった。
「取らなくていいのか、スマホ」
「いいんすよ。どうせ大したことじゃないっすから」
「大したことないなら、そんな鳴らさないだろ」
「……無視してるんすよ」
さらっと言って、紡はグラスを持ち上げる。
氷が鳴った。軽い音。軽すぎる音。
ひなたもグラスを持ち上げ、一気に飲み干す。
「……先輩、らしくないっすね」
「お前に言われたくねえよ」
ひなたが返すと、紡は肩を揺らして笑った。
笑い方だけ、昔のままだ。
「で、どうしたんすか。何かあったんすか」
「……なんで分かるんだよ」
「何かあると、すぐ目が泳ぐ。ほんと、変わってないっすね」
「色々、あんだよ……」
「ま、大人っすからね」
軽い。なのに、目だけが笑っていない。
ひなたは黙ってしまった。
紡は何も言わず、横で飲んだ。
その沈黙に、どこか懐かしさを感じて、気づけばひなたは話していた。
会議があって、AIの提案が出てきて。
自分の作品の欠点を突きつけられて、誰かに汚されそうになって。
欠点なんて、誰よりも分かってるのに。
だから、そうならないように努力してきたのに。
それでも、最後まで捨てられなくて。
シナリオのことを何も分かっていない人の言うことが、
正しく聞こえてしまったことが……一番つらくて。
「……自分のこれまでが、全部否定されたみたいでさ」
話し終えると、紡は「ふーん」と息みたいな声を出して、首を傾げた。
「別に、そんなやつの言うこと、無視しちゃえばよくないっすか?」
「それができれば、苦労しない」
「え、でもシナリオのこと分かるの、先輩だけなんすよね?」
「……まあ、そうなる」
「じゃあ、書かなきゃいいじゃないすか。
そうすれば止まるんじゃないんすか?」
「止まらない。俺が書かなかったら、代わりが入るだけだ」
「……シナリオのこと、分からない人が?」
「ああ」
「クオリティ、どうするんすか?」
「……うまいことやるんだろ。分からないけど」
言って、ひなたは自分の声の薄さに嫌気がさした。
実際、そんな事例はいくらでもある。
追い詰められて、黙って消えていく人間も。怒鳴って辞める人間も。
ひなたは何度も見てきた。
「……俺が新人の頃、シナリオ担当の先輩がいた」
紡はグラスを止めて、目だけを向けた。
「その人、口数は少ないけど、すごいこだわりが強くて
誰からも信頼されていたんだ。
会議でどれだけ仕様が変わっても、キャラの芯だけは絶対に折らない。
最後まで、戦ってた」
ひなたは、思い出すだけで喉の奥が少し痛くなる。
「俺が初めて担当したキャラ、最初の反応が微妙だったときもさ。
先輩だけが、モニターを見たまま言った。
『大丈夫、分かる人には絶対に届くから』って」
あの言葉があったから、書き直せた。踏ん張れた。
「……でも、その先輩、ある日いなくなった」
「いなくなった?」
「朝会に来なかった。チャットも既読がつかない。
昼に、ディレクターが“休職です”って言って終わり」
ひなたはグラスを傾ける。
「その日の夕方、先輩のフォルダが“引き継ぎ用”になってた。
台詞案の横に赤字が並んで――最後に、短いメモが残ってた」
「……なんて?」
「『すまない。もうこれ以上、自分に嘘はつけない』――って」
氷が鳴った。音だけが、妙に大きかった。
「結局……俺たちはただの会社員なんだよ。
指示には従わなきゃならない」
「それが、どれだけ理不尽でも?」
「……ああ」
ひなたは酒を一気に飲み干した。
「ヤバいっすね、それ。ゲーム会社こえー!」
「笑うな」
「いや、笑うっすよ。怖いもん」
紡はケラケラ笑う。
昔からそうだ。相談の中身に深く共感するわけじゃない。
ただ、知らない世界を見て、面白がる。――そのはずなのに。
「じゃあ、そんな会社、辞めちゃえばよくないっすか?」
「……そんな簡単に言うな!」
「簡単じゃないんすか?」
「……は?」
「何が問題なんです?」
紡は、指を折るみたいな口調で言った。
「金? 地位? 名誉? 責任感?」
ひなたは一瞬、言葉を失った。
どれも違うと言い切れない。どれも全部だとも言い切れない。
「……シナリオだよ」
「え、でも……自分の“作品”じゃないんすよね?」
「……そうだ」
「じゃあ、どうでもよくないっすか?」
「いや、ダメだろ……」
「なにが、ダメなんすか?」
「ええと……」
「ほら、辞めちゃえばいいじゃないっすか」
――違う。そうじゃない。
「嫌だ。俺のシナリオは、誰にも渡したくない!」
気づけば、立ち上がっていた。
店内の会話が一瞬だけ止まり、視線が刺さる。
ひなたは我に返って、慌てて座り直した。
頬が熱い。酒のせいか、恥のせいか分からない。
紡が吹き出した。
「ははっ、先輩らしいっすね!」
「笑うな!」
「笑うっすよ。だって」
紡はグラスを回しながら、軽く言う。
「シナリオを人質に取られて辞められない、ってやつっすか?」
「うるせー! 悪いか!」
「悪くないっすよ。……じゃ、確認っす」
紡は淡々と続けた。
「先輩が会社を辞められないのは、シナリオのため。
そこまでは分かったっす」
「でもそのシナリオ……自分の思うようにならないんすよね?」
「……なんだよ」
「うーん。やっぱ、よく分かんないなぁ」
そして、少しだけ“変な目”になる。
「みんな結局、金のためでしょ。プロデューサーも、データ班の人も」
「……違う」
「違わないっすよ」
「だから、味方になんてなり得ませんよ。だって」
「だって……?」
「彼らはシナリオのために、死んでくれないっすから」
背中が、ぞわりとした。
その表現が、生々しすぎた。
「……極論だろ」
「極論? でも先輩、途中で辞めていく人、見てきたんすよね?」
「それは……」
「じゃあさ」
紡は、笑わないまま言った。
「“好き”って言いながら、辞めるんすよね。好きって便利っすね」
「…………」
喉の奥が引きつる。
「そんなの、極論だろ」
「いや、先輩が普通になっただけっす」
「……は?」
「たぶんそんなんじゃ、いつか“好き”じゃいられなくなるっすよ」
胸の奥が、嫌な方向に熱くなる。
ひなたは反射で声を荒げた。
「お前に何がわかるんだよ!」
紡は一拍置いて、淡々と言った。
「だって先輩の今の顔、昔の“書けなくなった時”と同じっすよ」
その一言で、酔いが少し醒めた。
思い出したくもない景色が、視界の端でちらつく。
「うるさい。あの時は――」
言いかけて、飲み込む。
ひなたは息を吸って、叩きつけるように言った。
「とにかく、俺は書く! 書いて証明してやる!
俺のシナリオのほうが、面白いってことを!」
紡の顔が、やっと笑う。
「そうそう。その方が先輩らしいっす!」
「……お前、昔から変だよな」
「普通ですよ。僕からしたら、先輩のほうが変っす」
悔しくて、腹立たしくて、でも少しだけ救われるような笑いが漏れた。
「先輩、会社辞めたほうがいいっすよ。絶対合ってない」
「うるさい。……俺は、みんなを信じてる」
ひなたは、言い切るように言った。
「プロデューサーもディレクターも、営業やデータ班だって……
みんな、金だけで動いてるんじゃない」
「……へぇ」
「俺だって……命をかけられるかは分からないけど」
言いながら、自分の言葉の弱さに気づいて、噛みしめる。
「必死に守りたいものがあるんだよ」
「だから俺は、会社を辞めない。最後まで守ってみせる」
紡は軽く笑った。
「……やっぱ、先輩が一番やばい奴っすね♪」
「褒めてんのか、それ」
「褒めてないっす。確認っす」
紡はグラスを置き、短く言った。
「絶対にそれ、実現してくださいね」
真顔だった。
さっきまで軽かった紡が、一瞬だけ文芸部のときの目に戻る。
その瞬間、バーの扉が開き、空気が一気に騒がしくなる。
「先生! 先生ぇ!」
「原稿! 原稿! 本当にお願いします!」
スーツの男が鬼気迫る勢いで紡に突っ込んできた。
店員が「また来た」みたいな顔をして、視線を逸らす。
紡はため息をひとつ。
スマホをようやく表に返す。
画面の明かりが、頬を一瞬だけ青くした。
「……大したことじゃないって言ったじゃん」
「先生! 大したことです! 今日が締切です!」
「あれ、そうだっけ?」
「もう、しらばっくれないでください!」
編集らしき男が半泣きで迫る。
紡はひなたにだけ軽く手を振った。
「先輩、1.5周年のイベント、楽しみにしてますね♪」
そのまま腕を掴まれて引きずられる。
引きずられながら、紡は最後に一言だけ落とした。
「先輩の代わりなんて、いくらでもいるっすよ。
先輩だけじゃない。誰だってそうっす」
ひなたの喉が、きゅっと鳴った。
「……怖いでしょ。
でも、それを乗り越えないと、この先やっていけないっすよ」
扉が閉まり、紡の気配が消える。
残ったのは、氷の溶ける音と、ひなたの呼吸だけだった。
ひなたはグラスを見つめ、ふっと息を吐いた。
乗せられた。
それでも腹の底が、少しだけ熱い。
悔しいのに、ムカつくのに。
なぜか、立ち上がれる気がした。
◆
翌朝。
ひなたはフロアに入ると、一直線に如月の席へ向かった。
如月が顔を上げる。
「おはよ、ひなた」
「先輩。時間ください」
「……顔、戻ったわね」
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
周りがちらちらと見る。
ひなたは気にせず、短く、はっきり言った。
「1.5周年。俺たちにしかできない案を作りましょう」
「……いいじゃない」
如月が笑う。ひなたは続けた。
「AIからどんな案が来てもいい。来るなら来いって感じで」
「強気ね」
「……強がりです。でも」
ひなたは視線を上げた。
「この仕事だけは、誰にも譲りたくないですから」
「……そうね!」
如月がペンを取る。
その動作だけで、空気が切り替わる。
「じゃあ、やろうか」
「……はい!」
ひなたは息を吸って言った。
「やってやりましょう!」
その瞬間、胸の奥の鈍い痛みが、ほんの少しだけ“熱”に戻った気がした。




