最初の赤字
評価は、予定より一時間早く返ってきた。
「柏木さん」
南雲の声に、ひなたは反射的に立ち上がった。
佐久間も椅子を寄せる。
少し離れた席では、如月がこちらへ視線を向けている。
南雲の画面には、昨日提出した原稿の評価シートが開かれていた。
総合判定――要再提出。
セルの色は淡い橙色だった。
赤ではない。
失敗と書かれているわけでもない。
それでも、ひなたの目には、原稿全体へ大きな赤字を入れられたように見えた。
「項目ごとに説明します」
南雲はいつもより慎重に言った。
「キャラクターの感情整合性は高評価です。澪についても、既存シナリオとのズレはほとんどない」
「ただし――」
言葉を切る。
ひなたは続きを促さなかった。
促さなくても、画面に数字が並んでいる。
冒頭の目的提示。
初動理解。
新キャラクターへの推し感情。
ゲーム体験への期待。
すべて、承認基準より低い。
「冒頭五分で、リラが何をしたいキャラクターなのか分からない」
「最初の刻印までが遅く、このイベントで何を体験するのか想像しづらい」
「澪への好感は高いですが、リラを推したいという反応へ繋がっていない」
南雲の声だけが、静かな執務室に残る。
どれも、書く前から想像していた指摘だった。
分かっていた。
分かった上で、リラの恐怖を先に置いた。
それでも、実際に評価として返されると、胸の奥へ別の重さで落ちる。
「評価者は?」
「データ班の六名です。過去のユーザー反応との比較も入っています」
「六名全員が、同じ意見ですか」
「細部は違います。でも、目的提示とリラへの興味については、全員が低めです」
「直接、話せないか」
「柏木」
如月が止める。
強い声ではない。
だから、ひなたも口を閉じた。
新しい運用では、制作側の説明を最小限にする。
説明を聞かなければ意図が伝わらないなら、ユーザーにも届かない可能性が高い。
理屈は分かる。
それでも、聞きたかった。
リラの最初の台詞をどう読んだのか。
澪が理由を尋ねなかった意味に気づいたのか。
刻印を遅らせたことを、単なるテンポ不足として処理したのか。
話せば分かる。
読めば分かる。
その考え自体が、制作者の甘えなのだろうか。
「修正期限は?」
「明後日の午前です」
「分かりました」
ひなたは評価シートを自分の画面へ送った。
南雲が、匿名化された個別コメントを開く。
『澪は格好いい。でも、新キャラが守られるだけで終わっている』
『言葉を拒む理由は気になるが、今後何をする話か分からない』
『雰囲気は好き。ゲームとして何を選ぶのか見えない』
『リラより澪を使いたいと思った』
一つひとつは、短い。
制作意図を否定するような強い言葉もない。
だからこそ、実際に読んだ人間がどこで止まったかが見える。
『リラより澪を使いたい』
ひなたは、その一行をもう一度読む。
澪が魅力的に見えたことは嬉しい。
既存ヒロインを雑に扱わず、新しい役割を与えられた。
だが、今回の企画でユーザーに触れてほしいのはリラだ。
澪を正しく書くことへ集中した結果、リラが澪を輝かせるための装置になっていたのではないか。
自分が最も嫌っていたことを、自分がやっていたのかもしれない。
「柏木さん」
南雲が呼ぶ。
「自由記述は、あくまで六人の感想です。全部を真実だと思わなくて大丈夫です」
「でも、無視もできない」
「はい」
南雲は言葉を濁さない。
「ただ、“正解”として読むんじゃなくて、“どこでそう感じたか”を見るのがいいと思います」
「CSっぽいですね」
「ユーザーの言葉って、そのまま修正指示にはならないので」
南雲は少し笑う。
「“つまらない”の中にも、難しい、分からない、期待と違った、疲れていた、いろいろあります。言葉の奥を想像するのは、シナリオと似てるかもしれません」
ひなたは評価シートを見直した。
数字は結論ではない。
誰かが感じた違和感の跡だ。
そう思えば、まだ自分の仕事へ戻せる気がした。
◆
「先輩。僕、最初のやつ好きですよ」
佐久間が言った。
「慰めるな」
「慰めじゃないです。好きと、通るは別ですから」
思っていたより、厳しい返事だった。
「澪がリラを守るところはいい。でも、リラが何もしてないのも事実です」
「何もできないところから始めるキャラだ」
「それは分かります。でも、ユーザーは“今後できるようになる”まで含めて、最初の十五分では見られない」
ひなたは原稿を開く。
『私に、何も言わないで』
この一行を置いた時、自分にはリラが見えた。
何も持たないから言葉を欲しがるのではない。
何も持たないからこそ、他人の言葉だけで作られることを恐れている。
だが、評価者には、何をしたいのか分からない少女に見えた。
「見えなかったら、ないのと同じか」
「僕たちは仕事で見せてるんで」
佐久間は、あえて優しく言わなかった。
「見えなかった理由を、評価者のせいにしたら、次も同じです」
「分かってる」
「なら、直しましょう」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないですよ。僕も昨日、一緒に作ったんで」
佐久間の声に、少しだけ苛立ちが混じる。
「先輩だけの原稿じゃないです」
ひなたは顔を上げた。
佐久間は逃げずに見返している。
そうだった。
自分がリラを見つけた気になっていた。
だが、尺を組み、台詞を確認し、提出の意図を一緒に書いたのは佐久間だ。
白石も、南雲も、三角も、リラの見せ方を考えた。
赤字を受けたのは、自分一人ではない。
「……悪い」
「謝るなら、修正案をください」
「お前、最近、如月先輩に似てきたな」
「最悪です」
「聞こえてるわよ」
離れた席から、如月の声が飛んできた。
佐久間が肩をすくめる。
わずかに、空気が緩んだ。
◆
夕方、橋本がひなたの席へ来た。
「冒頭、読ませてもらいました」
「営業にも回ってるんですか」
「今後、訴求へ使う可能性がありますから」
橋本は原稿の一行目を指す。
「俺は、この台詞、好きです」
『私に、何も言わないで』
「でも、広告には抜けません」
「分かってます」
「怒らないんですね」
「前に散々、言われたので」
橋本は少しだけ苦笑する。
「好きな台詞と、入口で人を掴む台詞は同じじゃない。俺も、前はそこを一緒にしようとしてました」
「今は?」
「分けて考えます。作品の中で効くなら残す。ただ、その前に入ってもらう方法は別に作る」
「今回の入口は?」
「弱いです」
迷いのない答えだった。
「リラが何を怖がっているかは、読み終われば分かる。でも、読み終わる前に離れられる可能性がある」
「……そうですか」
「ただし、台詞を強くすれば解決するとも思いません。構造の問題です」
橋本は評価シートの「目的提示」を指した。
「彼女が言葉を拒むことと、このイベントで言葉を与えることが、まだ繋がっていない。拒絶が障害ではなく、ただの雰囲気に見える」
営業から、シナリオの構造を指摘される。
以前のひなたなら、少し腹を立てたかもしれない。
だが、橋本は企画書を一緒に作った。
三枚絵の意味を、外へ届く形に翻訳した。
今は、同じ原稿を見ている。
「冒頭で、リラを逃がします」
ひなたが言う。
「言葉を刻もうとする施設から逃げる。拒絶が、そのまま目的になる」
橋本の目がわずかに動く。
「それなら、最初から何を避けているか分かる」
「澪との出会いも早める」
「いいと思います」
「営業の許可は求めてません」
「分かってます。感想です」
橋本は去り際に振り返った。
「通してください。売り方は、その後に考えます」
橋本と入れ替わるように、白石が表情ラフを持ってきた。
「初稿のリラ、二案描きました」
一枚目は、眉を寄せ、明確に他者を拒絶する顔。
二枚目は、口元だけを固く閉じ、視線が澪の剣を追っている。
「二枚目」
ひなたが選ぶと、白石も頷いた。
「僕もです」
「じゃあ、なぜ一枚目を描いた」
「伝わりやすいからです」
迷いなく答える。
「一枚目なら、拒絶するキャラクターだと一瞬で分かる。でも、リラが怒っているように見える」
「二枚目は?」
「怖がっている。でも、一枚だけだと弱いかもしれない」
また同じだった。
伝わるものと、正しいと思うもの。
二つが並ぶたび、選ぶ責任が生まれる。
「両方、評価へ出せないか」
「出せます。ただ、どちらかが高かった時に、採るかどうかを決めることになります」
白石はラフを机へ置いた。
「数字が出る前なら、僕らの中で二枚目を選べる。出た後で一枚目が高いと分かったら、同じ判断ができますか」
ひなたは答えられなかった。
評価は判断を助ける。
同時に、一度見た数字を無視する責任も生む。
「今は二枚目で進めてください」
ひなたが言う。
「理由は?」
「リラは怒ってるんじゃない。怖い。それを間違えたら、最初から別人になる」
白石は、その言葉をラフの端へ書き込んだ。
「分かりました。理由があるなら、僕も守れます」
自分の感覚を、他人が守れる言葉へする。
それも、今の制作に必要な仕事だった。
◆
ひなたと佐久間は、修正履歴の入力欄を開いた。
『評価を受け、どの箇所を、どの目的で変更するか』
「冒頭の目的を前倒しする」
佐久間が打つ。
「次は?」
「リラを推したくなる要素を追加」
口にした瞬間、ひなたは止めた。
正しい。
評価項目に沿った、分かりやすい修正内容だ。
だが、その文章の中に、リラ本人がいない。
「消してくれ」
「何て書きます?」
「リラが言葉を拒む理由を、より早く体験させる」
佐久間が入力し直す。
「意味は近いですね」
「ああ」
「評価を上げるためにやることも同じです」
「ああ」
それでも、違う。
何を見て書き直すのかだけは、手放したくなかった。
評価項目を満たすためにキャラクターを動かすのか。
キャラクターを届かせるために評価を使うのか。
結果が同じでも、書く時に見ているものは違う。
夜になっても、ひなたは初稿を閉じられなかった。
削るべき場面へカーソルを置き、別のファイルへコピーする。
「消さないんですか」
佐久間が尋ねる。
「今の稿からは外す。でも、なくす必要はない」
「如月さんが言ってた、“気持ちの履歴”?」
「まだ言われてない」
「何ですか、それ」
「何でもない」
ひなたは、白い部屋で目覚めるリラの場面を「未採用」フォルダへ移した。
評価を受けて削る。
削った文章は、ユーザーへ届かない。
それでも、書いた時間まで無駄になるわけではない。
リラが最初に何を怖がっていたかを、自分たちが忘れなければ、別の場面へ残せる。
「赤字って、消せって意味じゃないんですね」
佐久間が言う。
「何を直すか、考えろって意味だ」
「先輩、先生みたいですね」
「お前が生徒みたいなこと言うからだ」
「でも、前の先輩なら、赤字を敵だと思ってましたよね」
ひなたは否定できなかった。
赤字は、自分の文章を理解しない人間からの攻撃。
そんなふうに感じていた時期がある。
今も、完全には違わない。
ただ、守るべきなのは、自分が最初に書いた形ではない。
その形で伝えたかったものだ。
ひなたは新しいファイルを開く。
初稿を否定するためではなく、初稿の中にいたリラを、もっと早く読者へ届けるために。
共有フォルダのラベルが変わる。
『評価待ち』から、『要再提出』へ。
最初の赤字だった。
ひなたは原稿の一行目を選択する。
書き直すべきなのは、文章なのか。
それとも、自分たちの作り方なのか。
答えが出ないまま、削除キーを押した。




