今までと何かが違う
会議から戻って三十分後、ひなたはデータ班案の企画書を開いていた。
白い少女。
記憶を持たず、誰かに与えられた言葉を鍵片として刻む、新しいキャラクター。
企画書の中では、まだ「新規素体」と呼ばれている。
仕様上の名称だ。
けれど、このままでは文章を書けない。
何も持たない。
誰のことも知らない。
言葉を与えれば、その通りに変わっていく。
それだけでは、キャラクターではなく器だ。
「名前、必要ですよね」
隣の席で資料を読んでいた佐久間が言った。
「当たり前だ」
「仕様書では後決めになってますけど」
「名前がない相手に、台詞は書けない」
ひなたは設定資料の余白へ、いくつかの音を書いた。
短く、呼びやすいもの。
白い見た目に引っ張られすぎず、強くなりすぎないもの。
「リラ」
佐久間が読み上げる。
「意味は?」
「今はない」
「ないんですか」
「こいつ自身が、これから意味を持つんだろ。名前まで説明から始めたくない」
佐久間は少し考えた後、企画書の仮名欄へ「リラ」と入力した。
「僕は好きです」
「仕事の感想を言え」
「企画書に置いた時も浮いてないです。仕事としても好きです」
「なら、それで行く」
画面の上で、「新規素体」が「リラ」へ変わる。
たった三文字だった。
それだけで、白いシルエットの内側に誰かが立った気がした。
◆
「冒頭十五分まで、先に作る」
ひなたはホワイトボードへ場面を並べていく。
目覚め。
澪との遭遇。
敵襲。
最初の鍵片。
言葉を刻む。
力を得る。
企画書にある進行は分かりやすい。
ユーザーは、何も知らないリラと一緒に世界へ入る。
澪が最初の言葉を与え、その言葉が力になる。
だが、ひなたは「言葉を刻む」の横に、大きく斜線を引いた。
「最初は、受け取らせない」
佐久間が眉を上げる。
「企画の売り、そこですよね?」
「だからこそだ。最初から喜んで受け取ったら、リラはユーザーの入力を待つだけの箱になる」
「でも、五分でゲームの核を見せるって話は?」
「見せる。拒絶することで」
リラには記憶がない。
何者でもない。
だから、言葉を欲しがる――。
データ班の企画書では、自然にそう設計されている。
けれど、本当に何者でもない人間が、他人の言葉を素直に欲しがるだろうか。
知らない言葉が自分の中へ入り、自分の性格になり、戦う理由に変わる。
それは救いであると同時に、侵食でもある。
「リラは、言葉を怖がる」
ひなたは言った。
「何もないから、何を入れられても拒めない。だから、入れられる前に拒む」
「成長の気持ちよさから、遠くなりません?」
「遠くから始めるから、近づいた時に気持ちいいんだよ」
佐久間はすぐには頷かなかった。
前なら、その反応に苛立ったかもしれない。
今は違う。
佐久間が見ているのは、評価項目だ。
冒頭五分の掴み。
推し感情。
プレイ動機。
ひなたも、同じものを画面の端に置いている。
「……十五分で、最初の言葉まで行けます?」
「行かせる」
「リラの恐怖も描いて?」
「描く」
「澪との関係も作って?」
「作る」
「時間、足りませんよ」
「届かせる」
ひなたが言い切ると、佐久間は小さく笑った。
「それ、前にも聞きました」
「なら覚えとけ。シナリオライターは、入れるんじゃない。届かせるんだ」
「格好いいこと言ってますけど、尺表は僕が作るんですよね」
「頼んだ」
「そういうところですよ、先輩」
◆
午後、白石と三角も加わり、冒頭の見せ方を確認した。
「リラが言葉を拒むなら、最初の表情は強くした方がいいですか」
白石が二つのラフを見せる。
一つは、睨むような拒絶。
もう一つは、口元だけを強く結び、視線は逃げている。
「後者」
ひなたは即答した。
「怒ってるんじゃない。怖いんだ」
「でも、画面だけだと弱く見えるかもしれません」
三角が言う。
「ゲーム開始直後っすよ。最初にユーザーが見る新キャラが、ずっと目を逸らしてたら、推す前に距離を感じません?」
「その距離を詰めるのがイベントだ」
「分かりますけど、距離を詰めたいと思ってもらわないと始まらない」
正しい。
ひなたはラフを見比べる。
強い拒絶なら、キャラクターの特徴はすぐ伝わる。
だが、リラが他人を嫌っているように見える。
弱い拒絶なら、内面は正しい。
しかし、一枚の絵では印象に残らないかもしれない。
「手を入れてください」
南雲が口を挟んだ。
「顔じゃなくて、手を」
「手?」
「言葉が刻まれる場所を、隠すみたいに押さえる。顔は白石さんの二枚目で、手だけ強く拒む」
白石がすぐに描き足す。
手首を押さえ、爪が少し食い込んでいる。
視線は逃げているのに、身体だけは必死に守っている。
「これなら、怖がってるのが分かります」
南雲が言う。
「ユーザーから見ても、“何を隠してるんだろう”になると思います」
三角も頷いた。
「画面に出た時のフックもありますね」
ひなたは新しいラフを見た。
自分一人では、顔の内側だけを考えていた。
白石は一枚の中で伝える方法を探し、南雲はユーザーがどこを見るかを考え、三角はゲームを始めた瞬間の感情を見ている。
クリエイターの判断を、データ班が評価する。
その仕組みが決まってから、全員が数字だけを見るようになる気がしていた。
だが、まだ違う。
まだ、自分たちはキャラクターを見ている。
打ち合わせを終えた後、ひなたは過去の澪のシナリオを開いた。
一年前のイベント。
澪が初めて仲間へ弱音を吐いた場面。
半年後、同じ相手を守るために、自分から一歩退いた場面。
データ班の企画では、澪はリラへ最初の言葉を与える役割になっている。
“支える側へ成長した既存ヒロイン”。
企画書に書けば、綺麗な一文だ。
だが、澪は成長したからといって、急に他人を導くような人間にはならない。
自分が迷った経験を、立派な教訓として話すこともしない。
相手のために一歩前へ出るのではなく、気づけば自分が傷つく場所に立っている。
その不器用さを残したまま、リラを支える必要がある。
「先輩、何見てるんです?」
佐久間が後ろから覗く。
「澪の過去ログ」
「今回の企画書に、関連シーン一覧ありますよ」
「あれは要約だ。台詞の前後まで見ないと、今の澪がどこにいるか分からない」
「全部読むんですか」
「全部は読まない。必要なところだけだ」
「必要なところを探すために全部見るやつですね」
佐久間の指摘を無視し、ひなたはスクロールする。
同じ「大丈夫」という台詞でも、澪は場面によって意味を変える。
本当に平気な時。
相手を安心させたい時。
自分へ言い聞かせている時。
文字列だけを学べば、どれも同じ台詞になる。
けれど、キャラクターは前後の時間で意味を変える。
「リラに最初に掛ける言葉、“大丈夫”じゃ駄目ですね」
佐久間が言った。
「なぜ」
「今までの澪なら言いそうです。でも、リラには無責任になる。何が大丈夫か、澪にも分からないから」
ひなたは画面から目を離し、佐久間を見る。
「お前も分かってるじゃないか」
「そりゃ、何年このタイトル書いてると思ってるんですか」
「二年」
「そこ、正確に言わなくていいですよ」
佐久間は照れたように視線を逸らす。
自分一人だけがキャラクターを理解しているわけではない。
それは本来、喜ぶべきことだ。
自分がいなくても、澪を澪として見られる人間がいる。
なのに、少しだけ寂しいと思った。
キャラクターを守ることと、自分だけのものにすることは違う。
分かっているのに、理解者が増えるほど自分の特別さが薄れる気がする。
AIへの恐怖も、同じ場所から来ているのではないか。
誰かが澪を正しく書けることが怖いのではなく、
自分でなくても正しく書けると証明されることが怖い。
その考えを、ひなたはすぐに振り払った。
今は、リラの一行目だ。
自分の存在意義を考えるために、キャラクターを使いたくなかった。
◆
ひなたは、その日の夜までに冒頭を書き上げた。
リラは白い部屋で目を覚ます。
自分の名前も、目の前にいる澪のことも知らない。
澪が名乗る。
リラは返事をしない。
「あなたは?」
尋ねられ、リラは自分の手首を押さえる。
「……私に、何も言わないで」
最初の台詞。
誰かに言葉を与えられる能力を持つ少女が、言葉を拒む。
この矛盾が、リラの中心になる。
敵襲。
避難できないリラの前へ、澪が立つ。
「怖い?」
リラは答えない。
言葉にした瞬間、それが自分へ刻まれる気がするから。
澪は無理に言わせない。
「なら、聞かなくていい」
剣を構える。
「私が勝手に、守るだけだから」
佐久間が画面を覗き込み、息を吐いた。
「澪、格好いいですね」
「リラの感想は?」
「面倒くさそうです」
「褒めてるか?」
「褒めてます。簡単に懐かない方が、先を見たい」
ひなたは原稿を読み返す。
評価項目は、画面の右端にある。
目的提示は遅い。
ゲームの核である刻印も、まだ行われていない。
データ班が読めば、何を言うか想像できる。
それでも、リラがいる。
白い器ではなく、他人の言葉を怖がる一人の少女が、画面の中で呼吸している。
「提出するぞ」
佐久間が提出フォーマットを開く。
企画意図。
想定体験。
感情の変化。
推しとなる要素。
プレイ動機。
百文字ずつ。
「“言葉を与えることを、救いではなく侵食として描く”」
佐久間が入力する。
「侵食って、強くないですか」
「強くていい。何を守るための原稿か、そこは誤魔化すな」
「説明は最小限って言われてますけど」
「最小限であって、ゼロじゃない」
提出フォーマットの「想定するユーザー感情」で、二人の手が止まった。
「“リラを守りたいと思う”でいいですか」
佐久間が尋ねる。
「早い。最初から守りたいと思わせたら、可哀想な子として消費される」
「じゃあ、“理解したいと思う”」
「それも、制作側の願望に近いな」
百文字以内。
長く説明することはできない。
ひなたは、何度も文章を打ち直した。
『拒絶されることで、プレイヤー自身の言葉が万能ではないと感じる。その上で、リラが何を恐れているのか知りたいと思わせる』
「九十三文字です」
「ぎりぎりだな」
「“プレイヤー自身の”を消せば短くなります」
「そこは残す。拒絶されるのは、ゲームの主人公じゃない。選択したユーザーだ」
佐久間はそのまま残した。
自分が書いた物語の意味を、別の人間へ渡すための文章。
本編とは違う。
けれど、これもシナリオライターの仕事なのだろう。
ひなたは、最後に原稿と説明欄を並べて確認した。
説明が原稿より分かりやすく見えることに、少しだけ不安を覚えた。
南雲へファイルを送る。
数分後、共有フォルダの表示が変わった。
『制作中』から、『評価待ち』へ。
これまでも、原稿を誰かへ渡すことは何度もあった。
如月が読み、プランナーが確認し、演出担当が意見を返す。
なのに、今日は違う。
誰がどこで止まったのか。
どの台詞を読み返したのか。
何に腹を立て、何を好きだと思ったのか。
その顔が見えない。
返ってくるのは、整理された評価だけだ。
「明日には結果が来るそうです」
南雲から連絡が届く。
早い。
早いことは、仕事として正しい。
修正する時間が増え、全体の進行も遅れない。
それでも、ひなたは『評価待ち』の文字から目を離せなかった。
書いている時は、確かにリラの声が聞こえた。
なのに、手を離した瞬間、自分の文章ではなく“提出物”になった。
今までと、何かが違う。
その違いが何なのか、ひなたはまだ言葉にできなかった。




