俺の文章は、どこにある
あれから数日が過ぎ、週も半ばとなった頃。
ひなたはいつも通りに席へ向かい、いつも通りにPCを立ち上げる。
(これから、どうなるんだろう……)
一抹の不安が襲う。
データ班の案で進めるという結果が出てから、
上のレイヤーでは会議が頻繁に行われていた。
今後の方針を話し合っているようだが、現場レイヤーは不参加のため、
具体的な決定内容は分からない。
制作は、それでも、進む。
進まなければならない。
時間は残酷で、人の都合など待ってくれない。
机の隅に、先週提出した企画書のファイル名がある。
三枚絵、短文化した抜粋、導線の箇条書き。
勝てる形に整えたはずの紙束は、今は薄く見えた。
薄いのは資料じゃない。
自分の自信の皮が、薄くなっているだけだ。
◆
「……柏木くん」
声をかけられて顔を上げると、如月さやと南雲りこが立っていた。
如月の声はいつもより低く、南雲は抱えた資料の端を強く押さえていた。
二人とも、表情だけは穏やかに整えている。
「神谷さんから連絡があったわ。
今日、今後の進め方の会議を入れるそうよ」
如月はそう言って、会議室の予約メールを見せた。
件名は、簡潔だった。
――『周年イベント:制作進行方針(データ班案)』
ひなたの喉が、微かに鳴る。
「……もう、走り出すんですね」
「ええ。走らないと、間に合わないからね」
「とりあえず……資料、ここまで整えました」
南雲の腕には、クリアファイルが二つ。
先週の受容性調査レポート。
制作班案とデータ班案の比較表。
自由記述の要約。
さらに、その先――「進行のための観点整理」まで入っていた。
「……準備、早いな」
ひなたが言うと、南雲は少しだけ笑った。
「怖いので。準備してないと、何かが崩れてしまうような気がして」
その一言が、胸に刺さる。
(南雲さんも、戦ってくれているんだ)
そう思えると、少し胸の痛みが和らいだ気がした。
◆
14時。会議室。
席順は、金曜とほとんど変わらなかった。
如月、神谷、三角、乙部、橋本、白石、南雲、佐久間。
美堂晃一郎――データ班の数名のメンバーも同席している。
机の中央に置かれたのは、企画書ではない。
今日は、これからの「進め方」だ。
神谷が淡々と口を開いた。
「先に確認。方針は決定している。今回はデータ班案で進める」
「ただし、制作の仕事が消えるわけじゃない。むしろ重要になる」
その言葉は救いにも聞こえた。
同時に、責任だけを残すための言葉にも聞こえた。
神谷は続ける。
「問題は、スケジュールと、判断の仕方だ。
作っては直し、直しては作り――その回転を上げる必要がある」
如月が頷く。
その頷きが、今までの現場を知っている顔だ。
美堂が画面を共有しながら言った。
「評価の観点を固定しましょう。ぶれがあると、回転が落ちます」
ひなたの指先が、膝の上で無意識に動いた。
“評価”。その単語が、もう喉元に来ている。
神谷が言い切る。
「結論から言う。今後、全ての制作物は――
南雲さんを窓口にしてデータ班へ渡す」
南雲が小さく頷いた。
準備していた顔だ。
「データ班は、評価とフィードバックを出す。
制作はそれに沿って修正する。最終判断は我々がする」
「ただし、判断材料の重みは変わる。これは、勝つための運用だ」
誰も言い返せない。
勝つため――それは、全員の合言葉だったはずなのに。
ひなたの胸の奥で、何かがゆっくり沈んでいく。
(……判断材料の重みが変わる)
つまり――自分の判断の重みが変わる、ということだ。
いや、もっと正確に言うなら。
(俺の判断が、決定にならない)
“決定”は、別の場所で起きる。
◆
南雲が立ち上がり、資料を配り始めた。
彼女の声は、いつもより少しだけ、会議向きの声になっている。
「提出形式を統一します。比較できるように」
「制作側の意図が伝わらないと評価もずれるので、
最低限の『狙い』だけ添えてください。長い説明はいりません」
“最低限”。
否定しようのない説明だった。
「観点は、先週の受容性調査を踏まえます。
冒頭5分の掴み、最初の変化の身体反応、推し感情、
絵の印象、プレイ意欲……」
南雲は淡々と読み上げる。
たぶん、彼女なりに「制作の強みも守れる」ように、観点を組んだのだ。
「柏木さんたちの強みである“余韻”や“間”についても、
自由記述の設問を用意します。
数値化が難しい部分は、言葉で拾えるように」
南雲は本気で、制作班の強みを評価項目の中へ残そうとしている。
その善意を疑えないぶん、“拾われる側”になったという実感が、喉の奥に苦く残った。
美堂が続けて口を開く。
「評価は、好みではなく“反応の再現性”で見ます」
「主観の衝突は回転を落とす。制作側の説明は、最小限で」
如月の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「“最小限”って言うけど、感情線は制作が握る領域よ。
数字で勝てない余韻もある」
美堂は勝ち誇らず、制作工程の確認をするのと同じ調子で言った。
「余韻も評価できます。言語化できる範囲で」
その瞬間、会議室の温度が一段落ちた気がした。
言語化できる範囲で。
それはつまり、言語化された瞬間に死ぬものは、評価の外に落ちる。
ひなたの脳裏に、澪の「間」が浮かぶ。
言葉の前の一拍、呼吸の癖、温度の揺れ。
それを“評価”に押し込めた瞬間、澪は装置になる。
金曜、橋本が言ってくれた言葉が、今度は逆方向から刺してきた。
(……装置に落ちる)
落ちないように、残して、削って、戦ってきたはずなのに。
◆
神谷が、役割分担を確定させる声を出す。
「南雲は取りまとめ、提出窓口、比較資料化。頼む」
「……はい」
「ここからは、専任として動いてもらう。
すでに上長の許可は得ている」
「もちろん、南雲に問題なければ、だが」
「はい、やります。やらせてください!」
南雲は即答した。
「データ班は評価とフィードバック。美堂さん、お願いします」
「承知しました」
「橋本さんは、商流と導線の観点で補助。
三角、施策整合。乙部は全体進行の目配せ。
白石はビジュアル案の提出」
「柏木には、引き続きシナリオを書いてもらう。
最初の方は大変だと思うから、最大限フォローは入れる。
認識合わせもあるだろうから、やり取りは小まめに頼む」
「……はい」
その言葉が、ひなたの胸に落ちる。
「佐久間は提出支援。つなぎと整形。必要なら、制作物の補助も」
「分かりました」
佐久間が小さく頷いた。
彼もまた、前に進むしかない顔をしている。
「……以上。今日からこの運用で回す」
神谷が締めの言葉を置いた。
「制作は終わらない。むしろ、ここからが重要だ」
「ただ、勝つために、勝ち筋の見える進め方をする」
勝ち筋、その言葉に、全員が頷いた。
ひなたは、自分の中で何かが割れた音を聞いた気がした。
自分が立っていた場所が、少しだけ後ろに下がった。
◆
会議が終わり、フロアに戻ると、いつもの音が戻ってきた。
キーボード、電話、椅子の音。
世界は、何事もなかったみたいに回っている。
南雲が、さっそく共有フォルダに新しい階層を作り始めた。
/review/1.5anniv/
/submit/
/feedback/
/compare/
フォルダ名が整っていく。
整っていくほど、逃げ場がなくなる。
「柏木さん、提出形式、これでいいですか?」
南雲が画面を見せてくる、提出物のテンプレ。
狙い、想定体験、ユーザー反応、導線、自由記述。
合理的で、綺麗で、正しい。
「……いいと思います」
ひなたはそう答えた。
答えながら、胸の奥がひりつく。
いいと思う、正しいと思う。
その正しさの中に、自分の居場所が削れていく感覚がある。
(俺は……何をする)
シナリオを書く。評価を受けて、通るまで直す。
その往復のどこまでを、自分の判断と呼べるのだろう。
――分かっている。
でも、その“分かっている”が、今日はいちばん残酷だった。
ひなたは、机の上のメモを見た。
先週、自分で書いた一行が、付箋の端に残っている。
『澪は、仲間を守るために前に出る』
その一行は、まだ熱い。
でも、熱いだけでは決まらない場所に、評価の主語が移った。
ひなたはゆっくりと息を吐いた。
吸って、吐いて、また吸う。
画面の白が、目に刺さる。
書こうと思えば書ける。
書く気だって、まだある。
でも、決まる場所が、自分の外にある。
その現実が、じわじわと指先から入ってきて、
心臓の奥の柔らかいところを冷やしていく。
ひなたは、モニターに映るフォルダを見つめた。
/feedback/ の文字が、黒い穴みたいに見えた。
そこに落ちたら、戻れるのか。
戻れないのか。
それすら、まだ分からない。
ただ一つ分かるのは――
自分の仕事が、今、形を変え始めているということ。
ひなたは、机の端を指で押さえた。
重さは確かにあるのに、どこを掴めばいいのか分からなかった。
喉の奥に、言葉が引っかかった。
出したくないのに、出てしまう。
出したら終わる気がするのに、出さないと、もっと終わる。
そして、ひなたは、心の中で、はっきりと呟いた。
俺の文章は、どこにある――




