期限、迫る!(前)
ひなたは自販機の缶コーヒーを片手に、執務室で作業を続けていた。
不思議と眠気はなく、高揚感のようなものに包まれている。
いいモノを作れた時は、いつもそうだ。
この感覚があるから、続けられる。耐えられる。
(後……少し)
最後の最後まで、できることは全てやろう。
誰かがフロアに入ってくる。
まだ始業時間には、かなり余裕があるはずだが。
「……うわ」
声の主は三角だった。
言葉が悪いのに、悪意がない。心配の驚きだ。
「先輩、それ……」
ひなたは返事の代わりに、片手を軽く上げる。
佐久間も、ひなたの隣で、同じように片手を上げた。
二人とも、鏡を見なくても分かる。
“ひどい顔”をしている。
「おはようございます……っていうか、帰ってないですよね?」
南雲りこが、目を丸くしながら近寄ってきた。
その顔が、褒める前に労わろうとしている顔で――逆に、胸に刺さる。
「ああ……帰ってない」
ひなたが短く答えると、南雲は眉尻を下げた。
「……やりきったんですね」
その言葉が、ねぎらいの言葉に聞こえた。
如月さやが、コツコツとヒールの音を立ててやって来る。
目を見ただけで、昨夜の全てが伝わったみたいに、如月は小さく頷いた。
「二人とも……ほんと、ひどい顔」
口調はいつも通りなのに、声の奥が少しだけ柔らかい。
「……いいの、出来たみたいね」
「……はい」
「佐久間くんも、ありがとう」
「あーもう、こんなの二度とやりたくないですよ!」
悪態をついてみせるが、佐久間もまた、
言いようのない高揚感に満たされているようだった。
「一応、印刷もしておきました」
佐久間が、鞄からクリアファイルを出す。
厚みが、現実の量を物語っていた。
「……読ませてもらうわ」
如月がそれを受け取る。
データが主流な中でも、意外と紙で読みたがる人が多い。
ただ、今回はこれだけの量になったという事実を、
物理的に表現したかったのかもしれない。
「とりあえずふたりとも、始業時間まで休んでなさい」
そう言って、ホットアイマスクを手渡す。
「それ、意外と効果あるわよ」
「徹夜明けの時は、特にね――」
如月が、そう言って笑う。
経験談のように聞こえるのが怖い。
「みんなも、会議までに読んでおいてね」
「うす。自分はデータで読むっす!」
ホットアイマスクをしてから、みんなの声が遠くなっていくまで、
そう時間はかからなかった。
◆
会議室の机に置かれたのは、企画書ではない。
昨夜、二人が書き上げた“原稿”だ。
「……これが、判断材料?」
制作進行が、恐る恐るページをめくる。
如月が淡々と言う。
「橋本さんは“読んで判断する”って言った。だから、読んで下さい」
「分かりました」
「しかし……この量を……一晩で?」
営業の橋本は、驚きを隠せないようだった。
制作の人間じゃなくたって、この厚みを見れば、異常さが一目でわかる。
プロデューサーの神谷が、机の上の紙束を見て、短く息を吐いた。
「周年だから、普段よりは長いと思っていたが……」
「ほんと……やりすぎだ」
感嘆というより、呆れに近い。
でも、その呆れは責めていない。
“やってしまった人間”を見ている顔だった。
ひなたと佐久間は、会議室の端の席に座る。
今回は、佐久間にも特例で出席してもらった。
自分のやったことを、きちんと知ってほしかったから。
席に座った瞬間、やっと会議という現実に戻った気がした。
如月が開始を告げる。
「読み合わせはしない。各自、読んで。30分」
会議室に、紙をめくる音だけが立つ。
キーボードの音がない世界が、逆に落ち着かない。
時間の経過が、永遠のように感じられる。
自分の書いたシナリオが読まれる時は、いつだってそうだ。
佐久間は、皆を睨むような表情で、固まっている。
ペラ、ペラ――
紙が擦れる音が、一定の間隔で刻まれていく。
橋本のページをめくる速度は、最初だけ速かった。
“読む”というより“確認”する手つき。
だが、途中で――止まった。
指が紙の端を掴んだまま、動かない。
目線が一行に固定され、次に行かない。
ひなたの喉が、乾く。
(……今、刺さった)
企画書では起きなかったことだ。
企画書は、見出しがあり、要点があり、正しい順番で並んでいる。
だからこそ、目が滑る。
“分かった気になる”スピードで流れていく。
でも原稿は、滑らない。
滑ろうとすると、感情で引っかかる。
会議室の空気が、少しずつ変わる。
音が減る、呼吸が浅くなる。
「……はい、時間」
如月が切る。
それだけで、紙の音が止まり、全員が息を戻す。
最初に顔を上げたのは、白石だった。
アートディレクター、言葉は少ないが、目で分かるタイプ。
白石は、ひなたを見る――のではなく、紙束の上を見る。
「より鮮明に……絵が見えました」
ぽつり。
小さい声なのに、会議室の中心に落ちた。
「まるで、澪の感情が伝わってくるような緊張感。
それが、目の前で起きているかのように」
三角が、息を吐く。
「……企画書の時より、ヤバいっすね」
「俺、澪のこと勘違いしてたかもしれない。
そのくらいの衝撃が、あったっす」
南雲が頷きながら、言葉を探す。
「つ、月並みなことしか言えないですけど……」
「企画書だと“説明”に見えた部分が、原稿だと“体験”に見えます!」
如月が短くまとめる。
「つまり――」
一同の視線が集まる。
「企画書だと伝わりにくい。原稿なら伝わる。――今、全員が体感した」
「そういうことで、いいわよね」
その言い方が、強かった。
如月は、結論を先に固定する。
会議が散らばらないように。
神谷が頷く。
「ここまで読んだ上で言う。内容はいい。勝負できる」
ひなたの胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
けれど、橋本はまだ紙を見ていた。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「……柏木さんが言っていたこと、伝わってきました」
その言葉は、橋本の口から出ると、妙に重い。
軽い褒め言葉ではなく、条件を飲む前の事実確認。
橋本は続ける。
「企画書で“売りの一文”が欲しいって言ったのは、撤回します」
三角が目を見開く。
橋本は淡々と、しかしはっきり言った。
「一文で説明した瞬間に、作品が装置に落ちる。
澪が“説明のための人形”になる」
「……それは、本位ではありません」
会議室に、小さな安堵が広がる。
対立の線が、少しだけほどけた。
「だから、見つけるしかない」
橋本が視線を如月に戻す。
「言葉以外で“引っかかり”を作る方法を――」
如月が、少しだけ目を細める。
「……どうやって?」
その言葉に橋本は腕を組み、考え込むような姿勢を取る。
「これは、あの時の……いや――」
「とりあえず、言ってみて」
橋本は、机の端に置かれたボールペンを取った。
紙の余白に、枠を三つ描く。
「……三枚です」
「企画書の冒頭に、三枚の画像を入れる。読ませる前に、見せて刺す」
「企画書って、読み手の時間の奪い合いなんですよ。
文章で理解させるのは時間がかかる」
「でも、視覚で“想像”が起きたら、理解の前に“引っかかり”が生まれる」
南雲が、息を吸う。
「三枚で……?」
橋本は頷く。
「カット1:いつもの澪。警報灯、結界、前へ出る背中。“守る”が見える」
「カット2:同じ構図で、欠けた澪。目だけが遠い。泣かせない。温度が落ちる」
「カット3:仲間が前に出る背中。澪の手が止まっている。
“今、彼女は何を守っている?”で切る」
三角が、思わず言う。
「……それ、ネタバレしないのに“欠けた”が分かる」
「そう」
橋本は即答した。
「失ったものを説明しない。でも“失われた”は五秒で分かる」
「それをSNSに落とす。バナーも同じ三枚の切り口で統一する。
結果、復帰導線としても機能する」
乙部が、楽しそうに笑う。
「うわぁ〜営業っぽい……! でも、作品を壊さないの、いいねぇ〜」
如月が、即座に判断する顔になる。
「……その三枚、企画書に載せる前提で詰める。
橋本さん、紙面の構造も作って」
橋本が頷く。
「読み順も作ります。三枚→短文→箇条書き→最後に“誓約同調”。
最初に脳に刺して、後で意味が追いつく構造で行きましょう」
如月が、机を軽く叩いた。
「いい。これでいく」
「あと……問題は」
如月の視線が、白石に向く。
「白石くん。今日中に、ラフ三枚。描ける?」
会議室が、静かになる。
“今日中”という単語が、針みたいに刺さる。
白石は一瞬、目を瞬かせた。
驚いたのは、頼まれたことじゃない。
頼まれたタイミングと、背負わせる重さだ。
「…………ええと」
声が少しだけ揺れた。
それは弱さではなく、計算の音。
ひなたは、白石の指先を見る。
ペンを握る人間の指先は、緊張すると微かに動く。
白石は、原稿の束に視線を落とした。
昨夜、ひなたと佐久間が削った時間が、紙の厚みになっている。
白石は、息を吐いて――顔を上げた。
「……分かりました、やります」
「いえ……やらせてください!」
それだけでも十分すぎる答えだったのに、白石は続けた。
珍しく、言葉を足す。
「正直、無茶だと思いますけど――」
小さく笑う。
でも、その笑いは弱くない。
「でも……柏木さんたちが、昨夜ここまでやってくれたんだから」
ひなたの胸の奥が、きゅっと鳴る。
白石は、はっきり言った。
「僕だって、アートディレクターとして――やってやりますよ!」
如月が、短く頷いた。
「ありがとう。ラフでいい。完成度より“刺さり”優先」
白石が、すぐに確認に入る。
「カット1は背中でいいですか? 顔は見せない方が“守る人”が立つ」
「いいと思う」
ひなたが答える。
「カット2は澪の顔を見せる。目だけ遠い。けど、泣かせない」
三角が頷く。
「カット3は、仲間の背中。澪の手が止まってるのが効く」
橋本が、営業の声で押す。
「“止まってるのに武器は握ってる”。
その矛盾が、欠けたを説明なしで伝える」
白石は頷いた。
「了解です。今すぐ絵に起こします」
◆
如月が、最後に決める声を出した。
「この案で行く。今日中に“企画として”提出する」
会議室の空気が、一段階変わる。
決まった瞬間の空気だ。
迷いが消える代わりに、やることが増える。
如月は手帳を開き、役割を切り分ける。
「三角くんはゲーム的な企画概要。報酬・遊び・導線、今日中に整える」
「はい!」
「了解〜♪」
「橋本さん、営業的な訴求。SNS・バナー・復帰導線の設計。
紙面に落とせる形まで」
「やります」
橋本の返事は短い。だが、もう壁の外の声ではなかった。
「乙部は、悪いけど……全体進行。
特に、三角くんと橋本さんのサポートをお願い」
「は〜い! ちゃんと“成立”する形にしてみせるよ〜!」
「南雲は企画書の骨子。今日中に“読む順番”を作って。
できた資料は、ラフでいいからみんな、南雲に送って。
整形も、行けるわよね?」
「……はいっ!」
「白石くん、ラフ三枚。今日中」
「……やります!」
白石が立ち上がる。
立ち上がった瞬間、もう会議室にいない顔だった。
頭の中に線が走っている。
如月が、ひなたと佐久間を見る。
「二人は私と一緒に“刺す”部分を詰めてもらうわ。
原稿を元に、企画書に引用する箇所、抜粋を作る。
余計な説明は削って、刺す一文だけ残す。いい?」
「はいっ!」
二人の声が重なった。
ひなたは頷いた、佐久間も頷く。
目の下にクマがあるまま、ちゃんと戦う顔をしている。
会議が終わる。
椅子が引かれ、紙がまとまり、全員が一斉に動き出す。
白石は会議室を出る直前、ひなたの横を通りながら小さく言った。
「……柏木さん、昨日の澪、見えました」
ひなたは、返す言葉が見つからず、ただ頷いた。
白石はそれだけで納得したように、執務室へ戻っていく。
今日中に、三枚、絵で、会議を通す。
如月も立ち上がり、歩きながら言う。
「今日が勝負よ……みんな、最後のひと踏ん張りね」
その背中は、いつもより少しだけ大きく見えた。
フロアに戻ると、キーボードの音が一斉に増え始める。
それは、昨夜の二人の音とは違う、組織の音だ。
全員が、同じ方向へ走る音。
ひなたは自席に座り、原稿のデータを開く。
画面の白が眩しい。
けれど、昨日の白とは違う。
今日は、三枚の絵が“言葉の代わり”になる。
言葉だけで伝えられなかったものを、絵の中で刺す。
(これで……良かったんだ)
ひなたは息を吐いて、指を動かす。
締め切りに追われる手ではなく、勝ちに行く手で。




