証明するしかない(前)
会議室の扉が閉まる音は、拍子抜けするほど軽かった。
――決まった。
今日中に、書く。
やることがシンプルになり、ひなたは覚悟を決める。
如月が先に歩き出し、制作進行と共に次の会議へと向かっていく。
神谷は資料を抱えたまま、短く「頼む」とだけ言って去った。
残ったのは、ひなたの足元の重さだけだ。
◆
「……柏木さん!」
背後から小さく声がした。
振り返ると、佐久間真白が立っていた。
同じタイトルでシナリオライターをしている、ひなたの後輩だ。
「……会議の議事録、見ました。
明日の朝までにシナリオを書き上げるんですか?」
ひなたは、頷くだけで返す。
否定できないし、誇れもしない。
佐久間は一歩寄って、声を落とした。
「そんなの、ムチャクチャですよ!
企画書で理解してもらえなかったんですか?」
理解してもらえなかったのか――違う。
理解したうえで、まだ足りなかったのだ。
伝わりきっていない、という形で。
「橋本さんから、企画書で売れる形に落とせる“言葉”が欲しい。
そういうオーダーがあった」
「でも、言葉で全部見せたら終わる。
だけど、それじゃ話は平行線のまま終わらない」
「……だから、文章で感じてもらうしかない。
この内容なら、いけるってことを」
「そこまでする必要、あります?」
佐久間の言うことももっともだ。
きっと、あのまま議論を進めていても、案は通っただろう。
「……ある」
だが、ひなたはそう断言する。
理解してもらうだけじゃ、足りない。
「彼らが、上層部に対して本気で提案できるようにしないと、
結局、企画は死ぬ」
その言葉に、佐久間が眉を寄せる。
「それで……シナリオを全部書くんですか?」
「ああ」
佐久間は、そこで一度だけ黙った。
黙って、ひなたの顔を見た。
「……書いたら、企画は死なないんですね?」
「それは、書いてみないと分からない。
でも、書かなかったら――きっと後悔する」
「みんな、これでいいのか、と疑問を持ったまま進行する。
それは、その時点で失敗しているようなものだ」
佐久間の喉が小さく鳴った。
「はぁ……」
善意だ、純度の高い善意。
佐久間は、企画書の束を指先で軽く叩いた。
「イベントシナリオって、通常なら……50kbくらいですよね。
文字数にすると、二万五千字前後」
ひなたが黙ると、佐久間は続ける。
「……まあ、ゲームのシナリオって、キャラ名とか注釈とか入るから
実テキスト量としては、その八割くらいですけど」
そこまで言って、佐久間は企画書のページを捲った。
捲る速度が、だんだん遅くなる。
現実を数えている手つきになっていく。
「でも、今回のイベント……1.5周年ですよね。
あらすじから見ても、どう見ても50kbじゃ収まらない」
佐久間は、途中でページを止めた。
計算し直すみたいに眉を寄せる。
「150……いや、200kbくらいでも、おかしくないですよね?」
その言葉に、ひなたは詰まる。
同じシナリオライターだからこそ、分かること。
「……まぁ、そのくらいかかるだろうな」
「それ、短い文庫本一冊分くらいの量ですよ……?
そんなの一晩で書けるわけないです」
「でも、やるしかない」
「……というか、誰も突っ込まなかったんです?」
「いや……特には」
「……まぁ、そんなこと、本業じゃないと分からないでしょうからね」
佐久間は息を吸って、吐いた。
そして結論だけを投げる。
「……バカげたこと言ってるって、分かってます?」
ひなたは笑わない。
笑うと、正解になってしまう気がした。
「……分かってる」
佐久間が詰める。
「今から言って、冒頭だけとか、交渉できないんですか?
本当に……そこまで書かないと、分かんないんです?」
ひなたは一拍置く。
交渉、という言葉が甘く聞こえる。
だが――
「彼らを本気にするには、これしかない。
……ほかに案があると思うか?」
佐久間の眉が少しだけ動く。
「それは……」
佐久間が言いよどむ。
代替案など、あるわけない。
彼らを説得するのが、ゴールじゃないのだから。
「なら、やるしかないだろ」
「……本当、柏木さんって早死にするタイプですよね」
そのまま、佐久間の目が半眼になる。
「とりあえず、やるしかないはわかりました」
「……僕に手伝えることは、ありますか?」
「……?」
「いや、まさか一人でやるつもりですか?」
ひなたは反射で返しかける。
「そのつもりだったけど」
「いや、絶対無理でしょ!
てか、そのくらいわかってますよね?」
「…………」
予想もしていなかった言葉に、ひなたは詰まる。
佐久間には無理をさせたくない、その思いが先に立つ。
「というか、お前にも締め切りがあるだろ――」
「いや、なに言ってるんですか」
佐久間が遮った。
珍しく、熱が乗っている。
「ここ、乗り越えなかったら次なんてないでしょ。
僕にだって、そのくらいは分かってますよ」
「それに……僕、嫌ですよ。柏木さんがいなくなった後に、
柏木さんの分の仕事も押し付けられるの」
佐久間は、子供っぽく笑って見せる。
だがそれは、冗談だけで言っているわけではない。
「……助かる」
佐久間は頷いて、即座に現実を切り分ける。
「担当、割りましょう。
僕、戦闘パートから書きます」
「戦闘……?」
「はい。そこなら、前後気にせず先に書けるんで」
「敵の圧、撤退命令、隊列、崩れ方。そこは“情報”で組める。
能力とかそういうのは――いったん、こっちで考えちゃいますよ」
佐久間は続ける。迷いがない。
「柏木さんは、起承転結の肝になるシーン。
特に……澪の感情が分かるところを、重点的に書いてください」
ひなたの喉が、少しだけ詰まる。
「そこは僕が書くわけにはいかないんで。
柏木さんの文章じゃないと、嘘になります」
「戦闘シーンが終わったら、シーンのつなぎの部分、担当します」
「会話の橋渡しとか、移動とか、状況説明とか。
間を作って、柏木さんが“刺す”ところに全振りできるようにします」
佐久間は一拍置き、最後に確認だけを投げた。
「――それでいいですよね?」
ひなたは、返事が遅れた。
迷ったからじゃない。
自分が、一人じゃないと実感できたから。
「ああ……それでいこう」
佐久間は「了解」とだけ言って、企画書を抱え直した。
「じゃ、戻りましょう!」
ひなたは頷いた。
頷いた瞬間、背中の重さが少しだけ軽くなった気がした。
◆
夜のオフィスは、静けさに包まれていた。
照明は落ち、空調の風だけが一定のリズムで流れている。
遠くのフロアで、誰かがコピー機を回す音が一度だけして、すぐ消えた。
残っているのは――二人分のキーボードの音。
ひなたは自席に戻り、鞄を床に置いた。
椅子に座るより先に、共有サーバーを開く。
フォルダの階層は、もう手が覚えている。
/scenario/event/1.5anniv/
まだ空っぽのはずだったそこに、空のファイルだけを作っていく。
プロットすら作る時間がない中で、それが最低限の道しるべだった。
「柏木さん」
背後から、佐久間の声。
眠そうじゃない。怖いくらいに澄んでいる。
「戦闘パート、先に入ります。撤退命令まで組みます。
そこで一回、切ります」
「分かった」
ひなたは短く返して、ファイルを新規作成した。
いつものテンプレ。キャラ名、音楽、注釈、SE。
書きながら、表示アセット、演出方針、声優への演技指示などを
補足するのは、もはや職業病だ。
(……輪郭だけは、掴めた。だが、まだ中身がない)
警報。校内放送。結界の軋み。
澪が前へ出る。
“欠ける”前の澪を、まず一行で立たせる。
指が動く。止まらない。
自分の中の“何か”が、形になっていくのを感じた。




