空虚な日常
会社から出たのは、日付が変わろうとしているタイミングだった。
自動ドアが閉まる音が、拍子抜けするほど軽い。
夜の空気はひんやりしているのに、胸の奥だけがまだ熱い。
エレベーターの鏡に映った自分が、思ったよりくたびれていて、
笑ってしまう。
疲れているのに、目だけが起きている。いちばん嫌な顔だ。
職場から出たら、すぐにオンオフのスイッチが切り替わるわけもなく、
体はまだ興奮状態のままだった。
頭の中では、未だに企画案がグルグルと回っている。
澪の“欠ける”瞬間。
仲間が前に出る時の呼吸。視線が一度だけ遠くなる、その一拍。
自分の中では最高の案ができたと思っていても、
まだ上はないか、考えは止まることはない。
勝手に上がるハードルに、自分で自分を追い立てている。
新人の頃は、経験を積めば慣れるものだと思っていた。
軽くなるものだと思っていた。
会議も指摘も締切も、数をこなせば日常になると思っていた。
だが実際は、見える視野が広がるにつれ、悩みは深くなり、
それに伴って、不安も深くなっていく。
気になる箇所が増える。守るべきものが増える。
そして守るために言葉を選ぶほど、心が擦れる。
こういう時、定時でスパッと切り替えられるような
仕事のことを、少し羨ましくも思う。
帰ったら完全にオフで、趣味で余暇を過ごす。
そういう生活に憧れるが、この仕事を続ける以上、
思考を止めたら負けだ。
ある大御所は、思考し続けることを楽しめなければ、
この仕事には向いていない、と言っていた。
自分を簡単に赦せるようでは、いいものは作れないと言う人もいた。
まだその境地にはたどり着いていないが、
それでも、一端を感じられるようにはなってきた。
……感じられるようになったのが、怖い。
慣れは、麻痺に似ている。
麻痺した瞬間、何が大事だったかを忘れる。
「何か……どっと疲れたな」
◆
駅までの道は、夜の静けさでいつもより長く感じた。
信号待ちの間に、スマホの画面が勝手に点く。通知はない。
ないのに、明かりだけが「まだ終わってない」と告げているようだ。
電車の中は、思ったより人がいた。
スーツの男女、コンビニ袋をぶら下げた学生。
みんな無言で、少しだけ疲れている。
自分だけが特別じゃない。
それで少し楽になって、同時に少しだけ虚しくなる。
窓に映る自分を見て、また笑いそうになる。
さっきと同じ顔。
――いや、さっきより目が冴えている。
電車を降りる。
改札を抜けたところにコンビニがあって、つい寄ってしまう。
惣菜コーナーで立ち止まる。
弁当は高い。
おにぎりですら200円以上するなんて、昔からは考えられない。
結局、何も買わずに出る。
袋がない手が、逆に軽い。
コンビニには、時間つぶしのために入っているのかもしれない。
今日という日を、空虚のまま終わらせたくない。
そんな気持ちの表れかもしれない。
◆
アパートの廊下は暗く、足音がやけに響く。
鍵を差し込む時、指先が少しだけ震えているのに気づく。
疲れているのか、興奮しているのか、よく分からない。
玄関の鍵を回す。
ガチャ、と小さく鳴って、部屋の匂いが出迎える。
平日のほとんどを寝るためだけに帰る部屋は、
週末から何も変わっていなかった。
テーブルの上には溜まった郵便物、畳みきれていないタオル。
充電ケーブルだけが必要な場所にあって、そこだけ生活感があった。
家に入ると、まず、手を洗い、そのまま冷蔵庫を開ける。
どんな状態でも、お腹だけは空く。
その瞬間、どこか日常を取り戻したかのような感覚になる。
「食べるものは……と」
中身は、思ったより普通で、思ったより寂しい。
卵、納豆、カット野菜。
賞味期限が明日のヨーグルト。
よく分からない瓶の調味料が一本。
買った覚えはある。
ただ、何に使うつもりだったのかは思い出せない。
そういう“忘れ方”が、いちばん嫌だ。
「本当……なにもないな」
誰に言うでもなく呟いて、冷蔵庫を閉め、コンロに火を点ける。
フライパンがカチ、と小さく音を立てる。
卵を落とすとき、殻が少し混じる。
箸で取ろうとして、黄身が破れる、取れない。
「……ん、もう―!」
自分の不器用さに呆れてくる。
諦めて混ぜるが……何年一人暮らししているんだと。
結局、スクランブルエッグになる。
最初からそのつもりだった顔をして、塩を振る。
振りすぎた気がして、一瞬止まる。
止まって、結局もう一振りする。
疲れていると、感覚が鈍る。
ご飯は、冷凍のをレンジに入れる。
ピッ、という電子音がやけに元気で、笑えてくる。
家に炊飯器がなくても温かいご飯が食べられるというのは、
自炊はしないが外食もしない身としては本当にありがたい。
本当はもっと稼げていれば……と悲しいことは考えないようにする。
考え始めると、止まらない。止まらないのは、企画だけで十分だ。
◆
お腹を満たした後、テレビをつける。
チャンネルを回す、通販、ニュース、バラエティ。
こんな時間に通販で買い物をする人なんているのだろうか、といつも思う。
「これで変わる」みたいな言葉が、妙に眩しい。
こんなもので変わるなら苦労しない、と思いながらも、
もしかしたら、に惹かれて、皆、購入してしまうのだろう。
テーブルに皿を置き、座る。
面倒くさいから、すべてを一皿に盛り付けたもの。
コスパがいい、いや、タイパだろうか。
「箸どこいったんだ……」
仕方なく、割り箸を持って食べる。
塩が足りない。かなり濃く味付けしたはずだが。
きっと疲れているんだろう……そう思い、塩を足す。
健康のことを考えるなら、仕事を疑ったほうが早そうだ。
疑ってどうにかなるなら、最初から疑っている。
食べながら、ソファの上のクッションを抱える。
抱えた瞬間、肩がストンと落ちる。
自分の身体が、ようやく自分の部屋を思い出したみたいだ。
この重さがないと落ち着かないのは、きっと寂しさのせいだ。
寂しい、という言葉は弱い。
弱い言葉を避けてきたせいで、余計に寂しい。
食器を流しに運ぶ。
水を出す、泡を立てる。
皿がきゅっ、と鳴る。
意外とマメだなと思いつつ、やり残しが気になるだけの小心者なんだろう
と独り言ちる。
洗い終わった皿を、乾かすラックに立てる。
すでに数日分がたまっていることに気づき、
小心者という自己分析が正しかったことに気づく。
気になるなら溜めるな、と自分に言って、言って終わる。
改善する気力は、今は残っていない。
その後、風呂に入る。
湯気で鏡が曇る。
何も考えない、ができるのはこの時間だけだ。
シャワーの音で、頭の中の会議室が流れていく。
それでも、完全には消えない。
湯船に沈んで、息を吐く。
指先まで温かくなっていく。
肩の奥に残っていた硬さが、少しずつ溶ける。
溶けていくのに、胸の奥の熱だけが残る。
(明日のことは、明日の俺が何とかしてくれる)
そう思い込むことで、ようやく世界が静けさを取り戻す。
そうして、しばし目を閉じた。
◆
風呂から上がり、髪を拭く。
ドライヤーの音が、部屋に鳴り響く。
誰もいない部屋では、このくらいの活気があったほうが落ち着くなと思うのは、
独り身の寂しさを感じているからだろうか。
部屋に戻ると、タオルを首に掛けたまま、付箋を一枚剥がす。
今日の自分の気持ちを、何かに書き留めておきたかった。
『仲間』
書いて、机の端に貼る。
明日の自分が、これを見て笑ってもいい。
でも、見失うよりはずっとマシだ。
見失った瞬間、澪がただの“正しいキャラ”になる。
それだけは嫌だ。
自分の都合のための正しさは、作品を殺す。
テレビの音はまだ小さく続いている。
ひなたは椅子に座らず、立ったまま一度だけパソコンのモニターを開いた。
今日は、書かない。――と決めるために。
その代わり、メモ欄に一行だけ打った。
『澪は、仲間を守るために前に出る』
画面を閉じて、息を吐く。
ようやく、オフに戻る。
机の端に置いていたスマホを手に取る。
画面は黒いままなのに、指先だけが勝手に反応しそうになる。
癖だ、通知が来ていなくても、確認したくなる。
確認したところで、何かが軽くなるわけでもないのに。
ひなたは、スマホをそっと裏返した。
画面を伏せ、世界との繋がりを閉じる。
それだけで、部屋の静けさが増した気がする。
少なくとも――今夜は、これ以上の“仕事”を入れない、と理解できた。
(……後は、明日の俺に——)
その夜、ひなたはようやく眠りへ落ちていった。




