第5話 少しだけ遠い
ヴァスケスとの潜入調査の初日が終わった。
ニコはいつもの訓練以上にヘトヘトだった。
入ってくる情報を頭が処理しきれなかったのだ。
「(貧富の差がある事は知っていたけど……これほどだったとは……知らなかったでは済まされないのかな)」
ヴァスケスの言葉の通りなら、王国には王国の言い分があり、貴族には貴族の、平民には平民の言い分がある。
「(スラムの人達は、言いたい事も言えないのかな)」
そんな事を考えているせいで、顔色の悪いニコにフロムが声を掛ける。
「ニコ、どうした。調子悪そうだな」
「フロム……」
「……ああ、ヴァスケス班長とスラムの調査に行ってたんだっけ」
「うん」
「で、スラムの雰囲気にあてられた……ってところか」
「……よくわかるね」
「まあな。貴族の子女はあんな世界があるなんて、ほとんど知らないからな」
「フロムは知っているの?」
「うちは辺境に近いからな。此処までのスラムは無いけど、大抵の大都市にはあんな場所があるぞ……それに」
フロムは一度言葉を切ってニコを見つめる。
「王都のスラムはまだマシな方だぞ……王都以外だったら強制的に排除されたりするし」
「……そうなんだ……」
フロムの説明を聞いて、ますます元気がなくなるニコ。
「まあ、こればっかりは自分で消化するしかないからな……人に価値観を押し付けられても困るだろ」
「……フロム」
「それに、ニコが悩むってことは、それだけニコが真面目で、真剣だって言う事さ」
フロムはそう言ってニコの肩を叩く。
「辛くなったら言って来い。飯ぐらい付き合うぞ」
そう言ってフロムが立ち去っていく。
「(ありがと、フロム)」
ニコはフロムと話して、少しだけ心のもやもやが晴れた気がした。
◆
満月の夜。
スラムの奥。
聖人と呼ばれた男が、朽ちた教会の中にいる。
聖人はボロボロになった祭壇に向かい、何かを訴えるように祈っていた。
そこに一人のガタイの良い男が入ってくる。
男は聖人の後ろに立つと、静かに声を掛ける。
「慈しみの人よ……」
聖人は祈りを止め、ゆっくりと振り返る。
「時はまだ満ちませんか……」
男が尋ねる。
「……いまだ、その時にあらず……ただし、その時の為に準備せよ……と、偉大な方は仰っている……」
「……わかりました……まだ蟄伏の時なのですね」
そう言って男は顔を上げる。
その男は、第一騎士団を襲撃した、あの盗賊の頭目だった。
頭目は聖人に話し掛ける。
「先日、王国の力を図りましたが、それほど恐れるモノは無いように感じました」
「今の状況でも、力押しで行けると……仰りたいのですね」
「はい。王国の在り様は周辺国に多大な影響を与えております……このままでは、いつ紛争が起きてもおかしくありません」
「……」
「一刻も早く、この王国を何とかしなければ……かの国のように……」
「止めなさいっ!!」
聖人が突然大きな声を出して、男の発言を遮る。
「……その話は……禁忌である……」
そして再び穏やかに言った。
「……いま、持ち出す話ではない」
「失礼いたしました……しかし、お忘れなきよう……我らが忠誠は恩方のみに捧げられております……」
「……」
頭目はそう言うと、静かに頭を下げる。
そして来た時と同じように、足音も立てずに朽ちた教会から姿を消す。
そこに残されたのは、壊れた屋根の隙間から差し込む月明かりと、その月明かりに照らし出される聖人の姿だけだった。
◆
ヴァルキュリア騎士団宿舎。
4人部屋の中にはニコとアグネスが他愛もない話に興じていた。
「フロムは夜間警固か……大変そうだね」
「大変そうじゃなくて、大変なんだよ」
アグネスが苦笑しながら訂正する。
「今の台詞をフロムが聞いたら、暫く口をきいてくれないぞ?」
アグネスが冗談めかしてそんな事を云う。
「止めてよ……フロムが怒ると怖いんだから……アグネスは知らないだろうけど、フロムは本当に怖いんだよ」
「うふふふ。その位の距離感が一番いいんだよ。あたしはそこまでフロムに怒られたことが無いからね」
「アグネスは真面目だからだよ」
「違うよ……あたしは真面目じゃない。真面目を装っているだけさ」
ニコはその時、なんだかアグネスが急に遠くの存在に感じてしまった。
なので、つい話を変える。
「そう言えばさ、ヴァスケス班長とスラムの調査に行ったんだよ」
「そう言ってたね」
「それでさ、あたしはスラムの状況を何にも知らなかったんだなって……びっくりするくらい知らなかった」
「……たとえば?」
「一番はやっぱり、井戸が無い事。それどころか、井戸を掘るのも禁止なんて……厳しすぎるよね」
「……」
アグネスは無言でニコの話を聞いている。
「せめて井戸くらい掘れるように出来ないかな……実際凄く不便だし」
「……井戸が一つできたって、事態は変わらないよ」
「えっ?」
アグネスらしくない冷たい言葉だった。
気まずい沈黙が訪れる。
先にその沈黙を破ったのはアグネスだった。
「……悪い。明日早いんだ。先に寝るよ」
「う、うん。なんか、ごめんね」
ニコが声を掛けるが、アグネスはニコに背中を向けてしまう。
「(なにか気に障ること言ったかな……)」
ニコは暫くアグネスの背中を見つめていたが、仕方ないので自分もベッドの上に寝転がる。
「(明日も、ヴァスケス班長と調査か……知らない事がいっぱいだ……)」
そう呟いて目を瞑るのだった。




