第9話 スラムの福音
華やかな王宮から離れた場所。
同じ王都にありながら、誰からも見向きされない場所。
そんな場所でも、そこに人は存在し、生活していた。
そこに暮らす人々にとって、王宮での出来事や、貴族たちの苦労などは関係ない。
日々の暮らしを如何に継続するか……明日をも知れぬ今日を、どう生き抜くかが全てだった。
「相変わらずの状況だな此処は……何度来ても気が滅入る」
「そう言うな。此処で暮らす者も多い。滅多なことを聞かれると面倒だぞ」
二人の男は下級官吏であった。
定期的に王都の彼方此方を調査し、調査報告書を作成し、上司に提出する。
最も提出した調査報告書が、効果を発揮したなどという事は全く聞いたことが無かった。
「こんな調査をしたって、誰が報告書を読むって言うんだ?」
片方の男が、脳内にボンクラ上司の顔を思い浮かべながら愚痴をこぼす。
「まあ、俺達は俸給の分働けば良いんだよ。深く考えるな」
こっちの男は既に色々諦めていた。
だから見逃した。
いつもならこの辺りに、もっと人々が屯していた事に。
不自然なほど静かな事に。
この辺りはスラムと呼ばれる。
平民にすらなれない人々が集まる場所。
そんなスラムの奥に、人々が集まっていた。
一人の人物を中心に、円形に取り囲むように。
「あなた方は、救われる権利を持っているのです……一部の人間が富を支配する……このような状況を……我が主神は許しません」
その人物は、男とも女ともつかない声音で人々に語り掛ける。
「ささやかではありますが、今日の糧をあなた方に提供します」
「「「「「おおおっ」」」」」
集団から声が上がる。
中央の人物が手を差し出す方向に、大きな鍋を持った人物が現れる。
彼らはその鍋を地面に置いて、両手を広げる。
「どうぞ……ささやかな糧を」
大鍋には、なみなみと入ったスープ。
人々が鍋に殺到する。
道端には痩せ細った子供が座り込み、濁った水路からは鼻を刺すような臭気が漂っている。
壁際には咳き込む老人。
顔色の悪い女。
そして、生気のない目をした人々。
そんな場所だからこそ――。
温かいスープの香りは、あまりにも魅力的だった。
中央にいた人物をその光景を見つめながら、ほんの少し口角を上げるのだった。
◆
「ダニエルよ。何で俺達が王都の警備なんかしてるんだよ。こんな仕事は第一騎士団の仕事だろ?」
「第一騎士団は王都周辺の警備に駆り出されているのは知っているだろう」
ダニエルは近衛騎士団に所属する騎士だ。
同年代の騎士たちの中では、頭抜けている存在で、次期小隊長との声も大きい。
ダニエルと一緒に警備をしている騎士は、高級貴族の次男坊。
家督を継げないので、近衛騎士団に在籍している。
近衛騎士団に所属している騎士たちの多くは、後者の境遇から騎士になったものが多く、士気はそれほど高くない。
そんな境遇の中、ダニエルは何とか結果を残そうと行動しているのだが……あまりいい顔をされない。
「しかし、王都の周りがそんなに物騒になっているなんてな……知らなかったぜ」
「王国に隣接する周辺国でも、同じように政情不安が起きている……何か意図を感じるが、まだわからん」
ダニエルが吐き捨てるようにそう言う。
「ふん。真面目なこって……」
ゴーン、ゴーン……。
その時、王都の鐘が鳴るのが聞こえた。
「おい、そろそろ昼だ。戻ろうぜ」
「……仕方ないな……午後もきっちり警護するぞ」
「はいはい」
ダニエルは心の中に何か不穏なものを感じるが、それが何かは分からなかった。
■何度目かの王女との邂逅
激励会から数日後。
午後の緩やかな日差しの中、王女が庭園のガゼボにいた。
白い石柱に絡みつく蔦。風に揺れる薄布のカーテン。
離宮の庭園は王宮本館と違い、どこか静かな空気に包まれている。
背後には専属メイドのエステル。
そしてヴァルキュリア騎士団からニコが派遣されていた。
王女が読書の手を止める。
「エステル。お茶請けには先日公爵様より頂いたフィナンシェが合うと思うの」
その一言で、エステルは一礼する。
「すぐにお持ちいたします」
そう言いながら、視線はニコの方を見る。
その視線に気づいた王女が、扇子で口元を隠しながら言葉を続ける。
「大丈夫よ。此処は離宮だし、こんなに頼りになる騎士団の方がいらっしゃるのだから」
「失礼いたしました」
エステルはそう言って、ニコに目礼するとガゼボから足早に移動する。
足音が遠ざかる。
庭園に静寂が戻った。
爽やかな風が流れる。
木漏れ日がテーブルの白磁を淡く照らしていた。
「……なによ。言いたい事があるなら言いなさいよ」
王女は頬を膨らませながらニコに文句を言う。
「いえ、いつもながら見事な猫かぶりだなと思いまして」
「失礼ね」
そう言いながらも、王女――フラウはどこか楽しそうだった。
王宮で見せる完璧な笑みではない。年相応の少女の顔。
ニコは小さく肩を竦める。
「だって、さっきまで眠そうに欠伸してた人と同一人物には見えませんし」
「っ……!」
フラウは慌てて扇子を広げる。
「み、見ていたの!?」
「見えてました」
「最低……」
そう言いながらも、本気で怒っている様子はない。
風が吹く。
金色の髪が揺れ、ガゼボの白いレースがふわりと舞った。
その穏やかな時間の中で、フラウが不意に口を開く。
「ねえ、ニコ」
「はい」
「二人きりの時は『フラウ』と呼んで欲しいの」
「殿下……」
「ニコと私は同い年でしょ。同世代に私を愛称で呼ぶ者なんかいないんだもの」
王女の秘密を共有しているニコとしては断りづらい要求だった。
しかし。
「……無理ですよ。そんなの」
ニコがそう返すと、フラウは露骨に不満そうな顔をする。
「どうして?」
「どうしてって……恐れ多いというか」
「またそういう言い方する」
フラウは小さく唇を尖らせる。
「ニコは時々、私のこと王女として見てないくせに、変なところだけ急に畏まるのよ」
図星だった。
ニコは返答に困り、視線を逸らす。
最初は、王女なんて雲の上の存在だと思っていた。
豪華なドレスに囲まれ、好きなものを食べ、好きに生きているのだと。
けれど違った。
離宮に入ってから嫌というほど理解した。
王女は常に誰かに見られている。
立ち振る舞い。言葉遣い。食事。笑顔。
その全てに『王女らしさ』を求められている。
自由そうでいい――。
以前、フラウが口にした言葉が脳裏をよぎる。
今なら、その意味が少し分かる気がした。
「……じゃあ」
ニコは小さく息を吐く。
「フラウ」
その瞬間だった。
王女の表情が、ぱっと明るくなる。
「うん」
その笑顔は、王宮で見せる完璧な微笑ではなかった。
ただ同年代の少女が見せる、無邪気な笑顔だった。
――その時。
砂利を踏む音が近づく。
エステルだ。
するとフラウの空気が一瞬で変わった。
背筋が伸びる。
笑みが整う。
視線の角度さえ洗練されていく。
先ほどまでそこにいた少女は消えた。
「お待たせいたしました、殿下」
「ありがとう、エステル」
完璧な王女の声音。
ニコは思わず目を瞬かせた。
ほんの数秒前まで、頬を膨らませていた少女と同じ人物とは思えない。
だが。
紅茶を受け取る瞬間。
フラウはほんの一瞬だけ、ニコの方を見る。
そして誰にも気づかれないほど小さく、悪戯っぽく笑った。




